高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第二章 宝積寺駅の開業と地主制の成立

第六節 農会の成立と農業生産の展開

四 用水の整備と水車

 石油発動機やモーターが出現するまでの長い期間、水車は人々の生活の中で動力として重要な役割を担っていた。特に農村では精米・製粉は水車の重要な役割だった。明治初年の高根沢地域には五行、井沼、冷子など中・小の河川や用水路が多かったから、これらの水路を利用した水車の数も多かった。明治四年の太田組合村の水車稼ぎ人は次のようだった。
 
 太田三人、平田九人、西高谷一人、栗ケ島三人、前高谷二人、上高根沢八人(ただし水車数一一)、桑窪、上柏崎は〇で計二六人、水車数二九
 
 水車の輪の直径は九尺から一丈二尺の大きさで、搗臼は一斗から一斗八升搗の大きさのものを六個から一二個、挽臼は一尺三寸から一尺八寸のものを一個備えていたが、挽臼のない水車も三つあった。また、明治二六年の町域三か村の水車数は阿久津村二七、北高根沢村四〇、熟田村二六で計九三あった。水車営業は米・麦の賃搗と小麦の賃挽(製粉)が主であったが、米の仲買を兼ねる者もいて水車に米を売った記録も多く残されている。また、大きい農家は水車を借り切って自分で精米、製粉をする場合が多かった。
 水車を作り営業するためには水車用の堀を掘り、水の使用を水利組合に認めてもらわなければならないが、水利組合の加入者が水車を営業する場合は稲作の妨げにならなければそう問題はなかったようである。田植えどきや水不足の時は水車堀への引水は制限されたり、止めることもあったという。水車営業を始める時の契約の例を幾つか見てみよう。
 最初は新しく堀を掘って水車を始めるときの契約である(史料編Ⅲ・七一一頁)。新しく水車を始める岡本又四郎は自分の山と同じく水車営業をしている岡本勘三郎の山を通って水路を造るので、堀敷の換地を勘三郎へ提供し、堀浚いは又四郎の負担とする。ただし、勘三郎が新規に水車を造ったときは双方で堀浚いを行う。互いに水車を休業しても水流の妨げ、堀浚いの妨げはしない。水車堀水口には長さ四間、末口五寸の枕木一本を入れておくが、春八十八夜から秋彼岸までは取っておく。以上が契約の内容である。
 次は水車敷地を借りて水車営業をするとき、地主にどんなサービスをするかが分かる契約である(史料編Ⅲ・七一二頁)。借主加藤六平の土地賃借期間は明治三三年三月から四〇年三月までの八年間で、返地するとき故障なく使えるようにした水車を引き渡すことが貸す条件である。さらに、年期中次のことを約束している。
 
  借受期間中
  ・地主には無料で水車を貸し、食い扶持分は無料で搗上、糠も渡すこと
  ・小麦を挽いたときは粉・しゃうふとも渡し、年期中毎年麦糠六石、しゃうふ一石を差し出すこと
  ・馬は馬繋ぎ以外につながず、馬を飼置くときは近くの草一本たりとも刈り取らない。鳥類は飼わず、地主所有地、当坪内で薪はとらないこと
  ・堰、水路の破損したときはすべて借主の負担で修築すること
  ・盗品と認めた品は買わず、若し買って地主に迷惑をかけたら水車・付属品を残して直ぐに土地を返して立ち去ること
  ・水車に係わるすべての税を負担すること
 
 これらの条件を見ると、土地の賃貸料の代わりとして水車を貸し、食料を搗いてやり、普通水車側の取り分となる糠、しゃうふを地主に差し出すことにしている。
 以上のような個人営業の水車の他に、共同で水車を持つ水車共同組合も太田でつくられていたが(史料編Ⅲ・七一三頁)、この場合は組合員が平等な権利・義務を決めていた。
 明治後期になって、水車を利用した製材業(丸鋸を水車で動かす)が始まると、北高根沢の栗ケ島にも明治四五年に製材所ができて大正一二年頃まで営業していた(栗ケ島 渡辺章一家文書)。

図73 明治12年の水車鑑札(表と裏)(上高根沢 宇津史料館蔵)