高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第二章 宝積寺駅の開業と地主制の成立

第二節 宝積寺駅の開業と銀行・会社の設立

五 近代における宇津救命丸

 まず、「本県下東北西部」の巡回販売を見てみると、これは高根沢を中心に最も密度の濃い地域で、この年四月五日に五円の旅費を持ち宝積寺駅を出発、汽車にて日光まで行き、それから徒歩・馬車にて細尾峠を越し足尾へ。そこから戻り今市・宇都宮・氏家と汽車で移動、氏家から喜連川までは当時運行していた喜連川人車鉄道が巡回販売の足となった。佐久山・野崎までは徒歩にて巡回し、野崎駅より西那須野・黒磯に寄り、那須湯本までは馬の背に揺られての巡回であった。湯本から黒田原へは徒歩で移動し、白河駅までは鉄道を利用した。それからは、もっぱら徒歩となり、福島県の石川・棚倉・塙を経て茨城県の大子・下金沢、そして栃木県に入り、馬頭・小川・烏山に入り、高根沢へ帰りついている。帰社したのは四月一六日で、一二日間をかけて巡回販売を行い、一〇三円を売り上げている。
 つまり、日光五・足尾三・今市三・氏家一・喜連川一・佐久山二・西那須野一・黒磯三・黒田原一、福島県白河六・本沼一・金山二・浅川一・石川一・棚倉二・石井一、茨城県大子二・下金沢一、そして栃木県に戻り馬頭二・小川一・烏山二の四三か所の取次店を回り、巡回販売を行った。
 つぎに、本県下東北西部に次いで密度の濃い「常総口」は、茨城県の北部を除く全域と、千葉県と栃木県の東南側を含む地域である。この地域の取次所は一一五軒と多い。
 常総口の行程と取次所は、東北本線・水戸線を乗り継いで、茨城県の新治から始まり、真壁・大島・北条・小田・真鍋と徒歩で南下しながら巡回し、土浦から汽車に乗り替え竜ケ崎へ、竜ケ崎・布川・布佐・安喰間は徒歩となったが、利根川を越えるには舟が利用された。安喰以降汽車の移動となり、成田・佐倉・千葉・大網・東金・成東・八日市場・旭町・銚子と巡回した。その後は、利根川や霞ケ浦があり、徒歩とともに舟を利用しての行程であった。つまり、野尻・豊里・小見川・香取神宮・佐原・潮来・牛堀・麻生・玉造・小川・石岡・岩間・宍戸・笠間と取次所を回っている。そして宍戸・赤塚・水戸へは鉄道を使い、さらに磯浜までは馬車、湊町・平磯・磯先・前渡・久慈町・菅谷と徒歩であった。以後、菅谷・太田間が鉄道を利用した以外は、徒歩・馬車・舟を乗り継ぎ、大宮・山方・檜沢・高部・小舟・中川と行き、栃木県に入り茂木・祖母井を経て高根沢に戻った。これに要した期間は、三月一二日より三月二六日の一五日間であった。
 つぎの「奥州東北口」の行程を見てみると、範囲は福島県と宮城県それに茨城県の北部で、福島県の中通りから会津へ行き、また北上して、仙台まで達している。その後は海沿いに南下し、福島県の浜通りを経て、茨城県に入り水戸線で戻るというものであった。期間としては、五月一二日より五月二八日の一七日間を要している。
 つまり、東北本線で福島県矢吹を皮切りに、須賀川まで徒歩で回り、須賀川駅より郡山・会津若松まで鉄道を利用している。その先の塩川へは馬車で、北方(喜多方)へは徒歩で巡回し、また戻り郡山から三春間を馬車を使い、小浜・本宮と徒歩で移動した。本宮から鉄道にて二本松・福島と進み、そこからは飯坂・掛田・保原・梁川・桑折と進み、鉄道にて白石・大河原・槻木・仙台へと巡回した。その間、槻木から角田へは馬車、丸森へは徒歩で移動している。仙台から岩沼・中村まで鉄道を使い、その後鉄道と徒歩を小きざみに使い分けて移動している。鹿島・原ノ町まで徒歩、小高・浪江・富岡まで鉄道、木戸村・広野まで徒歩、広野・久之浜間は鉄道を利用、四ツ倉・草野と徒歩、平・湯本は鉄道、小名浜・泉と徒歩、泉・植田間は鉄道、窪田村、そして茨城県に入り平潟・大津・関本の間は徒歩で巡回した。さらに、平潟・高萩間を鉄道を使い、川尻・助川・河原子・下孫と徒歩巡回販売を行い、水戸線・東北本線を乗り継いで帰路についている。以上、この範囲の取次所は七四軒に達している。
 「奥州西北口」は、東北中北部を日本海側から北上し、北海道を室蘭経由で旭川に至り、帰りは小樽から函館につき、東北本線で南下しながら巡回するコースで、五月一二日より六月九日の約一か月の巡回販売であった。北海道への販路は、明治期になって開拓されたものであり、これは、東北本線の青森までの敷設と北海道開拓による鉄道網の整備に負うところが大きい。
 巡路としては、鉄道で米沢から赤湯・上ノ山・山形・天童へ、舟で楯岡まで行き、谷地へは徒歩で巡回した。谷地・大石田まで鉄道を使い、大石田から清川までは最上川を舟で下り、羽黒山をお参りして鶴岡・酒田・宮内・象潟・本庄・秋田へは、徒歩・馬車で巡った。秋田からは、鉄道にて土崎・能代・大館・弘前・川部と進み黒石までを馬車と徒歩で寄り、浪岡・青森へと行く。北海道へはまず函館へ寄り、さらに太平洋回りで室蘭へ渡っている。北海道内は鉄道にて、室蘭・由仁・夕張・岩見沢・旭川まで達し、その後札幌・小樽へ出て、舟で日本海を回り、函館・青森に戻った。以後、鉄道にて野辺地・八戸・盛岡・花巻・黒沢尻・水沢・一関・小牛田と南下しながら巡回し、涌谷・石巻・松島、そして、塩釜から東北本線で戻る行程であった。
 最後に、「上信武越」は、栃木県南西部から群馬・埼玉・東京西部・山梨・長野・新潟へと結ぶルートで、距離的には奥州西北口に次ぐものであった。
 巡路は、石橋から始まり、壬生・栃木まで徒歩で行き、栃木・富田・佐野・足利・小俣まで汽車を乗り継いでいる。桐生・大間々へは徒歩と馬車で前橋まで鉄道を使い、渋川・高崎間は、馬車鉄道を利用し、伊香保までは徒歩にて巡回した。高崎から倉賀野・山名・富岡・下仁田へは鉄道を使用し、また途中の山名から藤岡・新町・玉村・倉賀野へ戻るルートは、徒歩・馬車鉄道・舟を使っての巡回であった。さらに、高崎から松井田・小諸・大屋・上田へと汽車で進み、伊勢山・鼠・坂城へは徒歩で、坂城・屋代間は鉄道を利用した。松代・長野は馬車・徒歩となり、長野からは鉄道を利用し、高田・直江津・柏崎・長岡・三条・新津・沼垂へと進み、その後は舟と徒歩で新潟・葛塚・新発田に至っている。また、戻って長野からは稲荷山・姥捨・松本・村井・塩尻と続き、下諏訪・蔦木・台ケ原・韮崎・甲府へと徒歩と馬車で巡回した。甲府からはほぼ鉄道により、大月・猿橋・上野原・八王子・国分寺・川越・大宮・熊谷・深谷・本庄へと巡った。熊谷から行田・赤麻・尾島・太田・植野・館林・馬門・藤岡・静和・富田へと徒歩・馬車でつないだ。栃木県に入り、小山・小金井間は鉄道を使い、小金井・薬師寺・石橋までを徒歩で巡り、帰路に就いている。日数的には、一〇月一六日より一一月一〇日のこちらも約一か月を要している。
 また、この他に東京方面についても、巡回路があったもようで、明治一一年の「東京行往返入用帳 岡田長一」には、埼玉県の川口より東京方面の巡回販売の史料が見られる。
 さらに、大正九年の「東海道方面送投仕譯帳 店員佐藤秀造」には、名古屋・岐阜・大垣・岡崎・豊橋・浜松・静岡方面の取扱所との販売実績が記されている。
 このように、宇津救命丸が江戸期からの委託販売という販売方法を確立し、さらに明治以降交通網の整備、特に鉄道敷設の目覚ましい発展が、商圏の拡大と販売能率を促進し、事業を拡大して行ったのである。さらには、中国・朝鮮・台湾にまで販路を拡大し、明治四五年には日本人の移住により南京・釜山を拠点にして販売を行うなど、商圏の拡大には目をみはるものがあった。

図23 巡回販売先への仕訳帳(上高根沢 宇津史料館蔵)