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『改訂増補 守谷志』

沿革

六、土岐氏居城

 小田原北條氏の滅びたのを最後として、その後は國内に復豐臣氏に抗するものなく、天下は茲に秀吉の手に歸して海内初めて戰雲收まり、世は全く平穩の境地となつた。秀吉は北條氏の故地關東八國を擧げて之を德川家康に與へた。家康は即ち居城の地として武藏野の一隅であつた江戸を撰び天正十八年八月朔日を以て入城し、やがて八州の地を適宜に分ちては、要所々々に參河以來譜第の家臣を封じた。その時、守谷の城は封一萬石の鎭所として菅沼定政に附せられた。或は「天正十八年家康公關東御入國御知行割」なるものには、
  一萬石
     初土岐山城守 菅沼山城守 定正
    下總 相馬
      初 原式部大輔胤成
として、定政の前に、一時ながらも原胤成なるものが守谷に封を得たやうに記るしてあるが、これは本書以外には他に徴證とすべきものがない。
 何づれにしても、定政は天正十八年に封を守谷に受けたものであつて、直に相馬氏の舊墟を修めて之に治した。今俗稱二本松といふは、即ち當時の守谷城の大手であつて、その内側西方字二十五軒は、有力なる家臣二十五人の屋敷を列ねたる所、第三廊の小高き丘地に九左衛門屋敷の地名の殘れるは、即ち家老井上九左衛門が邸第の在りし跡、それに續く字藏圓寺は即ち菩提寺淨圓寺の遺蹟又御茶屋下といふは、多分茶屋の在りし邊とすべく、愛宕の町はづれに足輕町及新屋敷の地名の殘れるは、一は足輕居住の所とすべく、一は新に開きし屋敷地とすべきであらう。何づれも此時の規模の名殘を今日に止めたものであつて、相馬氏の迹を襲ふたものとしても、規構の大なるに驚かざるを得ない。
 定政は、元來美濃源氏であつて、土岐光信の後裔である。父は定明といつた。幼にして父に後れ、參河の大菅沼常陸介に養はれて人と爲り、菅沼藤藏と稱して家康に仕へたが、花はつかしき美貌を以て最も家康の寵愛を受け、常にその左右に侍したといはれる。さりとて柔弱なものではなく、勇武に於ても甚だ人に勝れたるものあり、寺部の戰、掛川の攻城、さては小牧山の陣、何づれも騎馬の將として殊勳を樹てた。その常に菅沼を稱して本姓の土岐を用ひなかつたのは、土岐氏の一黨は主君たる織田信長に反して之を殺した明智光秀の族類であつたので、之を憚つた爲めであるといはれる。文祿脈二年に至つて始めて允るされて本姓の土岐に復し、土岐定政と名乘り、山城守に敍せられた。やがて慶長二年定政は年四十七を以て病んで歿し、子定義繼ぎ更めて父の遺封を受けて守谷城主となつた。
 定義は、父定政參河在住の析の子であつて、天正八年に生れた。母は鳥居元忠の女である。初め與五郎といつたが、是に於て定義と名乘り、山城守に敍せられた。歳は十八であつた。超えて慶長五年、德川氏が上杉景勝を會津に討つた際には、秀忠の旗下に屬して宇都宮に抵り、その地滯陣中石田三成擧兵の報を得て、秀忠が急遽軍を回して東山道を西へと進んだ時にも、亦之に隨つて西上した。
 關ケ原の戰後家康は大に西軍に加擔した諸將の貶黜を行つたが、その時に水戸の佐竹義宜も封五十三萬石を收められ、新に二十萬石を以て出羽秋田に移された。この際に定義は比らくの間、命を蒙りて、佐竹氏移居後の水戸の空城を護り、物情騷然たる間に對處し、佐竹氏の舊臣車丹波守が窃に謀つて、家康を要擊せんとしたのを、事前に探知して之を生擒し、家康に致して大に賞せられたことなどがある。續いて慶長十九年十月。家康父子が大擧して大坂城に豐臣秀賴を攻めた謂ゆる冬の陣の起つた際は、之に隨つて戰功少なからず、翌元和元年五月の夏の陣には、江戸城に留守してその任を完うした。そうした事から、役後の論功行賞には初め三百石の加增を受け、續いて元和三年再び加增を給はつて二萬石となり、攝津高槻城に移封された。
 元和三年定義轉封の後、元和五年までの略二年間は守谷は空城となつて、土岐氏の舊領は幕府直轄となり代官岡登甚右衛門淺井八右衛門の支配に委せられた。
 元和五年正月八日、土岐山城守定義は、攝津高槻の城主としてその城中に歿した。年は四十であつた。子内膳賴行その後を承けたが、年少十二、要衝に鎭ずるに適せない爲めか、再び父祖の舊地守谷城に封ぜられ、更めて一萬石を給與された。實に同年十月のことゝする。
 「台德院殿御實記」
 此月(元和五年十月)御在京中伏見にて土岐山城守定義が子内膳賴行に父が遺領攝津國高槻二萬石をあらため下總國相馬郡にて一萬石をたまふ賴行幼少なるが故とぞ聞へし、時に十二歳なり、この定義はもと山城守定政が二子にて兄藤藏賴顯早世せしかば世つぎとなり、慶長二年遺領をつき敍爵して山城守と稱し、五年奥の御陣には今の御所に扈從し下野國宇都宮にまかり、信濃國上田の城攻にもしたがひ奉り、十一月參内の供奉し、七年佐竹右京太夫義宜が領地を移さるゝ時松平周防守康重と同じく常陸國に赴き水戸の城を守る、其時佐竹が舊臣車丹波亂を起さんと企みしが其謀露顯しければ、丹波以下數十人生捕て誅し、十四年八月伏見城を守り、十七年大番の頭となり十九年大坂の軍に隨ひ奉り、元和元年には江戸の城を守り、三年攝津高槻の城主にせられ二萬石になさる、ことし正月八日かの城にありて卒す年四十。
 賴行初めの名は義行、内膳介といつた。寬永元年十月敍爵して山城守となり、寬永四年三月更めて二萬五千石を給せられ、出羽上の山に封を移された。守谷領主たること元和五年已來此に至る實に九年間である。在城中元和九年には愛宕神社の社殿再建經營あり、桃山式の豪華を極めた建築であつた。社頭には家老井上九左衞門賀藤九太夫奉納の鍔口などもかゝつてあつたが、その社殿は去る大正二年に燒失し、今は鍔口だけが在りし昔の名殘を止めて居る。
 「大猷院殿御實記」
 寬永四年三月十四日
 土岐山城守賴行下總國守屋より出羽國上ノ山城に轉封あり一萬五千石加へて二萬五千石になさる(江城年錄)
    ○重修譜は寬永譜により翌年二月に收む……
 是より復、守谷は空城となり、その地域は再び直領として代官支配に移され、寬永十九年まで伊丹播摩守、伊丹理右衛門、伊丹彥左衞門之を支配することになつた。
    「慶長日記」「元和日記」「御實記」「寬政重修諸家譜」「轉封錄」「土岐家譜」「藩翰譜」「齊藤家藏諸記錄」