守谷中央図書館/わたしたちの守谷市

『改訂増補 守谷志』

沿革

八、酒井河内守忠擧所領

 四代將軍の寬文の世、酒井雅樂頭忠淸大老の職に在り、父祖の勳功と將軍の信任を一身に負ふて權威一代を傾け、天下の事皆その一存に決し、幕府の政令は悉く意のまゝに出たと言はれ、その屋敷の千代田城大手門下馬先にあつたので世人は之を下馬將軍と呼んだ。それほどに權勢を傾けたことゝて、長子の忠擧も部屋住の身ながら、寬文元年十二月二十七日、十四歲を以て敍爵して河内守となり、四年九月には奏者番となり、五年十二月二十七日に從四位下に敍せられ、八年十二月二十七日には二十一歲を以て部屋住料として守谷の地二萬石を賜はるに至つた。超えて十年初入部あり金紋先箱威儀を盡くして守谷城に入り、翌十一年九月には上町鎭座の正八幡宮に詣でゝ社殿に奉納物があつた。續いて寬文十三年には、全領土に亘つて繩を打つて大規模な檢地を行つた。當役萩原角右衛門、中村次郎太夫、目付堀勘右衛門、守谷町に於ては名主齊藤德左衞門、野口理兵衞が帳引は當り、六月十八日附を以て「下總國相馬郡守谷町御繩打水帳」二卷及八月吉日附を以て「守谷町田畑名寄帳」が作成された。而して在來一千六百七拾石三斗七升一合であつた守谷町石高は此時以來一千八百一石五斗一升五合と改められ、之を表高規準として幕末まで踏襲さるゝに至つたことは最も特記すべきことゝする。
 忠擧、幼名は與四郎、初め諱を忠明といひ後忠擧に改めた。幼にして騎を學び劒を修め、又學に勉め書に逹し聰明人に勝れたものがあつた。されば將軍家の寵遇も一きは厚く、常に側近に侍し、將軍家の動く所必ずや影の如くに隨ふのを見た。寬文十一年四月十六日、將軍紅葉山東照宮參拜には父雅樂頭忠淸先導し、忠擧御簾の役に當つたが、之を初めとしてこの後に於ける將軍家の東照宮參拜又台德院大猷院等の前代廟參詣には當然忠擧は御簾又は先導の役を勤めて例をなすに至つた。いふまでもなく當代に於て將軍家の東照宮又前代靈廟の參詣は重大な儀禮であつて、隨つて之れが先導又御簾の役は亦甚だ重しとした所で在來概ね時の大老が之に當つたものである。然るに忠擧は大老忠淸の嫡子であつたとしても尙ほ部屋住の身であつたのに常にこの大役に當つたこと(先導の役に當る三十餘回、御簾十回)將軍家の信任の如何に厚かつたかを知るべきであらう。その他殿中淸掃を奉行し、或は名越の祓に任じ又は雁、鷭、雲雀等時折々のものゝ將軍家より手つからの給はりものを受領したことさヘー再ではなかつた。蓋し當時大老の名は父忠淸之を保つて居つたが、實際は概ねの事皆忠擧の手で行つて居つたともいはれてある。世人呼んで無名の宰相としたのも所以ない事ではない。
 延寶八年六月、將軍家綱薨じて子なく、弟の綱吉が館林から入つて大統を承けた、かくて綱吉の代になつても、その初めに於ては、前例に據り將軍家の靈廟參詣には、忠擧、先導の役を勤め、天和元年正月元日の拜賀式に將軍家が緋の直垂して黑木書院に臨まれた際にも、亦忠擧先導の役を勤めたが、已に將軍家代替りとなりしこととて父忠淸の權威は失墜し、延寶八年十二月九日附を以て、忠淸の大老職は免ぜられ、忠擧には宜しく父の病を看護せよと台命が致された。續いて天和元年正月十五日には忠淸が大手門の邸は收公せられ更めて之を堀田備中守正俊に給せられた。かくて守谷の城主たる忠擧の父の江戸邸は、前守谷城主たる堀田正俊が替つて入ることゝなつた。これも寔に奇しき因緣とも見るべきであらう。
 天和元年二月二十七日忠淸致仕して忠擧家を繼ぎ、その領地上野厩橋十五萬石の内、十三萬石を承け、二萬石は次子下野守忠寬に賜はることになつた。而して前きに忠擧に賜はつてあつた庇蔭料守谷貳萬石は此時を限りに收公せられ、近山六右衞門萬年長次郎が代官としてその後の支配を命ぜられた。
 忠擧はその後、五代將軍の世には、一時大留守居職を命ぜられ、やがて溜詰となり寶永四年に致仕し、致仕後は勘解田と稱し老を養つてあつたが、元年封地水旱飢饉等の時など公に告げずして賑恤せることもあり、歷世の遺老とし、故實にも通ぜしことゝて、八代の吉宗將軍の如きは最も之を重んじ、林信篤を通じては政事のこを諮ふたものであつたといはれる。致仕後年々正月七日登城拜賀を例とせるが、享保三年には歲七十にも餘り起居も心に任ぜざるべければ、登城拜賀辭せらるべしとありしを吉宗聽きて林信篤を召し、之は忠擧にあるまじき事なり、彼は大に異なるもの、今少し若くば日每にも呼びて政事を語るべきなり、歷朝の遺老なる上に識見もあるもの、さればこれまでは汝を以て物問ひたるなり、春は力めて出仕すべしと言はれたるに、忠擧は感泣して翌春も出仕したといはれる。かほどの人の一時なりとも守谷に居城せること亦その地として特に記錄すべきことであろう。
 酒井忠擧の居城を最後として、守谷城は遂に廢城となつた。百箕の城地この後は唯草薄の茂るに任せ、千年の舊跡遂に舊跡としてその名を止むるのみに至つた。
     「殿中日記」「萬天目錄」「御實記」「延寶錄」「酒井家譜」「寬政重修諸家譜」「藩翰譜」「廢城錄」「寬文十三年六月御繩打水帳」「寬文十三年八月守谷町田畑名寄帳」「寬文延寶年々割符狀」「覺書」「御地頭樣代々付」
    下總國相馬郡守谷町酉之年可納御年貢割符之事
  一高 千八百石七升參合          田畑屋敷共
    此取 五百五拾石貳斗壹升
        ………………………………
    中田 拾町壹反五步ノ内
        五畝貳拾八步         愛宕免 前々より引
        參畝貳拾六步         天王免 前々より引
        ………………………………
    屋敷 拾町九反貳拾壹步
       内 壹反七畝拾步        御藏屋敷引
        壹反八町八步         役所屋敷 前々より引
        八反九畝拾八步        八幡社中雲天寺屋敷 前々より引
        八畝拾六步          愛宕社中正喜院屋敷 前々より引
        四畝拾步           觀音別當知行坊屋敷前により引
        八畝貳拾貳步         地藏別當浮土寺屋敷前々より引
  一高 壹石四斗四升六合          酉之改新田
   米 合貳百七拾五石壹斗六升五合
   永 合百拾壹貫貳百參拾五文
   右納次第
    米 貳百七拾石九斗貳合五勺      納
    米 四石四斗六升貳合五勺       莊ニテ納
     此荏(大豆)八石九斗貳升五合    但米壹升ニ付荏二升
    永 拾壹貫貳百五拾文         大豆ニテ納
     此大豆 拾五石七斗五升       但永百文ニ付大豆壹斗四升
    永 九拾九貫九百八拾五文       納
  外
   永 六貫七百貳拾壹壹文         芝野錢
   永 五貫百拾貳文            御林下草錢
   永 貳貫參百八拾文           百姓山錢
   永 壹貫參拾文             鯉運上
   永 貳拾壹貫五百八文          鳥運上
    天和元年十一月
近山六右衛門
萬年長十郎