高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅰ

第三編 中世

第一章 鎌倉時代

第一節 宇都宮氏の権勢

二 宇都宮氏の支配体制

 鎌倉に行くと、鶴岡八幡宮に向かって若宮大路という広い参道が走っているが、二の鳥居より少し北の大路の東側、鎌倉彫会館と雪の下カトリック教会との間の小路を入った突き当たりに宇都宮稲荷という祠がある。
 宇都宮の名がつく稲荷社なので、下野の御家人宇都宮氏との関係があるのではと、祠横に立っている解説札を見ると、神社による解説文があって、宇都宮朝綱が勧請した旨の由来が書かれている。
 しかし、どうも文献上の確証はないと思われる。ただ、『吾妻鏡』の嘉禄元年(一二二五)一〇月三日の条に、将軍藤原頼経の御所を宇都宮辻子に移すことに関する記事が見え、この宇都宮辻子という呼称が当時からあったことは確かである。辻子というのは、小路と小路を結ぶ通り抜けが出来る道のことで、現在もある宇都宮稲荷社は、まさに幕府が移転した先の宇都宮辻子の名残りをとどめるものである。
 源頼朝が開いた幕府(将軍の御所)は、当初大蔵御所といって鶴岡八幡宮の東側に位置していたようであるが、実朝、頼家と続いた源家将軍が三代で滅んだ後、執権北条泰時が実権を握り摂家の藤原頼経を将軍に迎えると、泰時は、御所すなわち幕府の場所を大蔵から他所に移転することを将軍に進言、場所の選定にあたったのであった。その結果決まったのが宇都宮辻子であり、宇都宮稲荷社のあたりと推定されている。
 当時の東国の御家人は、鎌倉に在住することが義務づけられており、鎌倉の地内には有力御家人たちの館が御所をとりまくように配置されていた。北条泰時や時頼の邸宅跡や大庭景義、和田義盛などの館が御所の近くにあったと推定されている。当初の宇都宮氏の居館がどこであったかは不明であるが、御所がここに移転したことによって、宇都宮氏と関わりがあったこの地には名前と稲荷社のみが残ったのではと想定したくもなる。ちなみに『鎌倉市史・総説編』では、宇都宮泰綱の館が若宮大路付近にあったと推定しているのみで、前後の時期の宇都宮氏の居館などについては言及していない。

9図 宇都宮辻子にある宇都宮稲荷明神(神奈川県鎌倉市)


10図 宇都宮稲荷と幕府の位置

         『NHK市民大学 中世都市・鎌倉』の挿図に加筆