高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅰ

第四編 近世

第七章 農村の復興を求めて

第三節 一橋領の改革仕法

 文政期には農村の荒廃がいっそう進行した様子で、一橋関東領では一連の農村復興対策(仕法)が打ち出されている。ここでは「文政年中亀梨村一橋御用控帳」によって、主に亀梨村に対する諸仕法の具体的な様子を見てみよう(史料編Ⅱ・七一四~七二三頁)。
 文政五年(一八二二)に一橋関東領農民の困窮を救済する方法として、領内豪農の出資金の利息に領主の出金を加え、毎年九十両を困窮者と出産予定の女子へ支給することを取り決めている。出資者として、武州埼玉郡下高岩村名主新井長左衛門、野州芳賀郡柳林村河岸問屋平右衛門とその隠居半兵衛、野州塩谷郡上高根沢村(阿久津)半之助、野州芳賀郡上大沼村篠崎新五郎の名前が上げられており、彼らの出資金の合計八百両を御貸付け金として出資者たちが運用し、年間六分利として四十八両の利金を生じさせ、これに一橋家から四十二両を加えて支給するという構想である(史料編Ⅱ・七八一頁)。この救済仕法は十か年継続する計画で、以下に見ていく諸仕法の資金がこうしたかたちで確保されたことが明らかとなる。
 文政五年十二月から翌年一月にかけて、出張役所は村内で困窮や病身のため、当主や女房・長男が出奉公している者の給金や借金額を調査している。さらに出張役所は村内の大高持の百姓で、困窮のため必要な奉公人を雇えない者をも調査している。こうして大高持の百姓に奉公人の給金相当分を貸与して、大高持の農業経営を維持させるとともに、村内に一定の奉公口を確保して、困窮か病身の小前百姓が家族を他村に奉公に出さなくてすむような対策を講じている。
 文政六年五月出張役所は、村々の水田について、この三年間に手余り地または荒地となった場所と面積を届け出るように命じている。該当する水田について、「村方にて追い追い起こし返すべき分」、「人少なにて起こし返しがたき分」、「悪田にて起こし返し候ても実法これなき場所」、「足入りの場所(深田のことか)にて急に起こし返しがたき場所」、「起こし返し作付けこれあり候分」にわけて、面積を書き出すように指示している。
 同年九月出張役所は、村々より小物成のうち、四石役などの夫役や田方掛かり銭などが高持百姓にとって負担になるので免除の要請かあったが、調査したところ、これらの小物成は数年来定納だったのでやめるわけにはいかない。ただし、本来なら幕領なみに賦課する高掛かり三役(高百石につき、御蔵前入用永二百五十文、六尺給米二斗、御伝馬入用米六升)を免除してきたのは、小物成の負担を配慮したものであるという廻状を出している。
 同年十二月出張役所は、村々に植えさせた漆の木について、十分生育しないうちに越前(福井県)から来た職人に売り渡す者が多く、職人らが早目に樹液をかきだすので、漆の木自体が枯れてしまうので、今後越前の職人に売り渡さぬようにとの指示を出している。 文政七年二月出張役所は、村々に荒地起こし返しや潰れ百姓の相続人に入用金を下付すると指示している。具体的には、畑か荒畑を田に造成するか、荒田畑を起こし返した場合は、一定の入用金を下付する、荒畑を桐畑か林にした場合は入用金を貸付ける、潰れ百姓の相続人には夫食代・家作代を下付する、百姓の知人を入百姓にする場合は、一軒につき五両ないし十二両二分を下付するというものである。
 同年四月に、宇津権右衛門が亀梨村七郎右衛門組に御用として鶏卵十九個を二十四日までに出張役所に提出するように命じている。さらに五月にも鶏卵二十個を二十一日までに出張役所に提出するように命じている。なおこの鶏卵の提出は江戸屋敷での御用であり、代金を後日まとめて支給するといっている。
 同年五月領知役所は、村々に入百姓の志願者には、夫食代・家作代・農具代・勝手道具代・引越し入用として、一軒に約十二両を支給する、また起こし返した田畑は当初五年間の年貢のほぼ半分を免除すると、特典を明示して、入百姓の増加をはかっている。なお入百姓を世話した百姓にも、口入れ世話料として金一分ないし二分の支給を明示している。
 同年十二月領知役所は村々に、文政六年に百姓・水呑・前地の当主か長男が他領に出奉公している場合は、その給金の半額程度を貸与するので村に引き戻すよう命じた。またやむなく奉公に出る場合は、一橋領内の村相互に奉公するように村役人が世話し、万一これに違反したことが明らかになった場合は、村役人・出奉公人とその親類を各百日の手鎖の刑に申し付ける。また他領に男女とも結婚に差し出してはならず、やむをえない事情のある場合は、必ず届け出て役所の指示を受けなければならないので、万一これに違反したことが明らかになった場合は、村役人とその男女の親を各百日の手鎖の刑に申し付けると指令している。これは文政六年一月の指令を罰則を明示して繰り返したもので、逆にみれば領知役所の規制にもかかわらず、他領への出奉公や縁組が無くならなかったことを示している。
 文政八年二月代官初鹿野此右衛門は、御救年限中で農民が生活を質素にして村柄が立直るようつとめさせ、縁組助成・小児養育料・家作代などを貸付け、入百姓の世話まで行ってきたが、出張所詰めの役人が現地の事情にうといことに付け込んで、村によっては小前の者が遊山講ととなえて集まり、深夜まで酒を飲み、長話をする風潮がある。これは農村復興策に反する不埒な行動であるとして非難し、今後こうした行動を取締りの対象にするので、村役人が小前によく伝えるように指示している。
 以上のように、一橋関東領では文政五年から同八年にかけて、一連の農村復興対策が講じられたが、その効果があがるのをまたずに、荒廃度の高い農村を切り捨てるかたちで、一橋関東領の縮小がはかられ、幕府の承認をかちとっている。しかし、一橋領に残された村々に対して、農村復興対策は引き続き行われた様子である。