高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅰ

第三編 中世

第五章 高根沢の仏像彫刻と絵画

第四節 地方仏師の作

 高根沢町には仏師名の判明している作が一九件、うち一四件が地元仏師の作である。最も多くの仏像を造立及び修理したのが宇都宮を中心に十七世紀後半から十九世紀末にかけて活躍した高田一門の七件で、総数にして二八体、助手をも含めて七名の仏師名がわかっている。以下次のとおりである。
 
   享和元年(一八〇一)日蓮上人坐像(上柏崎・妙顕寺蔵)造立、六代高田運応、子息運平、弟子栄蔵
   文化五年(一八〇八)薬師三尊・七仏薬師如来立像・十二神将立像(上高根沢・宇津救命丸薬師堂蔵)造立 七代高田運秀
   文化七年(一八一〇)不動明王坐像(花岡・地蔵寺蔵)造立 七代高田運秀、弟子英蔵、弁蔵
   文政五年(一八二二)阿弥陀如来立像(中柏崎・阿弥陀堂蔵)修理 七代高田運秀
   天保八年(一八三七)熊野大権現立像(亀梨・鈴木重良家蔵)造立 七代高田運秀、子息運刻
   安政二年(一八五五)天神坐像(中阿久津・天満宮蔵)造立 八代高田運刻、子息運春
   安政三年(一八五六)天神坐像(中阿久津・天満宮蔵)造立 九代高田運春
   明治三五年(一九〇二)天神坐像(中阿久津・天満宮蔵)修理 一〇代高田運秋
   天保九年(一八三八)歓喜天立像厨子(上高根沢・淨蓮寺蔵)制作 直井運英、同孝助
 
 高田一門は家伝によると美濃国高田郡(現岐阜県養老町)から慶長年間(一五九六~一六一四)に益子経由で宇都宮に来たと言う。その真偽はともかく、江戸時代に下野国内で最も活発に造仏活動を行った一門である。
 系図によると初代運晴、二代運應、三代運貞、四代運阿、五代運啓、六代運應、七代運秀、八代運刻、九代運春、一〇代運秋と続き、現在判明している作品は一五〇件ほどである。最も栄えたのが六代運應と七代運秀の時代であり、八代運刻以降は徐々に仕事量も減って明治三五年(一九〇二)の天満宮(中阿久津)の天神坐像の修理を最後に姿を消していくのである。
 六代運應は享保元年(一七一六)に二代運應の子供として益子に生まれ、文化元年(一八〇四)に八九歳で亡くなっており、五代運啓の養子となって宝暦一〇年(一七六〇)ごろに六代目を継いだ。運應の作品は今のところ三〇件近く確認されており、最も早い作が明和八年(一七七一)銘の尊像(藤原町・慈眼寺蔵)である。時に五五歳である。人生の大半を運貞や運阿、運啓の助手として働いた。妙顕寺の日蓮上人坐像を作ったのが八六歳の時であり、ほとんど子息の運平と助手の栄蔵が作ったものと思われる。
 七代運秀の作品は四〇件近くわかっている。最初の作が安永七年(一七七八)、六代運應の助手として参加した慈光寺(宇都宮市)の金剛力士像である。時に一一歳であった。最後の仕事は死ぬ二カ月前の天保九年(一八三八)の弁財天・五童子像(芳賀町・常珍寺蔵)の修理である。鈴木重良家の熊野大権現立像は亡くなる前年の作である。
 現在のところ運秀の作が最も多く判明しており、弟子も栄蔵、弁蔵、友蔵、広瀬斧吉等がおり、画家の鈴木梅渓にも表面彩色を手伝わせている。
 宇津救命丸薬師堂の諸尊像は運秀の代表作の一つであり、銘文中に「京都御免大宮方末流/定朝法印ヨリ四十三世木大佛師法橋家」と墨書するなど、中央仏所の流れを継承する一門であることを声高に主張している。
 八代運刻は過去帳によると、慶応二年(一八六六)に七六歳で亡くなっている。通称名が喜代助で武州川越の生まれ、運秀の三女益と結婚して八代目を継いだ人物である。現在のところ一六件が確認されている。作品に初めて名前が記されるのが文政六年(一八二三)銘の五龍王像(藤原町・五龍王神社蔵)である。運秀が亡くなる天保九年(一八三八)までの間、助手として九件の仕事をした。独立したのは五〇歳の時である。
 九代運春は天保二年(一八三一)の生まれで明治二二年(一八八九)に五九歳で亡くなっており、父運刻の助手として三件、独立して七件の造仏が判明している。一〇代運秋は運春の二男で昭和六年(一九三一)に八六歳で死亡、逆算すると弘化三年(一八四六)の生まれである。現在のところ三件が確認されている。いずれも修理銘である。このうちの一件が仏師高田家の最後の仕事となる天満宮(大字中阿久津)の天神坐像であり、運刻、運春、運秋と三代にわたって造立・修理に関わった。
 仏像ではないが、阿久津昌彦家(上高根沢)には一七世紀初頭ごろの風流系獅子頭一対(三頭)が伝存している。頭部内側に墨書銘(柏村祐司氏の解読による)があり、元禄一四年(一七〇一)に那須温泉で買い求め、翌一五年に益子村の仏師が彩色したとある。仏師名は判読できないが、益子村には当時高田運晴と高田右近の二名の仏師のいたことが判明している。運晴については現在のところ四件がわかっており、江戸時代に宇都宮を中心に活躍した高田家の初代であり、寺山観音寺(矢板市)の観音堂本尊千手観音菩薩坐像の天和三年(一六八三)の修理銘に「益子村大佛師」とある。高田右近も長寿寺(茂木町)の釈迦如来坐像の宝永四年(一七〇七)の修理墨書銘に「大佛師益子村」とあり、どちらかの仏師が彩色したものと思われる。
 高田一門の制作する仏像は、ほとんどが五〇センチ未満の小像である。一人でも充分に制作できる大きさだが、六代運應の晩年から弟子の名前が銘文中に記載され、さらに独立する者まで現れる。例えば文化元年(一八〇四)銘の十二神将立像(氏家町・押上薬師堂蔵)には総州下妻出身の河崎栄蔵、弁蔵、友蔵の三名の弟子の名前が銘記されている。
この栄蔵は六代運應と七代運秀に仕え、妙顕寺の日蓮上人坐像と地蔵寺の不動明王坐像の制作を手伝っており、その後直井栄蔵から直井運英と改名、文政八年(一八二五)ごろ高田家から独立して宇都宮の鉄砲町に仏所を構えた仏師である。運英の作は現在のところ一一件が確認されており、天保九年(一八三八)に淨蓮寺の歓喜天像を収めた厨子を息子の孝助とともに制作した。この孝助は直井家二代目の運隆である。