高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第一章 明治初期の政治と社会

第四節 天皇巡幸と三新法

一 天皇の奥州巡幸

 明治維新期の軍事組織は明治二年の兵部省の設置に始まるが、五年には陸、海軍省が設置されて軍事体制はほぼ樹立した。
 政府の軍事力の任務はまず士族反乱、農民一揆などに対処するものであった。徴兵による新しい軍隊の力が試されたのは西南戦争で、この勝利は以降の軍事体制の強化につながった。しかし続く竹橋事件にみられた国軍の不祥事、兵卒の訓練の不備、軍紀の不徹底は軍全体の今後の動きに計りしれない悩みとなった。事件から二か月たらずの一〇月一二日、山県有朋は軍事訓誡を出し、演習の意味、軍紀の必要性を述べ、天皇を大元帥とする思想と大元帥の内容にまで及んだ軍部の考え方を表明した。こうして明治一三年から天皇は巡幸、演習に際しては大元帥として国民の前に現れることになった。
 山県有朋は、明治一三年、山梨、三重、京都巡幸に際し、亀山付近での演習で近代化された軍隊の進歩に役立つ所が多いことを知り、奥州巡幸に当たり宇都宮付近での大演習を天覧することにした。当時下野地方は戊辰戦争で県内各地は戦乱の巷となり、県民の間には、「唯々兵士其ノ名ヲスラモ恐懼スルモノナキニアラズ」といったように「兵士」の名を聞くことさえ極度に恐れる者もあった。政府の今回の宇都宮での演習は、軍隊に恐怖感を抱いている民衆に安堵感を与えるためでもあった。栃木新聞は「今回ノ演習中若シ誤ッテ少シク軽操(躁)粗暴ノ挙動アルトキハ独リ堂々タル我日本陸軍ノ名誉ヲ毀傷スルノミニアラズ、又、我下野地方ノ人民ヲシテ兵士ハ粗暴、凶悪、我党ノ人間ニアラズトスルノ厭悪心ヲ鞏固ナラシムベシ」と訴えている。
 準備はすでに二か月前から開始された。六月段階で塩谷郡長坂部教宣は演習地に当たる上阿久津村戸長に対し、陸軍参謀本部より鷲宿、岡新田以南の地形及び戸数、人口の調査を命じている。さらに兵糧、燃料等についても戸長と連絡をしていた。
 演習は八月三日、四日の両日、宇都宮から阿久津村にかけて実行された。天皇は初日第一天覧所勝山に着き戦闘を天覧になっている。演習をみると諸隊は円滑な演習が行われるよう配慮がとられた。上阿久津村についてみると止宿人数は七月三〇日から八月四日までに延べ五、三一〇人で、一人当たり一日三銭の家屋料が払われている。また演習により田畑、作物などに損害が生じた場合、戸長、地主は終了後二日以内にその状況を申し出るよう連絡している。その際、実地検査のうえ、損失料を渡してくれるよう戸長、地主惣代が連名で県令に願い出ている。巡幸のとき上阿久津村で行った演習の中味は当時にあっては一つの軍事的デモンストレーションからなっていた。

図27 明治42年明治天皇大演習講評の遺蹟(阿久津中学校)

表35 踏荒損失料取調書(抄)
 字新山神  345番
   一  畑  28歩 地主 鈴木治平
    作物  岡穂     9升3合
    此損失料   93銭3厘  但1反歩に付収穫1斗、1円に付1斗
 字新山神  325番
   一  畑  21歩 地主 斎藤玄悟
    作物  大豆     7斗
    此損失料   50銭  但1反歩に付収穫1石、1円に付1斗4升
 字新山神  405番
   一  畑  29歩 地主 上野広吉
    作物  綿       1貫400目
    此損失料   46銭6厘   但1反歩に付収穫15貫目、1円に付3貫目

氏家町 ミュージアム氏家蔵 永倉家文書より作成