高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅰ

第四編 近世

第六章 近世後期の支配の変化

第一節 領知の変貌と分散支配

1表 寛延2年(1749)佐倉藩領知一覧
下総国 7 郡233村81,518石
上総国 6 郡31村 5,527石
武蔵国 3 郡20村10,204石
常陸国 3 郡23村 7,952石
上野国 1 郡3村  972石
下野国 塩谷郡57村22,580石
    河内郡11村6,468石
    都賀郡8村4,301石
合計 6国23郡386村139,522石

『千葉県史料近世編・佐倉藩紀氏雑録』から
 
 寛延二年(一七四九)宇都宮藩主の戸田忠盈は肥前国島原(長崎県)に国替えとなり、代わって島原から松平忠祗が宇都宮に入ってきた。これを機に、今まで宇都宮領であった塩谷郡の多くが下総国佐倉藩(千葉県)堀田家の下野における飛地に編入されることになった。高根沢地域の宇都宮領村々も同様の経過をたどることになる。
 佐倉藩堀田家は代々幕閣に加わるような譜代の有力藩である。その発端は、堀田正盛の母が将軍徳川家光の乳母の春日局の縁に繋かっていたことによっている。正盛は若くして家光に仕え、以後、六人衆(後の若年寄)から老中へと昇進していった。正盛の三男正俊も正盛の遺領を分与されて大名となり、後には大老として幕政を主導している。
 正俊から五代目の子孫堀田正亮も老中に昇進した。それに伴い延享三年(一七四六)出羽山形城主から江戸に近い佐倉城へと転封となった。
さらに寛延二年になると佐倉藩の大幅な領地変更が行われ、出羽国内の二万石余の領地に代わって下野の塩谷郡、都賀郡、河内郡から佐倉藩領への編入が行われた。特に、塩谷郡の五十七カ村、二万二千五百八十石が佐倉領となった。桜野村(現氏家町)には佐倉藩の陣屋が設けられて、佐倉からは代官以下の諸役人が派遣され、下野の佐倉領支配の中心となった。なお、この桜野陣屋は、安永三年(一七七四)下野の領地の多くが出羽国に移されるまで続いていた。
 寛延四年に交付された佐倉藩領知朱印状と領知目録(『千葉県史料近世編・佐倉藩紀氏雑録続集』)によると、このとき高根沢の大屋村(大谷村)、関俣村、石末村、赤堀新田の四カ村が佐倉領となった。宝暦十年(一七六〇)佐倉藩は一万石の加増を受け、合わせて高十一万石になり、塩谷郡中の合計六十七カ村、二万四千九百十石が佐倉領となった。高根沢では新たに上柏崎村が佐倉領に加わった。なお、領知目録には「上柏崎村」とあるが、現地の史料からみる限り「下柏崎村」のことと思われる。その後、安永三年、戸田家の宇都宮復帰に伴う佐倉藩の村替えにより、高根沢の大谷村、関俣村、石末村、赤堀新田の四カ村が佐倉領から離れている。結局、明治に至るまで佐倉藩領のまま続いていくのは、高根沢では下柏崎村一カ村だけであった。

2図 堀田相模守の仁政の碑