守谷中央図書館/わたしたちの守谷市

『改訂増補 守谷志』

沿革

四、平將門居館

 將門は武勇に勝れた一介武弁である。機略を弄して、その大を成さんとしたものではなかつた。深慮遠謀のあるものでもなかつた。然るに少壯京に上りて故郷に背いて居つたが爲めに、久方振りに歸郷した時には、父祖傳來の莊園は大方他の侵略を蒙つて居た。その上に二回三回骨肉からの壓迫を受けた。それ等が遂にこの一武弁をして憤懣せしめたものと見る。或は正當防衞の必要もあつたであらう。奮然起つて之に抗し、遂に之に捷つた。而してその結果は增上慢となりて無謀の擧に進ましめたのである。蓋し單純の人に陷り易い道程とする。決して初めから計画的にしたものではない、會々四圍の情勢が彼を驅つて此に到らしめたのである。假に最後の勝利を得たとしても八國に覇を稱する位が精々の所であつて天位を望むなといふ大それたものではなかつた。憐むべきではあらうが惡むべきではあるまい。その强かつた事、奸詐のなかつたこと、最期の悲慘であつたこと、それ等が當時に於て、將た後世に於て、一般に同情を寄せらるゝに至つたものと見る。寃を蒙り怨を呑んで死したといふことが恐ろしがらるゝに至つたものと見る。それが靈を慰めなければ崇もあるべき荒ぶる神として隨處に祀らるゝに至つた所以とする。而して時の經るに隨つて牽强附會まで加はり、眞僞混同して世に擴がり、遂に東國はいふまでもなく京畿地方に至るまで甚だ多くの將門關係の祠宇や遺蹟といふものゝ生ずるに至つたのである。その多分は取るに足らぬ附會のものではあるとするも、これほどまでに多數の傳說的遺蹟を有つものは我が國の古英雄の何人にも見ざる所である。今それ等の重もなるものを擧げて見るが、それとても管見の及んだものだけであつて、此他にも如何に多くのものがあるかは分り得ない。
 西林寺、海禪寺、禪福寺、長龍寺、龍禪寺、延命寺、桔梗塚、岡不知、妙見八幡、大日山等守谷及守谷附近の寺院及遺蹟は守谷附近の寺社舊蹟の部に擧げて此には之を載せぬ。
國王大神
 猿島郡岩井町北林に在り、將門を祀る所とし、江戸時代には十石の朱印地まで附されてあつた。古杉欝蒼たる境地に本社拜殿建つ。今國王神社と改稱す。
醫王山延命寺
 岩井町に在り、本尊藥師如來は將門の守護佛と傳ふ、元と國王大神の別當であつた。
古井
 岩井町に在り、將門產湯の水といふ。里人畏れて觸れず、岩井の稱の起因する所。
島廣山
 岩井の古井に近く一丘陵をなす、將門居館の址と傳ふ、今一言明神を祀つて居る。
冨士見馬場
 岩井の西北、結城に通ずる所、凡そ六町、幅員三間三尺並木松の列なるものあり、將門練武の迹と傳ふ。
高野八幡祠
 猿島郡櫻井村所在、將門を祀る祠と傳ふ。
將門山及將門明神
 下總本佐倉に在り、傳に據れば、天祿年中藤原秀郷の家臣安部左衛門佐が、將門の靈の秀郷の子女に祟あるを以て之を祀り將門權現をいつたに起因すといふ、社前には佐倉城主堀田上野介正信奉獻の華表あり「佐倉風土記」には又將門居館の址とし、桔梗を生ぜずと記るして居る。
成田不動尊
 傳に、將門亂の時、僧寛明なるもの不動尊像を奉じ成田に來り、將門調伏の法を修す、其の後寛明留つて不動尊の靈験を說く、遠近歸信するもの多く、遂に今日の盛勸を成すに至ると、明治初年までは守谷の地のものは足成田の地を踏まざるを例とする神田明神の氏子と同じく、成田參詣の行者も亦守谷を通過せざるを習としてあつた。
山川不動尊
 結城郡山川村に在り、將門信仰の故に、將門亡滅後成田の盛觀に反して漸次廢微したと傳へて居る。
綾戸城址
 結城郡山川村新宿に在り、將門納涼の遺址といひ、家臣坂田時幸の守城と傳ふ。
布施辨天祠
 南相馬郡に位置し利根沿岸の一丘陵の上に立つ、堂宇宏麗地方の一名區である。將門亂の時、兵火に罹つたのを源經基が再建したと傳へて居る。
和歌御前祠
 結城郡山川村粕禮に在る、その他を若御前といふ將門下野國府を討つての歸途、下野沼田庄の一美女和歌を善くするものを奪ひ之を綾戸城に置いて寵す、此祠は即ちその靈を祀る所と傳ふ。
大國玉古塚
 眞壁郡大國玉村に在り、將門塚、將門藥師の別稱あり、塚上に古塔四基建つ。
五位堂
 眞壁郡横島村に在り、本尊阿彌陀尊及觀音、將門の守護佛といふ。
金舖
 眞壁郡大國玉村に在り、將門舎人居住の迹と傳ふ。
池龜古墳
 西茨城郡北那珂村池龜五大力明王堂の後山、里人呼んで將門塚といふ。
人見山妙見堂
 上總國所在、將門七妙見の一と傳ふ。
飽富神社
 上總望陀郡根形村に在り、將門亂の時、京都の朝廷御劔を奉納して誅伏を祈りし所と傳ふ。
久留里神祉
 上總久留里町に在り、將門七妙見の一といふ、古くは細田山妙見寺といつた。
千本杉
 上總山邊郡豐成村御門(みかど)に在る、將門稻荷が祀られてある。
和田鎭守
 甲斐國都留郡和田村に在り、將門末胤の居住地と稱し鎭守社は將門の靈を祀ると傳ふ、神鏡に七佛を刻す。
大原神社
 下野國足利郡大前村山前に在り、將門靈を祀ると傳ふ。
御手權現
 同國同郡餘部に在り、將門の手を祀ると傳ふ。
吾妻神社
 下總市原郡吉野村に在り、藏王堂吾妻神社といひ將門靈を祀ると傳ふ。
七本櫻
 下總東葛飾郡木間ノ瀨村白山神社境内に在る櫻樹で將門の手植と傳ふ。
神田明神
 東京都神田鎭座の大祠で、今は大國主命が主神で、將門は二ノ宮としてあるが、古くは將門が祭神とされてあつた。鎮座は天暦四年といふ。林羅山の「本朝神社考」を初め「神祉啓蒙」「江戸名所記」「江戸雀」「江戸惣鹿子」「大全江戸鹿子」等皆將門祭神と記るして居るが、唯天和年中の江戸を記るした「紫の一本」だけは之を否定し、
 此神は大已貴尊也、將門と云は非也、太田道灌城の鎮守に武藏國神田明神を引けるなり。今の酒井讃岐守の屋敷は昔は小山にて其上に宮有し也、御本丸立し時に今の神田の宮へ移る、唯一の宮也。神主柴島宮内、社人多し。
と記し、九月十五日祭禮の時、節連橋より大工町にかゝり神田御門に入り、松平和泉守屋敷の書院にて神酒上る、神田御社の跡なる故なりと附記して居る。
 元地は芝崎村神田で、今の神田臺に移されたのは將軍秀忠の信仰からで元和二年としてある、奉行は久永源兵衞、社殿の壯美は善く人の知る所、寛永二年烏丸大納言光廣江戸下向の時に奏請して勅免を蒙つたとの事は幕府の御城日記である「寛永日記」に詳記されてある。江戸時代には社殿造營は將軍家の寄進を例とした。
 明治維新後、明治七年皇上蓮沼行幸の歸途、御親拜があつた所から、敎部省に物議沸騰し、爲めに直に寛文十一年大炊御門經孝奉勅染筆神田大明神の勅額を撤し、之に更つて太政大臣三篠實美染筆「神田大神」の額を揚げ、將門靈神は之を二ノ宮に移して洲崎女神と相殿攝社とし、本殿には常陸大洗の磯前神社より少彥名命の分靈を迎へ來つて主神とした。然るに之れが爲めに又氏子の騷動をかもし、紛議數年に及んだが、やがて本社東方に別殿を新構し、之に洲崎女神を移し、二の宮に將門神社の額を揚げて漸く落着を見た。それもこれも大正十二年の大震火災に灰燼となり、今はすべて規模の新たなるものとなり、將門の祠もその迹を止めぬことゝなつた。江戸時代にはこの外に將門の女如藏尼の堂があつたこと「府内備考」には記るされてあるが、それは明治初年に亡びた。
 例祭は九月十五日、世に神田祭として盛觀に知られる。當日神輿は本殿を出て氏子町々を渡御するのであるが、江戸時代、四谷大木戸に屋敷を有つた旗下の相馬左兵衛は將門の裔孫といふことから、二千石の資格を以て早朝から社殿に參籠し留守するのを例とした。又牛込忠左衞門、小野寺正行の家は、藤原秀郷の家系といふことから是れは終日閉門謹愼したものであつた。
 氏子の街々では將門の妾の桔梗に附會して措梗の花を忌み、成田不動の參詣もしなかつた。太田備後守の家紋は桔梗であつた爲めに是も例祭の日は一日門止めを例とした。
芝崎道場日輪寺
 延暦年間了圓法師の開基で、大手橋内即ち元大藏省構内が舊地である。其處に將門の首塚があり中頃眞敎上人は蓮阿彌陀佛の碑を建てた。後淺草芝崎に移る。
將門首塚
 神田橋内大手町の元大藏省南庭にあつたもので、高二十尺、周圍十五間の古塚であつた。其の地は元日輪寺の迹で神田明神の舊地である。日輪寺移轉後、酒井雅樂頭が給せられて屋敷とし明治維新にまで及んだが、その頃は將門稻荷と呼び、祭典は神田明神の祠官が奉仕して居つた。又神田祭禮には町奉行の命により特に神輿の渡御あるを例とした。
 明治已後、大藏省構内となつても之を祀らざれば祟りありとし、毎年慰靈祭を行ふを例とし、その爲めに新聞などでは、堂々たる大官廳が迷信に捉はるゝさへあるに、明治大正の世に反臣賊子の祟を懼れ祭典を行ふなと奇怪事と議するものもあつた。大正震災後は古塚の迹も定かならずなつた。
津久戸明神社
 牛込築土白銀町の高台に鎮座す、天慶三年將門の首級を江戸上平川の觀音堂に祀り津久戸明神と稱へたのが起原であると傳ふ。文明十年太田道灌社殿を造營したが、天正七年に田安門外に移し田安大明神といつたのを、元和二年に更に復此處に移し津久戸大明神の舊名に復した。「紫の一本」には次のやうに記るして居る。
 牛込の御門を入つてより田安と云、此臺に昔大明神の社あり田安の大明神と云、是は平親王將門の首と云、神田の大明神は將門がむくろ俵藤太を追て神田まで來りて爰に倒れしを神にいはひ神田の大明神と號す、首は都へ上せて獄門にかけられ、其後むくろのとまりたる所なれば一所に埋むべしとて此國に下されしを此所に大明神と崇め奉りたると云說あり、「永享記」に太田道灌が武州入間郡三吉野の郷河越の城の乾の方に氷川大明神あり、その社になぞらへ江戸の城の乾に津久戸大明神を祝ひ申と有今津久戸の大明神と云者牛込に在、田安の大明神を此地へ移し奉りたる事遠き事にあらず(中略)此山に正八幡の社有、津久尸の八幡と云、八幡の別當無量寺が曰く此山は八幡が山なり、明神へ此山をかし申たる故田安より勸請いたしたるなり、此故に所の者は八幡を以て產生神とし田安にて生れし人は明神を產生神とせり。
例祭は神田明神と同じく九月十五日に行はれ、江戸時代には成就院楞嚴寺が割當であつた。將門木像及首桶といふを傳へて居る。
 今北豐島上板橋氷川神社々堂篠氏に藏する太刀佩觀昔といふは元築土明神に在りしもの、神佛分離の際に篠氏に歸したものといふ。將門を觀音に擬したものと傳ふ。
兜神社
 日本橋兜町に在り、町名の起る所以であつて、將門着用の兜を埋め甲山と名つけたのに起因すと傳ふ。
「紫の一本」にいふ。
 俵藤太秀郷、平親王將門の首を討て甲にそへて是迄來れるが、此所にて甲を取落したるを塚につきとめて甲山といふといへり(中略)此甲山に因んで小網町への舟渡しを鎧の渡しと云といへり。
鳥越明神
 淺草鳥越町に在り將門の祠といふ、正保三年山谷に移されたが、元地にも小祠を殘し附近の信仰を持續して居つた。
鎧明神
 豐多摩柏木圓照寺の艮の方にあり、將門着用の鎧を埋めて祠を建てたるものと傳ふ。
鬼王神社
 西大久保に在り將門を祀ると傳ふ。鬼王は將門の幼名なりといつて居る。
戸塚毘沙門山
 高田穴八幡の東にあり、秀郷將門討伐に向ふ時、毘沙門に祈請す、その時秀郷が甲の上に毘沙門表はれたるを祀る所なりと傳ふ。
大濱古塚
 武藏國秩父郡皆野村大濱圓福寺地内の古家、將門の古墳と傳ふ。
石塚
 武藏國秩父郡城峯山長傳寺にあり、岩窟の内に將門像を祀る。
靑梅
 武藏國多摩郡靑梅の地名、將門が梅樹を手植せるに起因すと傳ふ、眞言巨刹金剛密寺緣起の中にも記るされて居る。
關戸
 八王寺附近は將門が關を構へし所を傳ふ、關戸の名の起る所以、
鬼石明神
 武藏本庄に近く鬼石村にあり、將門を祀ると傳ふ。又神流川あり相馬の仕女の溺死に關する傳說あり、
將門明神
 武藏多摩郡棚澤村穴澤天滿宮境内に在り。
將門靈社
 同じく小丹波村に在る。
熱田神宮及其の附近に於ける傳說
 將門謀反の報を得たる時、朝廷その折伏を熱田本宮に祈つた。その時神人本宮の神輿を飾り南門を出てたるに神輿のわだちに血の着きたるを見たといふ、其日は即ち將門の伏誅の日であつた云々
 千竈神社の本地といふ觀音堂あり、その堂後に地藏菩薩の石像があるが將門の首級を埋めた迹と傳へて居る。
 每年八月八日、熱田神宮に放生會の行事があるが、それは將門が陣地より生檎し來れる生類を放ちたるに發端すと傳へる。此時大宮の神輿は大和田に渡御するが、これも將門征討の遺習を襲ふものとされてある。
 熱田表大瀨子に三狐神の祠あり將門が靈を祀るといふ。又同所に扇川あり之に架せる橋を米かみ橋といふ。こめかみを射られて歿せる將門が首を洗ひしに因由すと傳ふ。
 神宮神輿の渡御ありて將門伏誅を祈りたりといふ星崎の地には神輿塚及將門調伏塚といふを傳へて居る。
東大寺三月堂の執金剛神
 南部東大寺三月堂の背後に東面して安置される執金剛神は、將門謀反の時數萬の大蜂となり關東に襲ひ到り將門を刺殺したと傳へて居る。