守谷中央図書館/わたしたちの守谷市

『改訂増補 守谷志』

沿革

四、平將門居館

 平將門が事は、其の人が反賊と貶せられたものであつたが爲めばかりでなく、その事件が京都から遠く離れた所にあつたが上に、文献に惠まれることの少なかつた東國に行はれたので、之を明かにすべき史料の傳ふるもの少く、今日に於て當時の事情を闡明すべきことは甚だ難事であるとせなければならない。
 それでも唯一つ、天慶三年二月十四日、將門が陣亡から僅に四ケ月の後に、將門に親炙した其の地の僧侶であるべく思はれるものゝ手記に成る「將門記」といふものがあり、然かもその承應三年の古寫本といふが、名古屋市の大須觀音寶生院に珍襲されて今に傳はり、世に出たことは最も珍重とすべきである。唯惜むらくは初め數葉を亡失して、將門が前半生を知ることの出来ないのは極めて遺憾とする。この「將門記」を外にしては、將門が事を記せるものは、何づれもその時を距る少くも二百年乃至二百五十年後に成つたものであつて、それも詳細に亘つて記るされたものは皆無といふべきである。加へて將門の歿後は、世にも恐ろしき荒ぶる神として祀られ、幻怪不思議の傳說まで續出し、隨つて之に關聯した舊蹟も隨處に見はるゝに至るといふ有樣に、愈々史實の研究を迷路に導くに至らしめた。この將門の靈が東國に於て荒ぶる神と遇せられたことは、恰も西國に於て菅公を荒ぶる神として恐れられたのと相對して好一對をなすものである(菅公を文墨の神として尊崇するに至つたのは室町時代以後のことで江戸時代に入つて大に普及したのである)蓋し菅公が忠誠無二の良宰にありながら讒に會ふて配所に送られ、寃を雪ぐの時を得ずして薨去したことは、遂に世人をして怨靈惡鬼となつて世を呪ふに至らしめたものと想像を逞うせしめ、遂に荒ぶる神と畏敬するに至つたことを想へば、將門が亦荒ぶる神として人に恐れられ、之を祀るものゝ多くを出したのも、正に彼が陣亡に同情を寄せたものゝ多かつたことを推想せしめる所であつて、怨を懷いて死したらんを思はしめたるの致す所とする。是れ中世以後の史家の一概に彼に對するに大それた反逆の名を以てして、大惡無道と黜し去ることの必ずしも當を得たものであるまじく再研究の必要のある所以ともしよう。今「將門記」を本とし、更に「尊卑分脈」「相馬系圖」「扶桑略記」「神皇正統錄」等及び現地に於ける幾多の傳說その他を參照し大体將門が事績を茲に總括して見る。
 先づ將門が家系を究むるに、將門は桓武天皇五代の皇孫に當る。即ち桓武天皇三代の孫高望王が始めて臣籍に降りて平姓を賜はり、上總介に任ぜられて東國に下つたが、その高望王に數人の子があつた。書によつて多少の異同はあるが、長は常陸大掾國香、次は下總介良兼、其の次は鎭守府將軍良將、其の次は上總介鎭守府將軍良持、其の次は良廣、其の次は村岡五郎良文、其の次は下總介良持、季は常陸少掾良茂とするのが「尊卑分脈」の記する所である。即ち以て兄弟一族皆常陸下總上總の間に勢力を扶殖せることを見る。良將は下總に在り、其の地の名族縣犬養(あがたいぬかい)春枝の女を娶りて八人の子を生んだ。長は將持(相馬系圖には之を擧げてない)次は將弘、將軍太郎と稱す、次は即ち將門、次は將賴、御厨三郎といつた、次は將平、大豐原四郎と稱す。次は將文、相模守、次は將武、季は將爲、或は圓滿院の良海が季であるといふ說もある。將門は相馬を稱し相馬小二郎、或は瀧口小二郎といつた。その瀧口といつたのは、少壯京都に上りて太政大臣藤原忠平に仕へ、瀧口の衞士となつた故であり、相馬小二郎といつたのは、相馬御厨に在つた爲めて、將賴の御厨三郎の稱と相待つて相馬の地に深綠のあることを證するものとする」
 將門生れて勇悍豪毅、若くして武に勵み、最も騎射に巧みであつたといはれる。承平の初め京都に上り、先考の知遇を得た關白攝政太政大臣藤原忠平に仕へた。瀧口の衞士に加へられたのは此時とする。次いで當時の京都の要職檢非違使を望んだが、之れは容れられなかつた。相馬御厨の下司に任じ再び東國に下つたと傳へられる。
 此際に於ける將門が下總に於ての居伴に就いては之を明かにするものはない。さりながら、その相馬小二郎の稱を是認するに於ては、相馬郡を本據としたことは當然の推想とする。又鎌倉時代以後の記錄は等しく之を認めて疑はないのは後に記るす通りである。而して相馬郡に於ては即ちその中心たる守谷に於て數百年の久しきに亘つてその遺蹟を傳へ、之に關聯せる地名を附隣に殘して居る。將門居館の地を守谷と推斷する所以である。
 此時、將門相馬御厨の下司となつたとあるが、之れも要するに唯官名によつて其の身を重からしめたまでゞあらう。又假にその任に就いたとしても神宮に奉るべき租を管理したまでミゞ繁多な職務のあつた譯ではない。御厨は元來伊勢皇太神宮供御の神領の謂であつて、相馬御厨に就いては、古く「神風抄」に次のやうに記るされてある。
下總國相馬御厨内宮上分布五丁段 口入百段
雜用布五百段
外宮上分四段 布五十段
御幣紙三百六十帖 千町

即ちそれだけが相馬御厨から太神宮に納入すべき税分になつて居つたことが知られる。而して御厨の所在地には必ずや大神宮の奉祀あるを例とし、相馬郡に於ては郡の最南端手賀沼の南に塚崎村、(今の千葉縣南相馬郡)に神明社があり、他には神明祠の在つた所がないから、先づ以て、此地が御厨のあつた所とも觀られる。さりながら相馬御厨の境域は寧ろ塚崎村を外にして、今の北相馬郡の殆んど全部がそれと指されてあつたやうに見ゆる。即ち「鏑矢記」所載天養二年下野守源義朝が相馬御厨四千町を概算した奇進文に、四至の局限を明記したものがあるが、それには次のやうになつて居る。
  寄進地一處事 在下總國管相馬郡
    四至 東限 須藤河江口(ストカハノエグチ)       南限 藺沼上大路(ヰヌマノボリオホチ)
       西限 繞谷(メクリヤ)幷目吹岑(メブキノミネ)  北限 阿太加(アタロ)幷絹川(キタカハ)
之によりて觀れば、東限は今の北文間の須藤堀(ストホリ)(須藤河)の邊、南限の藺沼は即ち今の利根川の流域、上大路は古への總常の通路に當る今の布施の邊、西限繞谷は菅生沼及目吹村(木野崎附近)、北限は毛野川、即ち今の小貝川流域及足高(あたか)(筑波郡)の邊であつて、殆んど北相馬一帶を包括してある。以て天養の頃に相馬御厨といふの限界を見るべきであらう。特に此頃には御厨なる當初の實質も失はれて、私領の一個莊園地となつたことも知られる。この事實は遡つて將門が頃のことにまで類推し得べく、將門は御厨の下司の名義は之を得たとしても、勿論塚崎に居つたものではなくして、御厨領の中心を爲する守谷の地に居館したものとして之をうなづき得るとすべきであらう。
 此頃、常陸前大掾に源護といふものがあつた。平家全盛の當時の常陸下總に、源氏を以て介在し權威を方一に振つた豪族である。その女は將門が伯父良兼及國香の子貞盛に嫁してあつた。又護には、扶、隆、繁の三人の男子があつた。それが會々女の事を以て將門との間に隙を生じ、干戈の間に見ゆるに至つたが、將門が勇武は一戰忽ち護等を破り、長驅して其の根據地たる新治、筑波、眞壁の三郡を燒いた。火聲天に響き煙は空を蔽ひ人宅灰の如く散じ國吏萬姓見て哀傷巳まずと記るされてある。外緣の好みから護等を援けた大掾國香の陣亡も此時である。折柄京都に在つた國香の子貞盛は此報を得て「哀しむべきは亡父の空しく泉路の別を告ぐるにあり、存亡獨り山野の間を傳へて朝居に迷ふ」さりながら將門は我が本意の敵にあらず、但源氏の緣坐なるを如何せん、霜母は我にあらざれば誰か養はん、田地は我にあらざれば誰か領せん。將門に睦み芳操を花夷に通じ比翼を國家に流さんと言ふて居るに觀れば、その間に事情のあつたことを知るに足りる。それと共に又將門の勢力の漸く大をなせることも察知するに難くない。實に承平五年のことである。已にして同年の十月將門が伯父の平良正は、共に護に因緣あるの故を以て兄の下總介良兼を促し、護が爲めの復讐と號し、兵を以て將門に追つた。將門むかひ討つて之を破り、新治郡川曲村に良正の勢六十餘人を射殺した。良兼は之を聞いて、翌六年六月兵を香取郡に起し、香取の神前から河水を渡りて常陸信太郡エト崎(江戸崎)の津に上陸し將門に迫つた。貞盛も亦その勸誘に應じ下野國から發向した。將門は百餘騎を以て良兼の大軍に抗し、忽ち八十餘人を射殺したので、良兼は驚いて遁れ去つた。將門は骨肉を殺戮するは物議あらんと言ふて追はず、國廳西方の陣を開いて免れしめ、自分は翌日を以て本堵に歸つたとある。
 是より先、護等は此事を京都に訴へたので、承平五年十二月二十九日の符は、六年九月を以て東國に着し、護及將門眞樹等の召喚を傳へ來つた。又左近衛番長正六位上英保純行は、其の事實を點檢すべく常陸、下野、下總の國府へ派遣を命ぜられた。之を聞いた將門はその訊問を待たず。十月十七日火急京都に上りて公廷に參じ、事因の次第を聞え上げたるに、幸に天判を蒙り檢非遣使廳の審問に附されたが、佛神の感應ある所、將門が辨解に理否明白となり、犯す所輕し罪過重からずと判ぜられ、武名を京畿に揚げ、面目を洛中に施し、承平七年四月七日恩詔を蒙りて東歸を命ぜられ、五月一日京都を發し、やがて下總の弊宅に歸着すと「將門記」は記るして居る。
 將門下總に歸つて旅慂未だ治せず、旬日ならざるに、良兼は會稽の心を遂げんと子飼(こかい)の渡を渡つて迫り來つた、八月六日とする。將門兵少く敵せずして退いたので、良兼は之を追ひ豐田郡栗栖院常羽御厩及民家を焚いて一たびは引き揚げたが、再び迫り來つた。將門之に對して豐田郡下大方郷堀越渡を固めたが、脚疾に惱み奮鬪不能であつたので、萬一を慮り一たび妻子を幸島(さしま)郡葦津の江の邊に隱し、更に又之を船に載せて廣河の江に泛べた。この廣河に就いて史家は後世の飯沼ならんとするものもあるも、此邊は擧げて沮澤の地であれば、獨り飯沼とする要もなかるべく、隨處に廣江のあつたので、今日に於て果して何づれと定むることは至難とする。此時將門はその兵の山を帶して防戰せる間にわつかに免れたが、敵兵は大江の船七八艘を掠奪すると共に、遂に將門が妻子を殺戮した。將門妻に死別し、哀怨痛切魂死せるが如しと「將門記」に記るされてある。唯將門の妾に誠あるものあり、その弟と謀り、將門を救つて豐田郡の居所に還らしめたといふ。
 已にして良兼又常陸より軍を進む、具する所千八百人、草木皆靡くと傳ふ。將門之に對し、十九日を以て眞壁郡に進みて之を邀擊し、良兼の陣所服織の宿より伴類の宅舍を燒き之を筑波に走らす。將門孟冬の候、徒に農民を惱ますに忍びずとし追擊せずして本邑に歸つた。
 十一月五日。官符あり、良兼及源護、平貞盛、藤原公雅、奏請文宜しく將門を追捕すべしと、蓋し京都に請ふて得た所である。然るに武藏、安房、上總、常陸、下野の國宰等は此官符を懷きながら肯へて張行しようとしなかつた。將門の勢力の大を知ると共に同情の將門にあつたことも察すべきである。良兼即ち獨り進んで將門を討たんとし、將門が驅使せる丈部(ハセツカヾ)の子春丸といふものゝ良兼の營に近き常陸石田庄に來れるを捉へ、食らはすに利を以てし將門を謀らしめた。春丸一たび私宅豐田郡岡崎村に歸リ、更に將門が居の石井營所に至りて、その案内を檢して之を良兼に報じ夜襲に便せしめた。「將門記」に石井營所の名の記るされたのは此處を以て初見とする。然るに將門は此計画を探知し、僅に十人の兵を以て夜襲の軍に當り、多治良利等四十四人を討取り克く之を防止した。承平八年正月のこととする。
 是後、貞盛は更に京都に訴へんと心に決して、承平八年二月山道より上洛の途に就いた。將門聞いて其の後を追ひ、二月十九日信州國分寺の邊に於て之に迫り、千曲川を隔てゝ戰ひ遂に之を破つた。貞盛山に隱れ、將門は歸國した。已にして貞盛辛うじて京都に達し、貞盛他國に在り官符を懷いて糺すも將門逆心を以て暴惡を遂ぐと奏し、天判を行はれんと請ふた。畢竟は私爭である。
 茲に又武藏權守に興世王といふがあつた。事を以て武藏介源經基及足立郡司判官代武藏武芝と爭ひ互に兵を構へた。將門之を聞き武芝は近親にあらず、守介亦兄弟の緣あるにあらず、然れども國府の爲めに之を鎭定せんと、進んで武芝の宅に就いた。當時將門の威武の漸く附隣に振ふに至つたことを見るべきであらう。かくて兩者の間に和略々成り、興世王武芝將に杯を交へんとせる時、會々武芝の從類卒然經基の營所を犯したので、經基の兵は驚いて分散し、和議遂に成るに至らなかつた。興世王は是に於て國衙に歸り、將門亦空しく本郷に歸つた。而して經基は倉皇京都に奔り、興世王と將門とは郡司武芝を催し先づ經基を殺さんと謀叛を圖ると奏するに至つた。因つて翌天慶二年三月二十五日、將門が曹主太政大臣藤原忠平はその實否を檢すべききの敎書を將門に下した。將門は之に對し、常陸、下總、下毛野、武藏、上毛野五國の解文(げぶん)を得て謀反の實なきことを辨疏した。かくて將門は三たび罪を獲んとして三たび免れた。此時六月上旬平良兼は病に歿した。
 已にして興世王は、新司百濟貞連が姻戚の間にありながら國事を專斷して興世王に與からしめざるに憤り、武藏を去つて下總に寄寓するに至つた。將門に賴つたものと見る。此時、恰も常陸の人藤原玄明といふあり、力に任せて官物を辨濟せず、長官藤原維幾に抗した。而かも維幾に迫らるゝに及び、玄明は妻子を提げて、豐田郡に遁れ來つた。豐田郡は將門の領内である。將門を擁し、爲めに維幾に請ふたが、容るゝ所とならなかつたので、將門は千餘の兵を提げて維幾に府下に迫り之を擒にし其の兵を殺し、三百の舍宅を燒て、凱歌を擧げて豐田郡鎌輪の宿に歸つた。
 此時、興世王は將門に進言して曰く、今案内を撿するに、一國を討ずるも公責已に輕からず、同じくは阪東を奪掠せんと。將門已に國司郡吏と事を構ふる三たび四たびに及び、解明難かるべしと期せるに、傍らよりこの進言あるに會し、遂に暴擧に突進するに至つた。答へて曰く、念ふ所亦他あらず、八國に始めて王城に及ばんと、即ち天慶二年十二月一日自ら陣頭に立つて旌旗を下野に進めた、士卒雲の如く從ふといはれた。是に於てか、新司藤原公雅及前司大中臣全行恐れて印鑑を將門に捧ぐるに至つた。將門意驕り、同十五日上毛野に向つたが、途に下毛野介藤原尙範も亦印鑑を使に付して進め來つた、將門直に府廳に入り、四門を固め、且つ諸國の除目を行つたといはれる。除目は守、介、椽、目等地方官任命のことである。假令當時の將門の勢威張れりといふも、その及ぶ所は僅に下總、常陸、下野の一部に過ぎない、中々にしかく大袈裟な事など爲し得べしとも思はれない。要するに、誇張に過ぎたることと見るべきではなからうか。此時一昌伎あり、八幡大菩薩の使と稱し、靈詫といふて將門に尊き位を授けたといつて居る。愚にもつかぬ事である。興世王は即ち自ら謚號を製し、將門を號けて平新皇といふたと、是れも「將門記」に記るしてある。將門は直に事由を攝政忠平に申逹した。其の文として「將門記」擧ぐる所をそのまゝに記るせば即ち次の通りである。
 將門謹言、不レ蒙二貴誨一星霜多改、謁望之至、造次何言、伏賜二高察一恩々幸々、然先年源護等愁狀、被レ召二將門一、依恐二官符一急然上道祗侯之間奉レ仰云、將門之事既霑二恩澤一仍早返遣者歸二着舊堵一巳ノ、然後忘二却兵事一後緩レ絃安居而間、前下總國介平良兼興二數千兵一襲二攻將門一不シテ能二背走一相防之間、爲二良兼一彼レ殺損奪二掠人物一之由、具注二下總國之解文一言二上於官一爰朝家被レ下下諸國合勢可三追二捕良兼等一官符上又了、而更給下召二將門等一之使上、然而依二心不〓安遂不レ道、付二官使英保純行一具レ由言上了、未レ蒙二報裁一欝邑之際、今年之夏同平貞盛擧下召二將門一之官符上到二常陸國一、仍國司頻牒送二將門一件ノ貞盛脱二追捕一蹐上道者也、″公家須捕糺二其由一而還給二得理之官符一是尤被二矯一飾也又右少弁源相職朝臣引二仰旨一送二書狀一詞云、依二武藏介經基之告狀一定下可レ推二問將門一之後ノ符上巳了者、待二詔使到來之比、常陸介藤原幾惟朝臣息爲憲偏ニ假二公威一只好二寃抂一、爰將門從二兵藤原玄明之愁一將門爲一聞其事發二向彼國一爲憲與二貞盛等一同心率二三千余之精兵一恣下二兵庫器仗戎具幷楯等一挑レ戰、於レ是將門二勵二士卒一起二意氣一討二伏爲憲カ軍兵一巳了、干時領翔之間滅亡スル者不レ知二其數幾許一況乎存命、黎庶盡爲二將門一膚獲也、介維幾不レ敎二息男爲憲一令及二兵亂一之由伏弁過狀巳了、將門雖レ非二本意一討二滅一國一罪科不レ輕可レ及二百縣一同レ之候二朝議一之問且膚二掠坂東ノ諸國一了、伏案二昭穆一將門巳柏原帝王五代之孫也縱永領二半國一豈謂二非運一昔振二兵威三取二天下一者皆史書所レ見也、將門天之所レ與既在二武藝一思惟ユルニ等輩誰比二將門一而公家无二褒賞之由一屢被レ下二譴責之符一者省レ身多レ恥、面目何絶エン、推而察レ之甚以幸也、抑將門少年之日泰二名簿於太政大殿一數十年至レ干レ今矣、相國攝政之世不サリテレ意擧二此事一歎念之至不レ可二勝言一將門雖レ萌二傾國之謀一何忘二舊主貴閣一且賜レ察レ之甚幸以一貫萬 將門謹言
   天慶二年十二月十五日
  謹々上太政大殿少閣賀恩下
 之によつて之を觀るに、將門一面には、新皇の謐號を受け、阪東の覇を稱しながらも、朝廷の重臣に對しては鞠躬如として辨疏に努めて居る。要するに爭奪攻略を事として居つた當時の地方豪族に有り觸れた爭覇であつて、會々不謹愼の言辭を弄したとするも、京都の朝廷に對し異心を挟んだものとは思はれない。さりとて驕慢に募つたことは否むべくもない。興世王宰人の下に、弟將賴を下野守に、多治經明を上野守に、藤原玄茂を常陸介に、興世王を上總介に、文屋好立を安房守に、平將文を相模守に、平將武を伊豆守に、平將爲を下總守にそれ/゛\に任命したとある。之れも假に事實としても徒らに大言壮語して一時の快を行つたに過ぎない事と思はれる。實際に於て上野上總安房相模伊豆など當時に於て將門が一指でも染め得た地ではない。
 續いて王城を建つべきの議を爲し「王城は下總の亭南に建つべし、兼ねて檥橋(チヽハシ)を以て京の山崎となし相馬郡大井ノ津を京の大津となす」と記るしてある。又左右大臣納言參議文武百官六辨八史皆点定し、唯歷博士を缼くと記るしてあるが、是に至つては遂に小說的の空想か、舞文の虛構たることいふまでもなく、兒戯に等しき誇張記事とすベきであることいふまでもない。
 之によつて之を觀るに、將門が戰捷に誇つて驕慢に募れる際、恰も對者の讒訴迫害もあつて、所謂自暴自棄に陷らんとせるに、加へて興世王の煽動もあり、靈夢の奇もあり、元來單純なる一介の武弁に過ぎざる將門を驅つて無謀の增上慢に至らしめたと見るべきもの、新皇の稱を受けたとか、王城建設の議を決したとか、諸國の除目を行つたとかいふ「將門記」の記事をそのまゝ信ずるとしても、それは大義に闇く文字に智識なきの致す所、攝政忠平に進言することを奏問といひ攝政家の審問を天判と稱する類で、斯うした不臣の言辭も當代の時勢に參照して考へなくてはなるまじく、假に將門をしてその志を成さしめたとしても、阪東八國に覇を稱し得たらんには、それが窮竟の目的たるべく、賴朝の覇府や家康の德川幕府ほとのことをも、想望したものではない、特に況んや天位を覬覦するなど大それた逆心を持つての事でないのは推斷に餘りある。
 それでも將門謀反の報を得た朝廷は、驚愕狼狽、直に名僧を七大寺に請じて調伏を祈り、左大將藤原忠文を征東大將軍に、刑部大輔藤原忠舒を副將軍として關東に下す議を定めた。將門は其の間、武藏相模を巡檢し、一たび本邑に歸つたが馬蹄を休めず、天慶三年正月更に常陸に發向し那珂久慈の遠きに及んだ。此時多治經明、坂上遂高等は、貞盛の妾及源扶の妻を吉田郡蒜間(涸沼)の江邊に獲て、之を辱しめんとしたのに、將門は女人の流浪は速に本屬に返すを法とすとして之に衣を與へ優恤して歸らしめたといふ。驕慢はあつても暴惡はなかつた將門の一面を見るべきものとする。
 是より先、貞盛は下野押領使藤原秀郷に身を寄せたので此に秀郷は四千人の軍を催して下野に陣容を整へた。將門聞いて直に下野に向つたが、藤原玄茂藤原經明等一戰に敗れ、秀郷は之を追擊して二月十三日下總の堺に着いた。將門は敵を誘致せんと辛島の廣江に隱れたが、貞盛は計を以て將門が妙屋より與力の家に火を放つたので、將門は身に甲胄を帶し四百の兵を以て辛島郡北山を帶して陣を布き之に對した。秀郷、貞盛は十四日未申剋之に迫り、折柄の暴風は、初め秀郷等に不利なりしも、接戰數回漸次勢は好轉した。而して將門は駿馬に鞭つて力戰の間、流失その額に中り遂に戰死した。三十八歳といふ。興世王以下悉く潰ゆ。將門が首は貞盛秀郷により下野國の解文を添へ四月二十四日京都に致された。將門が弟數人は或は髯髮を剃除して山に入り、或は妻子を捨てゝ野に迷ふといふ。寔に然るべきことであつたであらう。「將門記」更に記していふ。
 昔者依二六王之逆心一有二七國之災難一今者就二一士之謀叛一起二八國之騷動一縱二此覬覦之謀一古今所レ希也、況本朝神代以未來有二此事一將門常好二大康之業一終迷二宣王之道一仍作二不善於一心一競二天位於九重一過分之辜則先二生前之名一攷逸之報則示二死後之魂一諺日將門依二昔宿世一往二於東海道下總國豐田郡一然而被二覊殺生暇一曾无二一善之心一而間生有レ限終以滅沒、何ニ往テ何ニ來リ宿二於誰家一、
蓋し初め將門が擧兵の事の傳はる所、一時京都の上下を駭かしたことの豫想外に大きなものであつたことは次に揭ぐる國史の記事の上からも窺はれる。先づ「日本記略」に記する事を擧ぐる、
 天慶二年十二月
 二十七日癸亥、下總國豐田郡武夫奉二於平將門並武藏權守從五位下興世王等一謀反、膚掠東國」信濃國飛驛奏、○二十九日乙丑、信濃國言下平將門附二兵士等一追二上上野介藤原尙範下野守藤原弘雅前守大中臣定行等一由上ヽ同日賜二勅符於信濃國一應下徴二發軍兵一備中守境内上事」警二固諸陣三國國々及東山東海道諸國要害一」入レ夜武藏守貞連入京召二殿上前一被レ間二軍兵事起一、云々
 庚子三年天慶正月一日一宴會無二音樂依二東國兵亂一也、
 七日癸酉、宴會無二音樂一不二出御一依二東國兵亂一也、遣二使於伊勢大神宮一祈二東國賊事一依二宮中穢一不レ奉二幣物一
 九日乙亥以二武藏介源經基一叙二從五位下一依レ申二東國凶賊平將門謀反之由一也レ、解二却右衛門權佐源俊左衞門尉高階良臣勘解由主典阿蘇廣遠等一己上三人爲二推問東國史一屢申レ障不二發向一之故也
 ○十一日賜二官符於東海東山道一應一援下有二殊功一輩上不次賞甲事 ○十四日庚申、任二追捕凶賊使等一
 ○十九日乙酉、勅以二參議修理大夫藤原朝臣忠文一任二右衛門督一爲二征東大將軍一
 ○二月八日甲辰、天皇御二南殿一發二遣征東大將軍參議右衛門督藤原朝臣忠文一賜二節刀一
 廿五日、今日修二仁王會一祈下征二夷賊一事上也
 今日信濃國馳驛來奏云、凶賊平將門今月十三日於二下總國幸島一合戰之間爲二下野陸奥軍士平貞盛
 藤原秀郷等一被二討殺之由
 三月五日辛未、藤原秀郷飛驛言上殺二害平將門一之由、
 九日乙亥以二下野掾藤原秀郷一叙二從四位下一以二常陸掾平貞盛一叙二從五位下一己依下討二平將門之功也
 十八日甲申、征東大將軍解狀云 興世王爲二藤原公雅一被殺了
 廿五日辛卯、除自、次停止上總介藤原滋茂三將門亂時奪二印鑑一也
 四月二十五日庚申、藤原秀郷差使平將門首
 五月十五日庚辰 征東大將軍參議右衞門督藤厚朝臣忠文入洛返二上節刀一
 廿一日丙戍 開レ關解二警固一
 又「大鏡」には、將門が亂を鎭むる祈願として八幡宮の臨時祭の行はせられたることを記るし、更に「扶桑略記」には、名社大寺に將門降伏の祈願の行はれた數々の例を擧げ、樣々の奇瑞の現はれたことを記してある。
 同月二十日、善相公男定額僧沙門浮藏、爲二降二伏將門一於二延歷寺首楞嚴院一期二二七日一修二大威德之法一然間將門帶二弓箭一現二立燈盞一、人々見驚、然鏑聲自二壇中一出、指レ東去畢。浮藏既知二將門降伏一、公家被レ修二仁王大會一、浮藏爲一待賢門講師一、其日京都騷動、將門之軍只今既入二京都一、浮藏奏日、將門之首今日持參也者、果如一其言一、
 廿四日、有勅、遣延曆寺阿闇梨明達於美濃國中山南神宮寺一令レ修二調伏四天王法一擢授二内供奉禪師一、千レ時燒香之煙遍滿二寺中一、助修僧侶卅人各掩二其鼻一、將門被レ誅之日、其香滿レ國、結願之時賊首將門其首到來、松尾明神託宣日、明達者遣唐仲阿倍仲丸後身也云々
 又世相傳云、於二東大寺四絹索院執金剛神前一、七大寺僧集會祈二請將門調伏之由、然間數萬大蜂偏二滿堂内一迅風俄來、吹二折執金剛神之髻糸一、數萬之蜂相二隨髻糸一向レ東穿レ雲飛去、時人皆謂、將門誅害之瑞也、一云、東大寺四絹索院後、有二等身執金剛之像一頭光右方 天衣切落、古老云、天慶之比有二平將門一謀レ危二因家一兵革無レ絕公家爲一免二其難一祈二請此寺二神像己隱廿餘日、寺家稱レ怪、屢經四奏問一三疑二合戰之不利一、彌以恐怖、不レ經二幾日一像己立一本壇之跡一、見二其天冠之飾一右方己缼落一、又其身濕如レ流レ汙、現下爲レ賊被二射損一之相上也、依二此祥異一遂梟二將門之首一、
 又公家於二大膳職 被レ修二小栗栖法琳寺之大元法二古老傳云壇中血出 云々
 尙神社佛寺祈請事勝げて計るべからずとある。當時の京都の有樣を知るべきである。
 さて將門最後の地の辛嶋とあるは、幸嶋(サシマ)の誤寫であつて、猿島郡のことであることは特にいふまでもなく、廣江は後の飯沼一帶の沼澤と見るべきである。今も岩井の地には國王神社あり、將門を祀ると傳へて居る。將門戰歿の地の岩井附近であつたことは疑を容れない。
 次に將門の本居の所在地であるが「將門記」には豐田郡の語屢々見ゆ以て豐田郡とする、それも相當有力である、更に「將門記」には本堵又本郷など記せるものが多くある。
 本堵に歸ると記せるもの一ケ所
 本郷に歸るとあるもの二ケ所
 弊宅に歸るとあるもの一ケ所
 本邑に歸ると記せるもの二ケ所
 豐田郡鎌輪の宿に還るとあるもの一ケ所
 「還る」又「歸る」と記せらるゝ以上、其の地は一時的なり又定住であるなり、何づれにしても本據でなくてはならない。此外に尙ほ將門が妾のことを記して豐田郡に還らしめ本夫の家に屬すといふものがあり、又記文の終りには前に擧げた通り「昔の宿世に依つて下總國豐田郡に住す」といふ文もあり「日本記略」の豐田郡の武夫將門興世王を擁して謀反すと記るしてあるも考へなくてはならぬ。次に石井營所も一時であつたが居伴の處であつたことは、良兼が丈部の子春丸を使役して其處に將門を襲撃したことや、又、最後の合戰に將門の妙屋としてあることからも、これを推斷し得られる。此に豐田郡とあるその郡名は、明治中年まで存立し中年以後結城郡に併合となつたものであつて、南は水海道より北は宗道に及び、鬼怒川小貝川に介在してあつた小郡であるが、將門の頃は後の岡田郡といはれた所まで或る部分含まれてあつたやうである。その郡内に將門の居住のあつたことも以上の記事から大体うなづかれる。是等の事から觀て、將門の當時の居住は遂に一ケ所ではなくして數ケ所あつたことが推想さるべく、延いて本邑、本堵、本郷など記るされてある所は果して何れを充つべきかゞ問題になる。是等をそのまゝ一つの地名として考へた史家もないではないが、これは當然本貫の郷里といふ意義でなくてはならない。而してその本貫が豐田郡の内にあつたか、猿島郡の内にあつたか、將た相馬郡にあつたか、それは遂に今にして明かにすることは出來にくい問題である。北相馬郡の内守谷村には本郷といふ字を今に殘すが、これも直に「將門記」の本郷であるとは考へられない。
 次に將門が僞宮の地の所在であるが、これは中世以後、或は相馬郡とするなり、又は猿島郡岩井とするなり、その差はあるとしても軌を一にして僣都經營と記るして居る所である。さりながら「將門記」には王城を建設すべしと議したといふ記事はあるが、建設したといふ記事はない。又事實將門が阪東掠略王城建設を議したといふのが天慶二年十二月で、誅戮されたが翌三年の二月である、その間僅に二ケ月に過ぎない。特にこの間は北に西に戰馬席溫まるに暇もない有樣で、到底王城などの土木を起す餘裕のあるべきではなかつた。唯將門が勢力の大きかつたのと、驕慢の態度の議すべきものゝあつたのと、それが一層大仰に京都に傳へられ、遂にアンなにまでに世を騷がすに至つたものと思はれる、隨つて後來の史書も、誇張された計画を僞都と稱し。幾分の規模を加へた在來の本據を僞宮などいふやうに傳へたものとするのを妥當なる判斷とする。それにしても之を猿島郡としたものと相馬郡としたものと二タ通りあることを知らなければならない。猿島郡としたのは、水戸の「大日本史」が「扶桑略記」に採りて
 造僞宮於猿島郡石井郷
と記したのを、その重もなるものとし「日本外史」も之に倣ひ、明治年間までは多數の史書は之に據つて居つた。而して「大日本史」の憑據とした「扶桑略記」の記事はと見ると、之れには、
 又定下可レ建三王城一之處上下總國猿島郡石井郷南亭可レ爲二都朝一
とある。「扶桑略記」は神武天皇に始まり堀河天皇の寬治八年に至るまでの間の事を記せる編纂物であつて、叡山の僧阿闇梨皇圓の選とある杜撰の史實の混同して居ることは史家の定說として已に認められてある。
 「將門記」は猿島郡を幸島と書いて居る「扶桑略記」は猿島と書いて居る。然るに平安朝の諸記錄は「延喜式」でも「拾芥抄」でも猿の古字を取り湲島と記るし、「倭名抄」だけが猿島としてあるが、「倭名抄」の郡名地名の部は僞書であること夙に狩谷掖齊之を唱へ今は定說となつて居る。是等に觀ても「扶桑略記」の猿島は考慮の要がある。
 將門謀反の據地を相馬郡としたものは「神皇正統錄」を以て最古の記錄とする。この書は神世に始まり、後鳥羽天皇建久九年源賴朝落馬不起に擱筆したもので、その頃の作と思はれる。將門に就いては次のやうに記るしてある。
 同歳(天慶二年)相馬小次郎將門東國二於テ叛逆ヲ企テ、伯父常陸大掾平國香ヲ滅テ關東ヲ從へ下總國相馬郡二居住而平親王卜自稱ス、是桓武天皇六代ノ孫鎭守府將軍良將之次男也
 同三年庚子春正月浮藏貴所勅二依テ比叡山横川二於テ大威德ノ法修朝敵平將門ヲ降伏、于時弓矢ヲ帶燈焰立伴僧皆見、須叟流鏑聲東ヲ指テ去、同二月二十三日ニ平將軍貞盛將門追討之宣旨ヲ蒙ニ依テ俵藤太秀郷等之官軍ヲ引率而下總國相馬館へ發向、爰將門四千餘騎ノ軍兵ヲ率而辛島郡口山ニ對陣、翌廿四日未刻矢合而互責戰之處、凶賊强而官軍乘劣之間或被討或疵ヲ蒙者數ヲ知ス、之ニ依テ貞盛秀郷等引退之處官軍多以逃亡、爰將門勝ニ乗官軍責襲、于時貞盛秀郷等精兵二百餘人ヲ揃具而返合、身命ヲ棄競戰之間將門遂秀郷ガ爲ニ打捕レ訖、同四月廿五日將門首上洛、入洛之後洛中ヲ渡、獄門之前ノ樹ニ掛ラル、
 之に續いては鎌倉時代の初期に出た軍記物語の「保元物語」「平治物語」や「源平盛衰記」の類は何づれも相馬郡說を採つて記るして居る。試にそれを摘記すれば次のやうである。
 「保元物語」卷二
    朝敵宿處燒き拂ふ事
 昔朱雀院御宇承平年中に平將門八箇國を打靡けて下總國相馬郡に都を建て、我身を平親王と號して百官をなし、諸司を召使ひけるが、剩都へ攻上り、朝家を傾け奉らんとする由聞えければ、防戰に力盡き追討に謀なし、依て佛神の擁護を憑みて諸寺諸社に仰せて冥感の政をそ仰がれける。殊に山門其精誠を抽でけり、其時の天臺座主尊意僧正は不動の法を修せられけるに、將門弓箭を帶して壇上に現じけるが、程なく討たれけるなり。權僧正は其勸賞とぞ聞えし。
 「平治物語」卷三
    長田義朝を殺し六波羅に馳せ參る事
       附義朝が首を梟くる事
 昔將門が首を獄門に梟られたりけるを藤六左近といふ數奇のものが見て、
  將門は米がみよりぞ切られける
     たはら藤太がはかりごとにて
 と詠みたりければしいと笑ひけるとなり。將門は桓武の御子葛原親王より五代、上總介高望の孫良將が子なり。朱雀院御宇承平五年二月に謀反を起し、伯父常陸大掾國香を討ちてより東國を從へ、下總國相馬郡に都を建て、平親王と自ら稱せしが、六年に當りて天慶三年二月藤原秀郷に討れし、首四月の末に京着し、五月三日に笑ひしぞかし。義朝も名將なれば此首も笑ひやせん。秀郷國香が子貞盛と倶に向ひて攻めしかども城難くして落難かりければ、秀郷身をやつしてねらひけるが、將門容貌相似たる兵七人伴ひて更に主從の儀なき間辨へ難かりしに、或時秀郷新米を出したり、その時、將門を見知りて終に之を討てりといへり、依りてかく詠むなるべし。
 「平家物語」卷九
    三草勢揃の事
 昔將門東八ヶ國を打ち從へて下總國相馬の郡に都を立て我身を平親王と稱して百官をなしたりしに歷の博士ぞなかりける。
 「源平盛衰記」廿六
     福原除目付將門稱平親王事
 昔將門ガ東八箇國ヲ打ナビカシタリケルニ下總國相馬郡ニ都ヲ立テ我身平親王卜被祝テ百官ヲナス、將門カ舍弟御厨三郎平將賴下野守ニ任ス、同大葦原四郎平將平上野介ニ任ス、同平將爲下總守ニ任、同平將武伊豆守ニ任ス、常羽御廐別當多治經明常陸介ニ任ス、藤原玄茂上總介ニ任ス、武藏權守興世安房守ニ任ス、文屋好重相模守ニ任ス、諸國ノ受領ヲ點定シ、王城ヲ建ツヘキ紀文ニ云、下總國可建立亭南、以礒橋爲都山崎、以ニ相馬郡津一京ノ大津トスベシト申テ、大臣納言參議文武六辨八史等百官ヲ成クリケルニ暦博士計リナカリケル、
 「源平盛衰記」廿七
    俵藤太將門中違事
 昔將門ガ東八箇國ヲ打塞テ凶賊ヲ集メ王城へ攻入ベシト聞ユ、平將軍貞盛勅宣ヲ蒙テ下伺ス、下野國住人俵藤太秀郷(名高キ兵ニテ多勢ノ者也ケルガ將門卜同意シテ朝家ヲ奉傾日本國ヲ同心ニシテント思フ行向テ角卜云、將門折節髮ヲ亂テケツリケルガ悦テ取モ不敢大童ニテ而モ白衣ニテ周章出合テ種々ノ饗應事云ヒケレバ秀郷目カシコク見咎テ此人ノ體骨也ハカ々々敷、日本ノ主トナラントシテ初對面ニ心替リシケル上ニ俵藤太ヲモテナサンガ爲ニ酒肴椀飯カキ居ヘテ是ヲスヽム將門ガ食ケル御料袴ノ上ニ落散ケルヲ自是ヲ拂ヒノコヒタリケリ、是ハ民ノ振舞ニヤ云甲斐ナシト心ノ底ニウトミツ、後ニハ貞盛ニ同意シテ秀郷カ謀ヲ以テ將門既ニ亡ビケリ、
 「源平盛衰記」廿三
 下野國住人俵藤太秀郷ハ將門追討ノ使下ルベキ由聞エケレハ平親王ニクミセントテ行向ヒタリケルニ大將軍ノ相ナシト見ウトミテ憑二憑マント僞テ下國ニ歸り貞盛ヲ待受テ、相從テゾ下リケル承平三年二月十三日貞盛巳下ノ官兵將門ガ館へ發向ス、將門ハ下總國辛島郡北山卜云所ニ陣ヲ取其勢既ニ四千餘騎、同十四日未時ニ矢合セシテ散々ニ戰官軍凶徒ニ撃カヘサレ死スル者八十餘人疵ヲ蒙ル者數ヲシラズ、貞盛秀郷等引退、刻ニ二千九百人落失ヌ將門勝ニ乗テ責メ戰フ時貞盛秀郷等精兵二百餘人ヲソロヘテ身命ヲ棄テ返シ合セテ戰ケリ爰ニ將門自ラ甲胄ヲ着駿馬ヲ疾メテ先陣ニ進ミテ戰フ處ニ王事靡鹽天罰正現テ馬ハ風飛歩ヲ忘レ人ハ李老之術ヲ失ヘリ其上法性坊調伏ノ祈誓ニコタヘツヽ神鏑頂ニ中テ將門終ニ亡ビケリ、同四月廿五日將門ガ首都へ上ル大路ヲ渡テ左ノ獄門ノ木ニ懸ラル、哀哉昨日ハ東夷ノ親王トカシツカレテ威ヲ振ヒ今日ハ北關ニ逆賊卜成テ恥ヲサラス事ヲ貪レ德背レ公宛如二憑レ威踐レ鉾之虎一卜云本文アリ、……
 (中略)將門カ舍弟將賴等常陸介藤原玄茂ハ相模國ニテ討レケリ、武藏權守興世ハ上總國ニ被誅坂上近高藤原玄明常陸國ニテ切レタリ伴フ類與黨多カリケレ兵妻子ヲ捨テ八道出家シテ山林ニ迷ケリ、將門追討ノ勸賞行ハレケリ左大臣實賴小野宮殿右大臣師輔九條殿已下公卿殿上人陣ノ座ニ列シ給ヘリ、大將軍貞盛ハ上平太ナリケルガ正五位上ニ叙シテ平將軍ノ宣旨ヲ蒙ル、藤原秀郷ハ從四位下ニ叙シテ武藏下野兩國ノ押領使タリ、右馬助源經基ハ從五位下ニ叙シテ太宰ノ小貳ニ任シケリ、次副將軍忠文卿ノ勸賞事沙汰有ケルニ……(小野宮殿異議ノコト已下略ス)
 又史籍にあつて相馬郡說を探つて居るものには北畠親房卿の撰に成る「神皇正統記」や永享年中の記述である「神明鏡等」がある。
 「神皇正統記」源准后親房撰
  第六十一代朱雀天皇條
 この時、平將門といふものあり、上總介高望が孫なり高望は葛原親王の孫平の姓をたまはる桓武天皇四代の御苗裔なり 執政の家に仕うまつりけるが、使の宣旨を望み申しけり、不許なるによりて憤をなし東國に下向して叛逆をおこしてけり、先伯父常陸國の大掾國香をせめしかば、國香は自殺しぬ、これより坂東をおしなびかし、下總國相馬郡に居所をしめ都と名つけ、自らも平親王と稱し官符をなし與ヘけり、これによりて天下騷動す、參議民部卿兼右衞門督藤原忠文朝臣を征東大將軍とし源經基淸和の御末六孫王といふ賴義義家が先祖なり藤原忠舒忠文の弟を副將軍として差し遣さる、平貞盛國香の子藤原秀郷等心を一にして將門をほろぼして、その首を奉りしかば諸國は道より歸り參りにき、將門は承平五年二月に事を起し天慶三年二月に滅びぬ、その間六年なり。
 「神明鏡」後花園天皇を今上と稱す永享中の記述
  第六十一朱雀院條
 七年(承平)平將門下總國相馬ノ郡ニ於テ謀叛ヲ起、藤原秀郷鎭守府將軍卜號、平貞盛勅ヲ奉シ兩將將門ヲ對治セシメ首ヲハ秀郷取り兩將上洛ス
 斯樣に鎌倉初期の軍記物語から「神皇正統記」や「神明鏡」に至るまで、將門稱覇の地を相馬郡として居るが、それにしても僞宮建設の史實は認むべきでないから、之を論評考定するの要もあるべきでなく、唯是等によつて將門本據の地點を推定するの料とすべきであらう。然しながらこれも今は濫りに乏しい史料から推斷することを避けて此には比らく幾多の傳說と守谷城址の形勢及規模につき實際の狀況を述べ後日の考定に資することゝするに止める。
 守谷城址は、現在の土壘空濠の遺墟等、土工の大部分が鎌倉以後、或は室町以後のものであつて、それ以上に遡るべきではないとしても、地勢に於て自然の要害を占めて居ることは、今日も五百年千年の昔も敢へて變化あるべきにあらず、沼澤のさ中に半島形に突出した丘陵であつて、そのおのづからなる規模の雄大、要害の堅固は、蓋し容易に他に比儔を求むべきではない。而してその規模は甚だしく厨川柵、膽澤城などゝ相似たる所多しとは、専門硏究家の等しく指定せる所とする。特に城地を遶つて神社佛閣を建設せる事は當時に於ての常套手段で、奥州に於ける平泉藤原氏三代の遺蹟、鎌倉幕府等その例の著るしいものとするが、守谷附近に於ても現存せる神社佛閣又地名その他に余影を止めて昔時の存在を思はせるものその數極めて多く、是れ亦他に容易に類例を見ない所とする。
 午頭天王(今八坂神社)愛宕權現(今愛宕神社)日吉山王、八幡大神(今八幡宮)以上現存
 天神祠、妙見八幡、河獺辨天
 西林寺(天台)長龍寺(元眞言今禪寺)永泉寺(眞宗)
 雲天寺(淨土)淨泉寺(同上)以上現存
 西福寺(天台)
 大日堂、藥師堂、
 藏圓寺、法華坊、半僧坊、赤法華
 地名にありては、糺の森、右近道、(右金堂か)、右京山、番場、向原、追分、土塔、淸水等皆考慮すべきものとする、是等に就いてはすべて後日の考に待つ。
 又守谷沼を隔てゝ本城址と相對して市の代があり、高井村の大字として存在する、これも下總國廳のあつた國府臺の南一里に市川があり、陸奥の多賀城に近く市の川があるなどゝ共に、その昔府城に近く市場のあつた其の址であることを示して居るものであつて、其れ此れ合せ考ふべきことであらう。