高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第一章 明治初期の政治と社会

第四節 天皇巡幸と三新法

二 三新法体制と村々

 民選戸長、町村会が成立し、地方自治については自らの手で政治を確立しようとする高まりは全国的に高まっていった。さらに自由民権運動の高まりは国会開設運動を通し農村の末端まで滲透していった。これに対し薩長主体の明治政府はこれらの運動を抑え込むために種々なる手段をとった。その一つの現れが自治的生活をもつ町村制を政府の統制しやすい体制へと軌道修正することであった。具体的には公選制の戸長を官選制へと切り換えることであった。栃木県は全国にさきがけて明治一六年一月に戸長の官選制へと踏み切った。それには「戸長公選方等に至リテモ亦種々弊害ヲ生ジ、乃チ投票上ニ利党ヲ結ビ、遂ニ一村ノ平和ヲ破ルモノアリ、又、博徒ノ類ヲ選ビ悪ヲナスノ便ヲ謀ルアリ。軽率詭激ノ徒ヲ挙ゲ政党ノ組織ヲナスヲ企ツルアリ」という理由があげられている(関口泰編『関口元老院議官地方巡察復命書Ⅰ栃木県』)。ここには明らかに公選戸長が自由民権運動や政党と深い関係を持っているという見方があることを示している。その上、戸長役場の数が九七〇余りに及び、役場費は地方税の総額の三分の一を占め、財政上の問題があり、これらを解決するためにも戸長官選制と連合戸長制が一体となって登場してきた。これに対し、戸長等は公選制を維持するため各方面に請願運動を行い、一方で辞任することによって抵抗もしたが成果はみられなかった。
 連合戸長制について栃木県は、明治一六年二月二六日付の県布達甲第一七号で、栃木県令藤川為親代理、栃木県大書記官片山重範の名で「管内戸長役場位置及ビ所管町村別冊ノ通リ来ル三月一日ヨリ更定候此旨布達候事」と達しが出されて、戸長役場は二七一に編成された(『栃木県史』史料編近現代一・二九〇頁)。
 高根沢町域では、従来の戸長役場二一か村が氏家宿、狭間田、上阿久津、平田の一宿三村に統合されていった。
 特徴的なものをみると、氏家連合戸長役場には一〇か村が統合され、その中に高根沢町域内の大谷村が入っている。狭間田役場は一一か村で構成され、伏久、文挾、飯室、亀梨、上柏崎の五村が入っている。上阿久津役場は三か村で上阿久津、中阿久津、宝積寺が入っている。北高根沢地域の大部分の一一か村、平田、上高根沢、寺渡戸、石末、栗ケ島、桑窪、西高谷、太田、中柏崎、下柏崎、花岡各村は平田村役場の行政区域に入った。各村がどのようにしてまとまっていったかは不明であるが、村民の意向が反映しているとは思われず村民の不満が現れた。二年後には再び編成替えが行われた。
 
表36 高根沢町域の戸長役場時代の各村の変化
 氏家宿 狭間田村
明治16年明治18年明治16年明治18年
10村7村11村13村
 氏家
 馬場
 桜野
 押上
 富野岡新田
 長久保
 箱森
 蒲須坂
 氏家新田
 大谷



 氏家
 馬場
 桜野
 押上
 富野岡新田
 長久保
 氏家新田






 狭間田
 松山
 松山新田
 上野
 伏久
 文挾
 飯室
 柿木沢
 柿木沢新田
 亀梨
 上柏崎


 狭間田
 松山
 松山新田
 上野
 伏久
 文挾
 飯室
 柿木沢
 柿木沢新田
 鍛冶ケ沢
 葛城
 早乙女
 箱森
 平田村    太田村 上阿久津村
明治16年明治18年明治16年明治18年
11村12村3村5村
 平田
 上高根沢
 寺渡戸
 石末
 栗ケ島
 桑窪
 西高谷
 太田
 中柏崎
 下柏崎
 花岡

 平田
 上高根沢
 寺渡戸
 栗ケ島
 桑窪
 西高谷
 太田
 中柏崎
 下柏崎
 花岡
 上柏崎
 亀梨
 上阿久津
 中阿久津
 宝積寺









 上阿久津
 中阿久津
 宝積寺
 石末
 大谷








(図32・33を参照)