高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅰ

第四編 近世

第五章 商品生産の発展

第二節 特産物生産

三 藍

 藍は紅花や紫草・茜などとともに、古くから重要な染料として用いられていた。それが商品化されるようになるのは、阿波(現徳島県)や摂津(現大阪府と兵庫県の一部)で、多く生産されるようになった正保・慶安(一六四四~五一)以後のことである。
 享保十八年(一七三三)、幕府は葉藍専売制度を敷き、紺屋仲間が一手に藍玉を取り扱うよう命じた。この仲間は、天保の改革時に「株仲間解散令」によって廃絶したが、嘉永年間(一八四八~五三)の再興令により新たな仲間を加え、復活した。
 この頃、柏崎村の源五右衛門は藍問屋を営み、藍瓶役銭を納めている。藍瓶役銭は、はじめ瓶一口につき米一斗であったが、米価高値のため寛文八年(一六六八)から瓶一口につき銭二百文と改められ、明治維新まで継続する。
 高根沢町域の紺屋数は不明であるが、11表に示されているように天保十二年(一八四一)から藍瓶役銭を納めているところから考えると、柏崎村の源五右衛門はこの地域における藍を一手に取り仕切り、それぞれの紺屋に販売していたのであろう。関東九か国における藍瓶役銭の納入先は、文禄元年(一五九二)以来変わらず、紺屋頭土屋五郎右衛門があたっていた。したがって柏崎村の小林源五右衛門が納めた藍瓶役銭の納入先も、土屋五郎右衛門内の役人某宛になっている。
 嘉永五年(一八五二)正月の「現金藍玉通」(史料編Ⅱ・四六八頁)によると、源五右衛門の主な藍玉仕入先は、吹上村(現栃木市)の天海治郎助であり、宇都宮押切町の宮田屋源兵衛店などを経由して荷受けしている(史料編Ⅱ・四七三頁)。藍玉荷送り状はすべて揃っているわけではないので明確には推定できないが、年間の藍玉仕入量は平均して二十本(俵)、藍玉にして八百玉になる。その販売先は、史料が見当らないので不明である。
 
11表 天保12~嘉永1年(1841~1848)藍瓶役銭
年代藍瓶数役銭役銭納入先
天保12年(1841)17瓶3貫400文土屋五郎右衛門内 藤芳清蔵
天保13年(1842)19瓶3貫800文 同 関口市右衛門
天保14年(1843)26瓶5貫200文 同 渡辺喜兵衛
天保15年(1844)26瓶5貫200文 同 羽田徳次郎
弘化2年(1845)26瓶5貫200文 同 中村吉兵衛
弘化3年(1846)26瓶5貫200文 同 小俣長兵衛
弘化4年(1847)22瓶4貫400文 同 田中伝兵衛
嘉永1年(1848)22瓶4貫400文 同 岸本清吉

出典:中柏崎 小林和夫家「藍瓶役銭受取証」(史料編Ⅱ・466頁)