高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅰ

第四編 近世

第七章 農村の復興を求めて

第二節 領主財政の危機と支配強化策

三 村方の建て直しの領主仕法

 領主の手による荒廃化した農村の復興仕法のなかで、二宮尊徳による難村復興仕法は、代官の手による行政式仕法として群を抜いた広がりをもっていた。
尊徳は、荒地と化している手余り地の再開発と潰れ百姓の取立の問題に取り組み、関東各地で自力更生による農村復興をなし遂げていった。百姓には刻苦精励を要求するかわりに、必要な営農資金を尊徳自身が準備した。尊徳の資金は、貸付けによって利子を生み、それが次の営農資金になるという着眼の良さも備えていた。
 尊徳は、天保の飢饉に際しての活動により、天保十三年(一八四二)老中水野忠邦によって初めて幕臣として召し抱えられた。御普請役格、切米二十俵二人扶持という微禄であった。弘化四年(一八四七)になり、尊徳は下級幕臣として真岡代官所手付を命ぜられて赴任してきた。安政元年(一八五四)の幕府職員録『県令集覧』には、真岡代官所東郷詰めとして、手付の二宮金次郎と手代の吉良八郎の名が記されている。高根沢地域も含めた下野の代官支配下の天領村々に報徳仕法が始まるようになった。
 文久三年(一八六三)、真岡代官が三宅鑒作から山内源七郎に交代したときの代官引継ぎ申送書には、飯室村等の報徳仕法導入についての事情が申送りされていた(史料編Ⅱ・六四四頁~)。飯室村は江戸時代には土室村と称してきたところ、村名変更の願いを受けて、嘉永七年潤七月(一八五四)に飯室村と改名したのであった。
 飯室村(土室村)は元宇都宮領であった。嘉永三年、老中に昇進した戸田忠温によってかねてからの念願であった村替えが実現し、飯室村は塩谷郡八か村と共に上知されたのである。これらの村は、元来「無類の薄地、難村」という荒廃化の進んだ村々であったばかりか、担当の代官が頻繁に交代したために、本格的な復興仕法も実施できない状況にあった。大体、野州は「別段の御仕法場」といわれるように、他の村々では縄索い・筵織り等の夜業を励む積立て仕法等も行われているのに、上知された村々ではこれもなく一層の荒廃が進んでいた。殊に飯室村は、もともと荒れ田で用水が不足がちのうえ、市の堀用水普請の費用も多分にかかって困窮が進み、復興仕法をとろうにもとても経費の捻出もできない状況であった。
 そこで、飯室村は荒地起こし返し、用悪水路普請、入百姓引入れによる村柄取り直しのために、安政六年以降たびたび二宮尊徳仕法の導入を願い出たのであった。ただ尊徳はすでに安政三年(一八五六)に死去していたために、子の弥太郎の取り扱いで、真岡代官所手代の吉良八郎に仕法実施が命じられたのであった。万延元年(一八六〇)、吉良は早速飯室村の仕法計画を立案し報告した(『二宮尊徳全集・第二十一巻』)。八か年に三十町歩余りの荒地開発等を行なう計画であった。また代官所も、尊徳仕法の実施中の同年から十年間は、「御手当て定免」により特別に税率の低い年貢を採用することにした。
 飯室村の報徳仕法は、幕府が復興資金を提供するのに代わって、尊徳の仕法金約二百両を導入することにより農村復興の実現を図ろうとしたものである。しかし時代は明治維新の直前である。天狗党の乱、幕末の世直しの動き、戊辰戦争と息をつく間もない激動にもまれ、この報徳仕法の成り行きを確認することはできない。成果は不明であるとしておこう。

6図 桜町陣屋跡の現存建物 二宮尊徳が農村復興にあたった。