守谷中央図書館/わたしたちの守谷市

『改訂増補 守谷志』

沿革

二、上古の世

 有史時代は即ち歷史あり文字あり秩序ある時代である。此時代に入つても、早く已に此地方が權勢ある豪族の據る所となり、他に先だちて文化の開進を見た所であつたことは、亦その遺物である古墳の此地方に極めて多く見られることから知ることが出來る。試に杖を曳いて一歩郊外に出づるに於ては、或は前方後圓、或はまる塚、若しくは角塚など、さま/゛\の古塚の到る所に散在してあるのを觀る。十三塚、大塚、二つ塚、五十塚、のめり塚。上人塚などは就中名のあるものであつてその外、明治初年巳來發掘されたものには、守谷町九左衞門屋敷地内の椿塚、小絹村御出子(おんでし)の權現塚、高井村市の代字御姫様地内の一ケ所、岡村の岡不知、同延命院境内一ケ所、筒戸禪福寺境内の一ケ所等がある。何づれも巨大なる石廓に疊まれた宏大な墳墓であつて、その内外よりは人形馬形の塡輪土偶及直刀矢鏃馬具等の武器、或は祝部の祭器等の副葬品を多く出して居る。就中、市の代及岡不知幷延命寺古墳等より發掘した人體馬匹の塡輪敷個は、形も大きく破損もないので歷史上極めて貴重な參考品として、その數個は現に國立博物館に保管されてある。又岡不知古墳よりは夥しき多數の直刀と矢鏃とを出したが、それは今果して何處に保存されてあるか知らぬ。
 古墳ではないが、守谷の北東端、郷州原と稱する沼添への丘陵地からは相當廣範圍に亘つて祝部その他の上代土器破片が、地下深からざる所に無數に埋沒されてあつて、採集も極めて容易である間々完全なる土器の發見もあつたが、それ等の中には又祭祀用のものが少なからず見受けられた。蓋し地勢上その他から類推しても、此附近が有力なる上代日本民族の居住地であつて、特に郷州原が祭典の行はれた遺蹟であらうと想はれる。今日本民族居住遺蹟の碑が建てられてある。
 又守谷沼からは、明治初年以降二回までも獨木舟を發掘して居る。第一回は明治五年守谷沼開拓の際であつて、守谷地先及同地々先の中間に當る沼底泥土の中から得られた。長サ四間に餘り毀損も少なかつたので、發掘當時は四五人のものが之に乘りて漕ぎ𢌞はつたといはれたが、水を離れて時日を經過し乾燥するに隨つて、其の質の漸次脆弱となつたのを利し、爭つてその一片を毀ち取りて守護符となすものもあり、又は平將門に附會して祟を恐るゝものなどもあり、遂にその半分を毀つたまゝ發掘原地に再び沈め去つた。第二回の發掘は、昭和二年の六月であつて、守谷城址の丘陵下最も高地に接近した水田から偶然に發掘したものであつた。當時の沼の岸に繫留したまゝ埋沒したことに想像するに充分な位置であつた。大サは長サ三間半、幅三尺餘、底は扁平に、周圍は二寸ほどの厚みを保つて居た。側部と底部との境界が鋭き角度をなして居つたのは進歩した工作から成つたことを示し、資材は松材であつて、それも圓材を半折して作つたものではなく、圓木のまゝ刳つたものであつた。此時は内務省から史蹟調査員の柴田常惠氏及矢吹活禪氏の出張を煩はして精密なる研究にも資した。要するに之を第一回の發掘品に比すれば甚だ技巧的に造られてあつて、勿論鐵器使用のものであることが明かにされた。前者に比しては時代も降るべく、或は將門當時のものであらうかと諾かれる。一時寺院内に保管してあつたが遂に毀損に委した。
 何づれにしても是等は然るべき豪族の此地方に威を振つて蟠居するものゝあつたことを知るの料たると共に文化の進歩をも倂せ觀るものとせなければならない。