高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第四章 昭和恐慌と戦争の時代

第二節 阿久津村事件

二 阿久津村小作争議

 昭和七年一月七日、宇都宮では労農大衆党常任執行委員会が馬場町の鮎沢屋旅館で開かれていた。党首の麻生を迎えての会議だったので、先日の生産党の襲撃のことを考えて、会場を大貫大八宅から密かに移し、大谷石材労組の青年三〇名ほどで警戒していた。会議では迫ってきた総選挙の情勢分析、麻生の当選の可能性と県連の選挙態勢の検討をしていた。
 午後四時ごろ、阿久津村を追われた組合員たちが大貫宅(党県連事務所)へ集まってきて、生産党の行状と石末の組合員の置かれた惨状を報告し、支援を訴えた。阿久津の現状報告と支援を頼みにきた片岡村の田中四郎が会議の席にきて話をしているとき田代松吉と雨谷義俊がきて「農民を見殺しにして何が選挙対策だ」「打ち捨てておいては大衆党の組織は壊滅し、将来の争議も出来なくなる」と田中の要請を支持した。それで、会議は麻生を退席させたうえで、阿久津村争議対策会議に切り換えられ、「阿久津村の農民を救い、党と組合の名誉を守るため」「全県下の農民組合に動員令を発する」ことを全員異議なく決めた(浜野清・前掲書、一三〇頁)。動員指令の主な内容は次のようであった。
 
  一 県内の大衆党、労働組合、農民組合の各支部より二〇〇名を動員する。各自護身のため武器を携帯すること
  二 動員は外部に漏れぬよう秘密を厳守するため動員指令は電信、電話、文書を用いず口頭連絡すること
  三 動員は人目につかぬよう夜陰に乗じて行う。電車、汽車等を利用する者は多数同じ駅から同時刻に乗車しないこと。トラックの場合は必ずシートを用いること
  四 集合地は塩谷郡熟田村大字上野の上野久内宅
  五 集合時間は昭和七年一月八日午後一〇時から一二時までに集合すること
  六 動員後の対策は集合地に於いて対策委員会を設け決定するも次の方針に従う
   1 部隊を編成し、指揮者を定め個人行動を慎む
   2 夜明けまでに石末の農民組合事務所を奪還し、此処に一時待機し、諸般の情勢を見極めた上、次の行動の対策をたてる
   3 生産党にたいしては積極的行動にでない、但し彼等が暴力を以て挑戦してきた場合には正当防衛の立場から徹底的に粉砕する
  七 動員費は大衆党、全国労動組合同盟、全農栃連の基金及び宇都宮市議選の黒沢、大貫の供託金四〇〇円也を一時流用する。不足分は小山町の昭栄製糸労組(当時争議中)より借入れること(実際は室井、雨谷の組合費保管金一〇〇円)
  八 螺良和男、雨谷義俊を連絡員とし、直に右動員計画を敢行する
  九 常任委員中、当分宇都宮市に在る者を以て指導部とする(黒沢、藤原熊雄、村松慎吾、室井篤ら)
    (黒沢幸一・前掲書、五〇頁)
 
 動員令を出すと指導部は警察の目を逃がれて板屋旅館へ移りさらに市内を移動しながら動員の結果をまった。動員令をうけた全農、大谷石材労組の青年らは、横川・雀宮・大谷を主に北は那須、南は鹿沼から日本刀、猟銃などを隠し持ち、汽車、タクシー、人や竹槍をシートで隠したトラックなどでひそかに上野宅へ集まってきた。
 石末に生産党がきて全農阿久津支部の争議が苦境にたたされていることを知った全農全国会議派は、七日、支援農民が生産党に追い払われたことを聞いて、石末の籠関に組合員五〇名を動員して、熟田村支部を通じて上野久内に口頭で支援・共同闘争を申し入れたという。上野が全農県連事務所に連絡すると、居合わせた雨谷は螺良と相談して既定の方針だったようで、申し入れを断ることにして氏家の大衆党事務所に全会派の代表(大塚大一郎ら)に来てもらい、雨谷、螺良、上野が会って雨谷が厚意を謝し丁重に断ったという(浜野清・前掲書、一三七頁)。
 熟田村上野の上野久内の屋敷の長屋門の内には総勢一五〇人の動員部隊が竹槍、木刀、棍棒で武装していた。中には日本刀、搶、猟銃などもあった。奥座敷では統制委員会が開かれ、総指揮者田代松吉以下前衛隊、後衛隊と部隊が編成された。出撃に先立ち雨谷は「目的は農民組合事務所の奪還と組合員の救出」だからこちらから進んで生産党と事を構えないよう自重を求めたが、人々の生産党への怒りが強く、かえって幹部の弱腰を批判されてしまった。全員が出動すると、雨谷らは連絡のため宇都宮へ帰ってしまった。

図14 阿久津事件の第一報(「下野新聞」昭和7年1月10日号夕刊)