高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第四章 昭和恐慌と戦争の時代

第二節 阿久津村事件

二 阿久津村小作争議

 一月八日午後六時、かねて準備していた大日本生産党の「大衆党撲滅大演説会」が開催された。動員されたり、物見高さで集まった聴衆は九時に家路についた。警察の注意で不穏な行動をしないよう約束していた生産党員たちは石末の野沢の屋敷近くの合宿所と事務所に約四〇名が残り、他は宇都宮へ帰った。
 九日朝五時少し前、上野の家を出発した一五〇名の部隊は農民組合事務所を奪い返し、支部長宅の無事を確かめると、生産党の合宿所と事務所の攻撃へと進んでいったところ、気がついて迎え撃った生産党員と激しい白兵戦となった。生産党員は十分に準備した大衆党側によって打ち破られ死者四名、重傷者一二名を出して宝積寺方面へ逃れた。銃声や怒号に驚いて起き出した村人や通勤・通学の人々が騒ぎを遠巻きにして見ていた。警察官数十名もやはり遠巻きに監視しており、消防隊を招集する鐘もあちこちで鳴りはじめた。
 大衆党の部隊はその中を農民組合事務所へ引き揚げた。さらに、事務所から十数町いった三叉路まで来ると、総指揮官の田代は全員に解散をつげ、検挙に備えて必要な行動を各自随意取ることにした。ある者は密かに知人をたよって逃れ、ある者は家族と連絡して着替えをもって東京へ逃れたが、当日の夕方には五六名が捕まり、大部分は二、三日中に逮捕された。東京へ逃れた幹部たち・雨谷、螺良、上野、桑久保、田代、室井らも一月下旬から二月始めに党の指示で自首した。自首前に大屋らは警察の取り調べに対する党・全農の闘争方針等を相談して連絡していたという(生前の大屋談)。その一つは一月七日動員令を決めた会議には麻生が参加していないということだった。各幹部は予審判事がこの点に触れると一様に麻生の会議出席を否定している。
 三〇〇名に及ぶ大衆党、全農、全労組合員が未決に収監され、各県連は一時壊滅状態になった。全国からの救援と大屋とその家族の献身的な救援活動が刑務所に入った人々の支えだったという。七年六月に予審が終わり一〇九名が起訴されることになった。
 生産党の側は重傷者を大勢出したので大変だった。負傷者は神野病院へ八名、県立宇都宮病院へ六名(うち四名死亡)が入院した。
 事件の翌日の一月一〇日、石末には大衆党の再度の襲撃を警戒して生産党は党員を増派し、大衆党も組合事務所の党員を増やしたが、警察は五八名の警官を派遣して警戒にあたったので村内の平穏は保たれていた。同日、大日本生産党は本部名で「栃木県闘争事件顛末書」を発表して阿久津争議の概要を説いたあと「共匪(共産党のゲリラ)大衆党執行委員長麻生久の最大無二の根拠地たる栃木県」での「共匪暴虐事件」と非難した(史料編Ⅲ・三三一頁)。他方、全国労農大衆党本部も同日、この衝突事件について「声明書」を発表して「反動時局下に於ける無産階級運動の止むを得ない自衛行動」とし、これまでの生産党の行動は「無警察状態」であると批判した。さらに「栃木県は今尚再発の危機をはらんでいる。全国の同志は生産党粉砕のため、何時でも動員に応じられるよう武装待機せよ」と激しい指令を発した(黒沢幸一・前掲書、七〇頁)。
 一月一一日午後、警察は生産党代表八幡博堂、地主代表野沢茂堯、小作代表大屋政夫を呼び自由調停を企図したが、小作側は小作料六割減、地主側は二割減を主張し譲らないので不調に終わった。警察は地主側を説得して小作調停の申請をさせることとし、生産党には阿久津村からの即時引き揚げを命じた。生産党員(四一名)は一二日に宇都宮へ全員引き揚げた。また、野沢は当時、塩谷郡の連合在郷軍人会長をしていたが、この事件の責任を理由に辞任している。