守谷中央図書館/わたしたちの守谷市

『改訂増補 守谷志』

概説

 利根川、鬼怒川、小貝川といふ三つの河水が、西南と、北西と、東北とに、何つれも一里内外を隔てゝ流れて居る。さうした間に介在して、東南から西北ヘー里餘、西南から東北へ半里ほとの丘陵を爲し、東北に開けた水澤の間に突出して居る地が。今の守谷町であつて、その全域内が往昔の守谷城の遺址である。而して水澤の在る方と反對の西南一帶は又之を遶る谿谷があつて、相連る丘陵との間を斷ち切つて居る。河の流域は近世でさへ幾變遷して居るので、勿論今の流れが直に古い時代の流れでなかつたことはいふまでもないが、この水澤に臨み谿谷に隔てられてあるといふことだけで、弓矢や刀槍が武器であつた時代には無比の要害であつたと推されなくてはならない。この最要害の中樞に守谷城の牙城址はある。而してそれを遶つて二重三重の土壘空濠が作られてある。其れ等は今は大半は毀たれてあるが、尚當時の規模を窺ふには充分である。牙城の址は今平臺山とも又單に城山とも呼ばれてある。市街地はこの城山から十町餘りを西南に隔てゝ大方南北に縱貫して街衢を形成して居る。城を本位に觀れば、この市街地は恰も外廓に相當する處でもある。
 守谷町の街衢の町幅の廣かつたことは、在來附近にその例を觀なかつたもので、八間乃至九間を保つて居つた。然るに明治二十年の交、國道として玉砂利工事を施すに際し、現在の五間幅に狹められたものであるが、尙當時の建造物をそのまゝに残有する邊には舊態が見られる。
 町といふ稱も亦附隣の都曾には在らざる所であつて、現在殷賑の都曾地たる取手町も江戸時代には取手村であり取手宿であり、水海道も水海道村であり水海道驛であつた。城下の谷田部も牛久も村を以て呼ばれ、町を以て公稱としたのは守谷以外にあつては土浦、下妻等に過ぎなかつた。以て往時の守谷の位置を知るべきであらう。
 現在の守谷町は、上町、仲町、下町、城内、坂町、新町、新田及新開の榮町等を以て兎も角も街衢を形成し、東西に少しく隔つて愛宕及土塔幷清水等の區があり、更に赤法華、奥山、小山、辰新田の大字を包含して總戸數九百餘、人口略四千八百を數へ、茨城縣所管として、下總國北相馬郡に屬して居る。
 江戸時代以前は、今市街を構成して居る地域はすべて城内であつて、市街は西南谿谷を隔て高野村に接近した高丘であつた。現に本宿及宿畑の字名を残して居るのは之を立證するものとする。
 鎌倉から奥州に通ずる宿驛に當つたものと思はれる。