高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅰ

第四編 近世

第九章 幕末の高根沢

第二節 幕末の社会状況

1表 文久2年(1862)前高谷村農民の持高順一覧表
番号分地主略号当主略号*女当主年齢高(石.合)家族備考
17HACHIROTAISUKE2533.049437父源左衛門48歳
1CHOUBE5521.2407411
19HEISHIBUN-UE3920.443527
9KYUUBE5218.280347
3ROKUZA3817.761549
34TOKUJI2717.599639
5HEIBE5414.965325百姓代
7SHINZA3314.747246
10KYUUBEDAIZOU4213.164235
27GENNO6012.865448組頭
18TOKUUE4111.744112
11KYUUBEKAN-UE6210.956459
26BUZAESOUUE3410.777347
8GOZAE2610.747101
33CHUUUESHIGE559.9506511弟久助24歳
2CHOUBETAICHI369.896538
36SEIZAE539.8704610
29KYUUUEKANZAE389.102235
15SHINNOYOUZOU608.348224
25GOHEIICHIZO407.779538
21SHOUZAHATSUKI417.764336
6HEIBEUGENTA517.389101
28GENNOCHIYO*707.313011
24GOHEIUMEZO396.8087310
12KYUUBEKIKUZO566.220358娘きつ16歳
20KEISAI466.070314
35TOKUJIHEISHI535.989101
22JIN-UEMOKUUE365.798325
31MONZO365.520538弟亀之助18歳
16SHINNOTETSUNO454.950224
23GOHEIMATSUKI354.498101
14SHINNO274.154314
30SHINZASUTEKI264.020101
4BUZAERINZO303.299448
32CHUUUEWEN*462.941134
13SANGO521.5006612
合計367.51211899217

出典:文久2年3月「前高谷村宗門人別御改書上下帳」なお、人名等はすべて略号とした。(花岡鈴木徳家文書)
 
2表 文久2年(1862)前高谷村農民の階層表
石石戸 数同%人数1戸平均高(石.合)同%
204038.3258.374.73220.3
152038.3258.353.64014.6
1015822.2435.499.96327.2
5101541.7906.0113.81531.0
15719.5344.925.3626.9
合計36100.02176.0367.51100.0

出典:文久2年3月「前高谷村宗門人別御改書上下帳」(花岡鈴木徳家文書)
 
 安政六年(一八五九)六月の横浜開港に伴う欧米諸国との貿易の開始は、日本の政治・経済に大きな影響を与えた。経済的には、さしあたり輸出品にあてられた生糸・水油・穀物などの値段が高騰し、品不足になった。また欧米諸国から輸入された綿織物や綿糸が出まわって、国内の綿織物業が打撃を受けた。また日本の金銀比価と国際的な金銀比価の相違と内外銀貨の等量交換の規定により、大量の金貨が海外に流失した。そのため幕府は五品江戸回送令を出したり、金貨の改鋳を行ったりして、国内経済の安定を図ったが、米価をはじめ諸物価の高騰を押さえることができなかった。米価・諸物価の高騰で最も打撃を受けたのは、下級武士層や都市・農村の職人・小商人・日雇・小作層などであった。彼らの間に幕府政治への不満や外国への反発が強まり、尊王攘夷運動がたかまってきた。こうした情勢の中での高根沢町域の農村の社会状況の変化を見てみよう。
 1表は、文久二年(一八六二)三月「前高谷村宗門人別御改書上下帳」(花岡 鈴木 徳家文書)をもとに作成した。前高谷村は幕末期に村高五百五十九石余(旗本本多氏領五百二十三石余、幕府真岡代官所領三十六石余)、戸数は天保期に四十四戸である(『角川日本地名大辞典・栃木県』角川書店、一九八四年)。十九世紀初めごろには、田四十八町一反七畝、畑七十一町三畝、家数七十八軒、人別三百七十八人、馬二十匹であった(史料編Ⅱ・七三八頁)。この宗門人別帳には、三十六戸・二百十七人が記載されているので、前高谷村の二分の一か四分の三の住民が記載されているものと推測する。
 1表では、各家を持高の多い順にならべた。最初の番号は宗門人別帳の記載順をしめす。分地主と当主の名前は略号で示した(分地百姓の記載は例えば「何兵衛分地何右衛門」である)。次に当主の年令・持高(石・合)・家族数(当主を含む)を示したが、家族構成と旦那寺の記載は省略した。備考には、村役人および以下の文中に出てくる家族について注記した。分地とは文字通り本家から土地を分与された農民のことで、近世前期の家父長的大家族から土地を分与されて順次自立した血縁家族や従属農民の系譜をひく農民と思われる。水呑(二戸)は本来無高の農民のはずであるが、この村では多少の高を所持している。
 以上のデータから階層表を作成した(2表)。高二十石以上を上層、高十石以上・二十石未満を中の上層、高五石以上、十石未満を中の下層、高五石未満を下層とすると、それぞれの階層に属する農民は、三戸・十一戸・十五戸・七戸となり、中層に属する農民が多数をしめ、階層分解は進んでいないといえよう。分地百姓でも水呑百姓でもない農民は十二戸で、その過半が頭百姓としての家格を維持し、村役人は頭百姓がほぼ独占していたらしい。分地百姓は二十二戸に達し、分地主は十五戸であり、そのうち七戸がこの宗門人別帳に記載されている。他の分地主は、別の宗門人別帳に記載されているのであろう。注目されるのは、持高が最大の農民が分地百姓であることに示されるように、家格では頭百姓(分地主と重なるか)―その他の百姓―分地百姓―水呑百姓という序列が、持高に反映されるかぎりでの経済力とは対応していないことである。高根沢町域のうちの一村のしかも半分ほどのデータで、幕末の村落構成を代表させることはできないが、参考になるデータである。
 こうした農村社会の変化は、色々な事件に反映している。以下では、檀家制度への反発、家格制度の動揺、村方郷例の改定問題、駈け落ち事件、質地騒動などを取り上げてみたが、同様な事件や騒動は、他の村々でも起こっていたのである。なお世直し一揆については、次節で取り上げることにする。