高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第三章 大正期の村政と産業の発達

第三節 宝積寺駅と烏山線の開通

四 烏山線の敷設と開通

 地元においては、明治三四年の烏山人車鉄道の計画以後鉄道敷設の目立った動きは見られなかった。しかし、烏山町在住の島崎善平ら二三名による「烏山宝積寺間軽便鉄道布設請願書」が、四四年に鉄道院総裁後藤新平宛に提出された。これにより、烏山線の第一歩が踏み出されたのである。請願書には、東北本線と常磐線との間の地域、つまり那須郡南部と芳賀郡北部、そして茨城県那珂郡・久慈郡の両郡の西部地域の林産物や農産物・特産物の輸送と旅客輸送のための鉄道敷設を請願した。鉄道はこれらの地域の中心地としての烏山と東北本線の宝積寺駅とを結ぶ路線として、併せて「鉄道用地寄付願」を添えて提出された。
 
   国有鉄道東北本線宝積寺駅より烏山町に至る軽便鉄道布設に要する線路用地及び其他一切所有の土地悉皆献納仕るべく候に付願意御採用の上 至急布設成し下されたく此段願上候也
    明治四十四年三月十五日
     烏山町 嶋崎善平 新井為吉 大橋清吉 川俣英夫 古田良実 船山啓治 大島与三郎、向田村 横山半一郎、荒川村 塩谷墾 佐伯勝夫 武井右助、北高根沢村 見目清 矢口縫太郎 加藤正信、阿久津村 小池与一郎 見目元吉、熱田村 鈴木良一(『烏山町誌』昭和二年)
 
請願書には沿線の有力者がこぞって名を連ねている。
 そして、その後、沿線の町村長の調印を得て、再び八月二一日付で「軽便鉄道布設に付請願」が鉄道院総裁原敬宛に出された。ここでは、宝積寺駅より烏山町に至る軽便鉄道敷設の後にさらに延長して、馬頭町・大子町(茨城県)を経て水郡線に連絡するか、茨城県の大宮町を経て常磐線に連絡するという考え方が示された。これにより「下野の中部と常陸、磐城の東海岸とを連絡する極めて利便な線路となり幹線の営養線として尤も適当なるもの」と位置付けた。ここで「営養線」という言葉を使い、利用価値をアピールしたのである。そのためにも第一期線としての宝積寺―烏山間の鉄道を至急敷設してもらいたい旨の願書であった。
 これを受けて、四五年二月二八日第二八回帝国議会の衆議院において宝積寺駅より烏山町に至る軽便鉄道速成建議案が可決された。この議決に際しては、三月一日付の官報号外(史料編Ⅲ・九五三頁)に掲載されたが、「鉄道速成ニ関スル建議案」が江原節他三名により提出された。その内容は、もちろん地元の考え方を援護するものであり、交通網の整備と地方の発展のためにも早急に軽便鉄道の建設を建議するものであった。併せて、地方の状況とともに各町村の米や麦・木材・薪炭などの生産高・人口が示され、その中で想定旅客数を一〇万人と見積り、貨物の輸出入を輸入二万六三九トン・輸出六万二二〇トンと算出している。その内訳をみると、輸入が肥料・食料・雑貨等であるのに対して、輸出が薪炭・材木・煙草・紙といった当時の特産物の特色がよく現われていて興味深い。こうした物産や旅客の輸送を通して、地域の活性化を図ろうとしたことがうかがえる。
 建議案の可決により、五月一七日に烏山小学校において烏宝軽便鉄道期成同盟会の設立総会が開かれ、建設に向けて組織化されていった。しかし、この期成同盟会の会員は、そのほとんどが烏山町在住者であった。その後、烏山への鉄道敷設計画は「烏宝線」の名で新聞に取り上げられた。