高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅰ

第四編 近世

第二章 近世高根沢村々の成立

第二節 農民の身分と統制

一 小農の自立

11表 宝積寺村寛文3年と元和6年の屋敷地持ち、屋敷地なし面積別人数
元和6年検地帳明暦2年検地帳
屋敷地持ち屋敷地なし屋敷地持ち屋敷地なし
10町未満5町以上39
3町以上437
2町以上6219
1町5反以上31171
1町以上9482
7反以上54
5反以上11
3反以上1112
2反以上1111
1反以上236
5畝以上11
1畝以上5434
1畝未満1
合計40246617

 宝積寺村には、元和六年(一六二〇)の検地帳と寛文三年(一六六三)の検地帳がある。村の耕地面積は、元和六年に百一町九反五畝余であり、寛文三年に百八十一町八反五畝十二歩であった。村の耕作地はこの間に一・九倍に増加した。寛文三年の農民一戸当たりの耕地面積も、元和六年の八反七畝から一・四倍の一町五反九畝と増えた。
 寛文三年の屋敷地持ち農民は六十六名で元和六年の四十名から二十六名も増えた。逆に屋敷地なし農民は、二十四名から十七名と減った。屋敷地持ち農民の増加は、大谷村の明暦二年と同様に、領主の本百姓増加策の結果と見ることができる。
 大谷村の明暦二年では、屋敷地持ちと屋敷地なしの農民は、三反歩で分かれた。宝積寺村の11表「宝積寺村 寛文三年と元和六年の屋敷地持ち・なしの面積別人数」では、屋敷地なし農民は一町五反以上が一名、一町以上か二名、三反以上が二名いた。
 屋敷地なし農民の長七郎の耕作地は一町六反二畝六歩である。そのうち分付主助左衛門の所持地は一町五反七畝二十一歩に達している。長七郎の耕作地の九十七パーセントが分付主のものである。長七郎は助左衛門の屋敷地四畝六歩に住んでいたのかもしれない。
 同じく、権七郎も耕作地一町九畝六歩の全てが分付主作右衛門の土地であった。また、孫左衛門も一町八歩の全てが分付主の与左衛門の土地であった。
 元和検地帳に記載されていた農民は、六十四名から、寛文検地帳では八十三名と増加している。耕作地も約二・二倍、一戸当たりの面積も一・四倍と増えている。個々の農民はどうなのか、元和六年と寛文三年の検地帳の両方にある農民名を探してみた。同名が十四名であった。12表「宝積寺村 寛文三年と元和六年との比較」を作ってみた。二郎左衛門は一・七倍の八町五反五畝、清右衛門は三・二倍の六町二反、助右衛門は二・二倍の六町一畝、源左衛門は四・八倍の五町八反一畝、弥七郎は十七倍の二町六反三畝と、五名は大幅に増えている。
 彦左衛門・孫右衛門・惣右衛門・助左衛門・彦右衛門の五名も増加が見られる。惣兵衛はほぼ同じであった。増えた助右衛門・源左衛門・孫右衛門の三名は、元和六年には屋敷地なし農民であったが、寛文三年にはそれぞれ一反一畝十五歩、一反六歩、五畝六歩の屋敷地持ち農民になっている。
 一方、新右衛門は八反十五歩減の一町六反六畝二十一歩、孫左衛門は四反二十歩減の一町八歩、八右衛門は七反五畝七歩減の一反一畝六歩と大きく減らしている。特に、孫左衛門と八右衛門の二人は屋敷地なし農民となった。
 小農自立策によって、多くの本百姓・小農が生まれた。また、経営を拡大し、上昇する農民がいたが、その一方で、経営を縮小せざるを得ない農民がいた。このように近世前期の農業経営はかなり難しかったと思われる。
 
12表 宝積寺村寛文3年と元和6年との比較表
元和6年(1620)土地の
増減比較
寛文3年(1663)
名前田畑屋敷地田畑屋敷地
筆数筆数筆数筆数
二郎左衛門4749521201217368855931627
彦左衛門8063892618122987771461218
清右衛門2919612162831684620155198
助右衛門442762121788601621115
源左衛門16122447675581202106
孫右衛門39327131104035824256
惣兵衛4133218124100493311526
惣右衛門302392322221183228224266
弥七郎415141217053126323139
助左衛門181271163173241813146
新右衛門2724761357672416621139
彦右衛門2412651425130201641521118
孫左衛門2314028151871181008
八右衛門1286131510132116