高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第一章 明治初期の政治と社会

第三節 地租改正と村々の生活の変化

三 地租改正事業の変質

 各回在所の等級を決めることは困難ではあったが、六月末から七月中旬にはほぼ終わって、鑑定委員たちは七月一九日県庁へ招集された。しかし、招集されたまま宿舎に足止めされて会議はなかなか開かれなかった。この時の状況を芳賀の鑑定委員・坂入源左衛門の日記「縉紳録」(『真岡市史』第四巻近現代史料編・三六一頁)によってみてみよう。
 宿舎にいる委員たちの耳には、地租改正事務局員が村位を高くするよう要求しているが、県の係官がそれに抵抗して激論が続いているとの情報が入ってきていた。
 七月二七日午前、県庁へ出頭した委員たちの前には、地租改正事務局員三名、県担当官一七名がいて二つのことを指示された。
 
  一、栃木・群馬・茨城三県の田畑等級比準の結果、栃木県の等級は田を一五等乙まで、畑を一六等甲までとすること(末等地の反収がきまっているから、田は一斗五升、畑は七升五合それぞれ反収が増える)
  二、次の回在所の村位を昇級する
    佐野、鹿沼、祖母井、宇都宮は田半級、畑据置き
    佐久山は田一級、畑半級昇級
 
 委員たちはこの昇級について強い不満を持ち、協議のすえ、これを人民に納得させる方法はないとして、「この上は官の等級見込案で御申付けを願うよりほかはない」と上申することに決した。事務局員や県官は委員の説得にあたった。矢口・田代も呼び出されて説得されたが、「一等地をすえ置いて他の土地の昇級を考えるならともかく、一等地から直すのでは相談にもならない」と他の委員たちとともに今晩じっくり考えることにして宿舎へ帰ってきた。坂入はその夜、次のように日記に書いている。
 
   この如きとは、これ必ず局員より見込みをつけたるものか、また旧税のこの額によりてみれば、減税たるをもってかくの如きの場合か、良く考うべし(中略)
  ああ!これ既に天子五厘の減租を仰せだされ、内務省より米相場五か年平均を大いに安価に達せらるのたぐい中途に滞りて貫徹せざるをや、実に国家の一大事、実に実に痛心せざらんや
 
 これは鑑定委員全員の気持をあらわした言葉でもあったろうか。佐久山管内を代表する矢口・田代・塩谷らの苦悩はさらに深いものがあったろう。翌朝県庁へ出頭する前に、矢口と田代は塩谷郡担当の係官伏島新一郎に会い、「三大区の等級矯正は至難のことだから官から御申しつけになりたき」旨を述べると「それは了簡違いだから、一同と篤と協議致すべし」と諭された。
 二人が芳賀の永山・坂入と県庁へ出頭する途中、他の委員たちが待っていて河内屋で話しあいが始まった。
 「どのようにも人民へ説諭の手段がない」「官の見込で処分を請うよりない」などと相談中、佐久山、鹿沼、祖母井の委員に出頭命令がきた。
 出頭した矢口と田代は、午後四時ごろまで係官の伏島・大久保から昇級を認めるよういろいろ説諭されたが、田一級・畑半級の昇級は承諾できないとの態度を変えなかった。
 委員たちには「本局官員と県官が激しい議論をしており、喧嘩かと思うほどだった」などという話も耳に入ってきた。
 七月二九日、県庁へは委員七名しか出頭しなかった。この日、坂入は県の昇級案でどのくらい地租がふえるかを知った。旧地租額より佐野管内は四万円増、宇都宮九、〇〇〇円増、佐久山八、〇〇〇円増、壬生五、〇〇〇円減、祖母井九、〇〇〇円減、鹿沼は金額不明だが減であった。三〇日以降も一等地を据え置くか、動かすかで係官と委員たちの対立がつづいた。
 八月五日、委員たちは一等地を動かすなら、いったん帰区してその案を区長・地主惣代に知らせた後また出頭しようという方針を県側へ伝えたが、拒否される。
 八月六日、河内屋に集まった委員たちはこの難関を打開するため、三大区の等級を半級高くする案を出したが、矢口たちは反対した。このとき、河内の委員五月女貞一郎が「村位の上等の氏家外二三か村を半級昇級させる」妥協案を出した。この案を三大区の鑑定委員たちが協議し認めるのをまって、全員が賛成して係官に申し出た。
 七日、係官の仲田信亮から前日の案もこれと決めるには難があるとされ、結局、県の作成した表を写しとって、委員たちは帰区することになった。
 帰区するにあたり、委員たちは各回在所係官からどのような尋問があっても、その回在所の区長・地主惣代だけで勝手に答えたり、請書を出したりしないことを固く申し合わせて、今後も結束して地租改正事務局や県の圧力に対抗していくことを約束した。
 栃木県の地租改正事業はこの時期から大きく変質していくことになった。これまでは、鑑定委員の間の対立、村々の地主惣代・担当人の不満や県係官と鑑定委員との対立などもあったが、それらはかなり徹底した話し合いを通して利害が調整され、問題が解決されてきた。いわば伝統的な「公正」の原理が地主総代や担当人の手で実現されていたといえよう。しかし、これ以後は国家の論理や利害が「人民」に押しつけられる過程へと変質するのである。