守谷中央図書館/わたしたちの守谷市

『改訂増補 守谷志』

沿革

五 相馬氏の居城

四百年地方の雄

 天正十八年、是より先、已に京畿東海から中國四國九州に至るまで、擧げて之をその手中に收めた豐臣秀吉は、唯一人關東に蟠居し、拮抗して降らざる小田原北條氏を倒さんが爲めに、天下の軍を率ゐて東下した。之に對して氏政氏直の父子も、一たびは之を邀ふべく意を決して大に戰備を修めたが、秀吉は急には小田原には迫らず、箱根山上悠々持久の陣を構へ、その間には、伊達政宗を初め奥羽の諸豪も相次いで來つて之に投ずるやうになつたので、氏政父子は到底敵すベきものにあらざるを知り、遂に關八州と父祖歷代の居城小田原とを致して降を請ひ、茲に北篠氏は五代、百年にして滅亡するに至つた。時に七月五日である。是に於て、關東八州は亦他の諸國と共に秀吉の手に歸したのであつて、從來北條氏の庇保の下にあつた諸族も、悉くその所領を沒收された。守谷相馬氏も素より例外たることは得なかつた。かくて過去何百年の間、相馬氏の本據であつた守谷城も遂に相馬氏の手から離るゝに至つた。淺野彈正少弼長政と木村常陸介重茲とは茲に新たに秀吉の命を承け、關東八國から奥羽に亘つて田畑に繩を入れての檢地に當つたが、その際に由緖正しき神社佛閣には守護不入の禁制を與へて、その社寺領安堵の朱印をも下された、今長龍寺に殘る禁制もこの時のものの一つである。
 德川家康は此時更めて秀吉から關八州に封ぜられ、江戸城に入つて之を居城とした。後年江戸幕府を開くの基礎は此に成つたものとすべきである。家康はこの際に東國名族を沙汰したのであつたが、相馬氏も地方の名家たるの故を以て、治胤の子小三郎秀胤を抽いて旗下に列し五千石の大俸を給した。治胤は慶長七年五月六日六十二歳を以て歿したが、秀胤は之に先だち慶長二年正月十五日に歿した。共に牛込通寺町松源寺に葬られて明治末年まで其處に墓も存つて居つたが、今松源寺は他に移轉したのでその後の消息は知らない。秀胤の統又二に分れ、本宗は世に左源太又小源太と稱し、四谷に邸を構へて居つたが、一は出てゝ小田原の大久保家に客となり七左衛門を稱した。その後一族又幾何かに分るゝに至つた。寬永より寬文にかけ伊達者として江戸に暴威を從まゝにした旗本奴の一人に相馬小次郎といふものあり、「久夢日記」に
 相馬小次郎、よしや組大上戸酒のさかなにたばこくらひ給ふなり
とあるも亦相馬家の一族であらう。
    「吾妻鏡」「新編鎌倉志」「太平記」「兩相馬家系圖」「相馬則胤覺書」「相馬胤盈所傳古文書」「相馬一家連名帳」「多賀谷七代記」「關八州古戰錄」「東國戰鬪記」「諸國廢城考」「寬政重修諸家譜」「利根川圖志」「豪族時代の常總」等々