高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第二章 宝積寺駅の開業と地主制の成立

第六節 農会の成立と農業生産の展開

四 用水の整備と水車

 この契約後の三四年五月一日、前記一一大字に押上を加えた一町二村の一二大字は「市の堀用水組合」をつくり、規約全二八条(史料編Ⅲ・六七九頁)を定めた。事務所は押上に置き、組長、副組長を選んで、これまでの年番総代を廃止し、別に監督二名を置いた。組合の議決機関として定員一六名の委員会を設けた。委員の選出は、組合の経費の徴収割合と同様に人足高九八人の割合に従って行った。大字別人足高割合は次のようだった。
 
 押 上 一四人二分五厘 長久保 七人二分五厘 蒲須坂  七人二分五厘
 箱ノ森  八人二分五厘 上松山 八人     松 山  九人
 狭間田上組 八人    谷 中 三人     根 本  三人
 狭間田 一三人     飯 室 七人     上柏崎 一〇人
 
 委員は人足三人以上一〇人まで一名、一〇人以上二名、押上は別に一とした。また、毎年定期の鬼怒川水流〆切の用材は工事の七日前に各字に通知して規定の日限に送付することになった。上柏崎は春普請入用諸品は免除で、その費用として金二円を組合へ差し出した。下流が用水不足の場合については規約第二三条で次のように決めている。
 
  飯室・上柏崎において用水不足の節は、
  従前の如く分水する事を得、其分水五日間継続したるときは番水と称し、組長・監督において速に押上・長久保・蒲須坂・箱森四字は毎日午後六時より午前六時まで小堀用水の口留めをなし、上松山、松山、狭間田上組、谷中、根本、狭間田、飯室、上柏崎の八字に灌漑せしめ、而して午前六時より午後六時までは押上以下四字にて灌用する事、但し右番水に要する入用物は地元の負担とする事
 
 この組合ができた翌三五年九月は「足尾台風」により県下一帯か大被害を受けたが、東鬼怒川も大洪水で用水施設の破損や田畑の流失、冠水、風による倒伏で早稲は全滅、辛うじて平年作の五割程度の作柄であった。明治三七、八年ごろから大正初め、耕地整理事業が盛んになり畑の田への転換、開田、乾田化が進行した。用水への需要も増え水利権をめぐる紛争も多くなった。市の堀用水組合の大字でみてもこの期間に狭間田、伏久、文挾、松山などで七〇〇町歩をこす耕地整理事業が行われた(史料編Ⅲ・七八四頁)。また、芳賀郡でも南高根沢村、祖母井、市羽村、大内村の耕地整理や開田のため市の堀の延長を望む声も強くなってきた。こうした事情から、鬼怒川の治水事業の進行につれて市の堀の大改修と明治四一年の「水利組合法」による普通水利組合の設立が計画された。大正三年、用水を芳賀郡へ分けるにはこれまでの取水口では毎年の水害の被害が大きすぎるとして、位置を大字大久保松川尻地内で変更することになった。この時、用水創立委員と大字大久保惣代との間に県会議長田代周次郎、塩谷郡長を立会人として取水口設置について一七項目の「覚書」が取り替わされた。それでは明治三三年九月の時と余り大きな変更はなかったが、取水口工事とその後の維持・管理、水路・堤防の建設と修繕などについて地元大久保と組合の権利・義務などが細かく規定された。
 大正四年一月市の堀用水組合代表と芳賀郡新規加入者代表との間で加入条件についての契約が取り替わされた。それは四項目からなっていたが要旨は次のようであった。
 
  一、新加入者は相当金額の加入金を提供する
  一、新加入区域内の者は水不足になっても市の堀区域内の堰下番水等を請求しない
  一、新加入区域内の水路開削その他用水に関する全費用はその区域内で負担する
  一、新水利組合組織に関する創業費、堀口改修その他用水施設に対する総ての費用は組合全体で負担する
 

図66 旧市の堀用水取入口記念碑(氏家町 押上)


図67 文挾地内の市の堀(現況)