守谷中央図書館/わたしたちの守谷市

『改訂増補 守谷志』

沿革

一、先史時代

 利根川の舊流は總武兩國の間を流れ、猿又から今言ふ古利根を河道として小菅・隅田を經て江戸灣に入つたものである。現在守谷の西南を流れて居る大利根は、過去に幾變遷を經て、江戸の初世に開かれた河道であつて、平安朝時代にはこの邊は藺沼(いぬま)の稱を以て呼ばれたほどに、概して低濕な水澤の連續であつた。又鬼怒川も、その昔、水源地の毛野國(今の上野下野)の名をそのまゝに冠せられたことにも知られる如く、利根川よりも大きな流れであつて、大体に於ては常總兩國の間を流れる今の利根の河道が、その昔の鬼怒川の河道であつたものである。さりながら、それとても今の小絹村細代から大井澤村板戸井に至りて利根川に合する河道は、江戸時代の寛文年中に、伊奈備前守によつて開鑿されたものであつて、往昔の河道ではない。今の水海道の邊から戸田井邊に於て利根川に注ぐ小貝川の河道が往古の大毛野川、即ち鬼怒川の河道であつた。然しながら何つれにしても、それ等は歷史時代に入つてのことであつて、その以前の先史時代など果して如何の狀態にあつたか、今に於ては到底明かにし得べき限りではない。さりとて古の丘陵が今沼澤に變り、今の高丘が古への水濕の地であつたなどいふことは想像さるべきではないから、大体是等諸川の流域の部分は、以前から水濕の地であつたことは推想される。守谷城址直下から、守谷貝塚沼に連續する數里に亘る水澤も、明治初年から中年にかけて開拓して水田とされたもので、その以前は勿論一帶の沼地であつた。更に古き昔を考ふるに於ては、漫々たる水を湛へてあつたらうこと想像に難くない。而して現在高台を爲して居る地が、是等の水澤に接して人の居住に適した所であつたこと亦疑ふの餘地はない。
 未開の時代に於て水面は最利最便の交通境であつた。又魚介の利の豐かなる所、水に瀕する地が最も人の生活に適した所であつた。而して等しく水に接しながらも岩石の險峻なく、地盤の高低少く、鳥獸を狩るにも易く、地味肥えて萬穀生ずるに於て、益々其處に住民の繁殖も見ねばならない。果然守谷附近に早くも先史時代に於て住民繁殖の證左を見るのは、この土地の形勢の然らしめる所とする。現に彼等の遺蹟たる貝塚は此近郊に多く散在する。現に貝塚といふ地名さへも殘されて今高井村の一部をなして居る。又附近一帶、或は畑地より、或は原野より、石斧、石鏃、石皿を初め様々の石器や土器等、その時代の遺物が甚だ無雜作に發見されるのを見る。その已に得られたもので今斯界に參考品として國立博物館や國立東京大學の人類學敎室等に藏置されるに至つて居るものも少くはない。私人の有となつて居るものも多い。貝塚や市ノ代から發掘された土偶には特に珍希とされるものもある。
 之を要するに、守谷及其の附近は夙に先史時代に於て已に先住民族及原日本民族の居住し繁榮して居つたものであることを充分に認めなくてはならない。