高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅰ

第四編 近世

第二章 近世高根沢村々の成立

第一節 高根沢の検地

二 江戸初期の検地

5表 高根沢町の江戸時代前半の検地帳一覧
○ 検地 口 新田畑検地
村名大谷関俣宝積寺石末西高谷平田亀梨柏崎桑窪寺渡戸栗ヶ島上高根沢太田伏久(参考)
宇都宮藩主
1595文禄4宇都宮国綱
1620元和6本多正純
1628寛永5奥平忠昌
1646正保3
1654承応3
1656明暦2
1657明暦3
1659万治2
1662寛文2
1663寛文3
1664寛文4
1665寛文5
1660寛文6
1669寛文9松平忠弘
1671寛文11
1672寛文12
1675延宝3
1678延宝6
1680延宝8
1683天和3本多忠平
1687貞享4奥平昌章
1690元禄3
1707宝永4阿部正邦
1713正徳3戸田忠真
1714正徳4
1716享保1
1718享保3
1725享保10
1727享保12
1731享保16
1742寛保2

注.亀梨村は明細帳により作成する。
伏久村は喜連川領である。
 
 徳川家康は、慶長五年(一六〇〇)七月の関ヶ原の戦いを経て、慶長八年二月に征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いた。
 宇都宮は慶長二年(一五九七)に宇都宮国綱が秀吉に改易された後、同三年に会津から蒲生秀行が入って来たが、慶長五年、家康が関ヶ原の戦いで勝つと、翌六年に孫の奥平家昌を十万石で宇都宮城主とした。
 元和五年(一六一九)には小山から本多上野介正純が十五万五千石で入って来て、元和六年に宇都宮領内の全村にわたって検地を行った。領内の全ての村について、田畑・屋敷地のすべてを検地することを総検地といい、検地の実施は、稲の刈り入れ後から翌春の苗代の準備までの冬季に行うのが一般的であった。高根沢町には、この時の検地帳のうち、宝積寺村・西高谷村・平田村・寺渡戸村分が残っている。
 元和八年(一六二二)に古河から来た奥平忠昌は、承応二年(一六五三)から総検地を実施した。この時の検地帳として翌三年の「下野国塩谷郡宇都宮領西江谷(高谷)村御縄帳」(西高谷区有文書)が一冊残っている。従って、宇都宮藩では、元和と承応から万治の二回総検地を実施している。
 これらの外に行われた検地は新田検地である。高根沢町に残されている検地帳は、5表「高根沢町 江戸初期の検地帳一覧」のようである。
 寛文八年(一六六八)には、宇都宮に山形より松平忠弘が入封して、寛文十一年からは新田検地が実施されている。農民は新しい田や畑を開いたり、田や畑の地続きの荒れ地を少しずつ広げたりしたが、その新田や新畑を領主は検地によって把握した。それを新田畑検地という。
 同じ時、喜連川領の伏久村でも新田検地が行なわれた。伏久村の寛文九年の検地帳『下野国塩谷庄喜連川領伏久新田御棹帳』(伏久 塚原征文家文書)が残っている。
 これらの検地は、幕府の検地方針を踏まえて実施されたと推察できるが、検地の仕方を細かく定めた慶安二年(一六四九)の幕府の検地掟(『条令拾遺』四六号)二十七か条の主なものは次のとおりである。
 
      検地掟(抜粋)
  一、検地は百姓の身上を定め、生死の根本である。土地の等級は高すぎることも低すぎることも無い様に、念を入れて吟味する。
  一、言うまでもないが、間違い、帳の違い、並びに落地はないように念を入れてすること。但し、間数違いによって、百姓が訴え出たときは、さらに縄入れをすること。
  一、間竿は、田舎間で六尺一分のこと。
  一、検地の村々が、上の郷、中の郷、下の郷であるかよく見分けて、分米の詮議が大切である。
  一、田畑の上、中、下を決めることは大事であるが、判断しにくい所は、近くのお縄打ちの者と立ち会い、相談して、上・中・下の位付けをして、野土のない様にすること。
  一、郷中にて写した帳面は、帳奉行とも話し合いをし、その帳の終わりに、加判して、名主・百姓に渡すようする。
   右の分、堅く相守るべきこと。
 
 これによると、太閤検地と徳川検地の大きな違いは、一間竿が六尺三寸から六尺になったことである。一間の長さがこれまでの〇・九五になり、一坪(一歩)も〇・九〇と狭くなった。それで、太閤検地の一坪が、徳川検地では一・一〇二五坪と、約一割り増しになった。
 幕府は、農民の生産量を把握するために、農民の生産基盤である耕地を、全て正確に測量しようとした。そこで、「検地掟」や「検地仕様之覚」(『条令拾遺』五〇号)を出して、検地が正しく行われるように、細い規則をつくり、検地奉行・役人・手代まで規制した。それは、疎略な検地によって、坪数や上・中・下の位付けを誤り、年貢米の不足になることや、百姓が身上を潰し、郷村から立ち退き、流民化することを恐れ、同時に最大限の年貢を確保するためである。