守谷中央図書館/わたしたちの守谷市

『守谷わがふるさと』

守谷一世紀のあらまし

 利根、鬼怒、小貝の三河川にかこまれた守谷町は、洪水に見舞われることは宿命ともいえよう。事実、大水害の話は数多く聞かれる。しかし記録となると、その少なさは驚くほどである。茨城県下での水害史を体系的にまとめた文献も見当たらず、「いはらき新聞」にも守谷町の被害に関する記載はなかった。そのため、ここに記載されなかった水害もあるはずである。不備を謝すとともに、その空白を読者の方々の手で埋めていただけることを切に願う。
 
明治四十三年(一九一〇)
 この洪水は、八月五日ごろから続いていた梅雨前線による雨と、十一日に八丈島の北を通って房総半島沖を通過した台風、さらに十四日、沼津付近から甲府を通って群馬県西部を通過した台風の三者がもたらした豪雨によって発生したものである。明治時代において最大の被害を記録したが、あいにく、当町における被害の記録は残されていない。明治時代に洪水があったことを覚えている古老もあったが、それが明治四十三年(一九一〇)であったかどうかはっきり記憶してはいなかった。
 なお、この近辺での降雨量は次のとおりである。
降雨量
七~十一日 総降雨量筑波山 二二八・三ミリメートル
六~十一日 総降雨量取手 二七〇・八ミリメートル

 
昭和十年(一九三五)
 『旧大井沢村役場事績簿』によれば、昭和十年(一九三五)九月二十三日夜から豪雨に見舞われ、二十五日午後六時に洪水となり、板戸井堤防が決壊したという。この時の大井沢村内の被害状況は、罹災者戸数三四戸、人口二〇〇人、政府米借入二八戸、人口一六八人、政府所有内地玄米借入四五戸であった。またこの時、小貝川堤防決壊の罹災地、高須村(現藤代町高須)ほか六力村に対して、救護慰問金百四十四円を贈呈している。
 一方高野村の事績簿には、二十六日午前中には川端地区内一九戸のすべてが床上浸水となり、堤内冠水面積一五町歩、利根川の水位は七メートル一八であったと記録されている。
 『旧大井沢村役場事績簿』に「未曾有の洪水」と書かれることになった大洪水の原因を探ってみよう。この年は八月中旬以降悪天候続きで、水戸測候所の記録では八月十四日から九月十七日までの降雨量は平年の二六%増に当たる二四五・八ミリメートル、日照時間は例年の二分の一であった。その上、九月二十日前後に沖縄南東付近に現れた台風の影響で次々に低気圧が発生し、二十三日夜半から二十四日夜へかけて県内全域に集中豪雨を降らせていた。その後、雨は徐々に弱まり、二十五日夜八時には止み、台風も日本海北部に去った。しかし、二十六日午前二時ごろ、新たに小笠原諸島付近から北上してきた台風の影響で、またも雨が降り出した。県内での降雨量はさほどではなかったが、群馬・栃木の水源地方では多大な雨をもたらし、利根・鬼怒の両河川を増水させた。
 つまり、この年の洪水は、一カ月余りにわたる悪天候、集中豪雨、水源地での豪雨の三つが重なって引き起こされたのであった。
 
昭和十三年(一九三八)
 昭和十三年(一九三八)の水害は、六月二十八日から三十日までの豪雨による七月一日を中心とした出水(第一次水害)、八月二十六日から二十七日の降雨による二十八日の第二次水害、八月三十一日の台風による九月一日の第三次水害、そして、十月二十一日の暴風雨による第四次水害に分類される。ただし、守谷町には、第四次の水害は無かったようである。
  (一)七月の水害(第一次水害)
 六月二十六日ごろ小笠原西方から北上した台風の影響で、梅雨前線が活発化し、台風通過後も関東付近に前線が停滞していた。六月二十八日夜明けから七月八日までの県内総雨量は六四〇ミリメートルに達した。
七月の水害(第一次水害)による被害状況
町村名旧守谷町高野村大野村大井沢村
家屋被害全潰


床上

床下一五二一
水稲への被害面積九八町二反七五町一六二町二反四〇町
金額四六、六四一円三九、〇二七円六八、四二九円二四、三二〇円
陸稲への被害面積五町六反二〇町九反二八町九反四五町
金額九〇五円五、五五〇円九、三三一円一五、〇〇〇円
農作物被害割合三割未満三割以上五割未満三割未満
注1 農作物被害割合=被害五割以上の面積を総作付け面積に比較した割合
注2 一町=〇・九九二ヘクタール、一反=〇・一町

  (二)八月~九月の水害(第二次・第三次水害)
 第二次・第三次の水害は、ほぼ同時期に起きており、被害がどちらによるものか分離できないので、これを合わせて記述することにする。
 八月二十八日ごろ、南鳥島付近に台風が発生。西北西にゆっくり進行していたが、二十九日に北西に向きを変えた。そして三十、三十一日と勢力を強めながら関東南岸に接近し、一日夜半には房総半島先端に接触した。その後、速度を速め北北西に進み、午前一時三浦半島に上陸。埼玉・群馬を通り新潟に抜け、更に奥羽地方を縦断し、オホーツク海に出た。
八月~九月の水害(第二次・第三次水害)による被害状況
町村名旧守谷町高野村大野村大井沢村
家屋被害全潰



床上
一四
二九
床下

水稲への被害面積
七〇町八反三三町四反四一町
金額
二四、六四〇円三、九二六円二四、六四〇円
陸稲への被害面積
四三町四反三八町二〇町
金額
五、九四〇円六、三三〇円八、七五〇円
注 大井沢村の水稲及び陸稲の被害金額が、被害面積で上回る高野村よりも多額であるのは、収穫皆無面積がそれぞれ高野村一四・二町、〇に対し、大井沢村三六町、一五町と大きく上回ったためである。
(『昭和十三年の茨城県水害誌』から)

 
昭和十六年(一九四一)
 昭和十六年(一九四一)七月には二度の水害が起きている。十二日前後の梅雨前線活動による豪雨の第一次出水と、二十二日、本県を通過した台風による第二次出水である。県内各地で相当の被害が出ており、高野在住の岩田喜美雄氏が川端地区で屋根までの浸水が起きたことを記憶していたが、守谷町に関する詳しい記録は見いだせなかった。
 
昭和二十二年~二十七年(一九四七~一九五二)
 昭和二十二年(一九四七)九月十五日カスリン台風、二十三年(一九四八)九月十六日アイオン台風、二十四年(一九四九)九月一日キティー台風、二十五年(一九五〇)八月二日熱帯低気圧、二十七年(一九五二)六月二十三、二十四両日のダイナ台風と、昭和二十年代は毎年のように大型台風に襲われていた。守谷町でも相当の被害を受けていると思われるのだが、本町の被害状況を記した記録類はついに入手できなかった。
 
昭和三十三年(一九五八)
 この年は九月十八日の二十一号台風、九月二十六日の二十二号台風(狩野川台風)とそれに続く悪天候により、洪水被害を受けた。二十二号台風は、二十六日二十一時、伊豆半島南端をかすめて江の島に上陸、その後東京、下館を通り三陸沖に去った。この時、溢流堤完成後最初の溢流が起こり、素住台地区(現北公団内)、大原地区などの台地でも冠水の被害があった。
 
昭和三十四年(一九五九)
 台風七号が去った八月十四日一時ごろ、増水を続けていた利根川は、ついに溢流堤を超えて遊水地内に流入。午後三時半ごろ、全長二八〇メートルにおよぶ溢流堤のうち二二三メートルにわたって決壊した。このため、西大木地区の住民は全員が避難、農作物も全滅した。また、高野川端地区の九戸がいずれも床上浸水となったほか、大柏下から高野下に築堤された囲繞堤も決壊した。被害状況は別表のとおりである。
 洪水の後には必ずといってよいほど悪性の伝染病が発生するものである。そこで町では救護班を編成し、飲料水の運搬や傷病人の治療にあたるほか、水海道保健所の協力で家屋内外の消毒や井戸さらいを行い、伝染病の未然防止に励んだ。避難時や救助作業などで大勢の負傷者を出しはしたが、いずれも軽傷で死者が出なかったことは不幸中の幸いであった。
 
            被害状況
①住家(非住家)の被害
全潰一戸
半潰四戸
流失一戸
床上浸水五六世帯
床下浸水四世帯
浸水五九戸

②耕地の被害
田畑の別
被害面積(冠水)九八〇反一、二五〇反

③土木関係の被害
種別主なる被害カ所
道路西大木、滝下地内の主要農道七、〇〇〇メートル冠水
高野、大野地先で七カ所(四〇メートル)破損
水路高野地先の水路七〇〇メートル埋没
堤防溢流堤二二三メートル決壊、囲繞堤一一〇メートル決壊

 
昭和四十年(一九六五)
 昭和四十年(一九六五)五月二十七日に本県を襲った台風六号の余波による大雨で、町内水田の低地帯が冠水した。冠水面積は五〇町歩で、特に被害が大きかったのは高野の羽中、五反田地区、大木の高崎下であった。これらの地区では冠水期開が長かったため苗代の苗が全滅し、また、田植え直後の苗も枯死するなどの被害を受けた。
 
昭和五十六年(一九八一)
  (一)八月二十三日の水害
 台風十号が八月二十三日四時すぎに千葉県館山市付近に上陸、その後、茨城県内を北上し、福島県から仙台付近を通って東北地方を縦断した。県内は台風の目に入ったため、直撃を受けた割には、降雨量は少なかった。その反面、利根川上流域では大雨となり、利根川を増水させた。その増水した水が小貝川に逆流し、二十四日午後二時十二分ごろ、藤代町高須の高須橋上流約二〇〇メートルの左岸堤防が決壊、竜ヶ崎市などが洪水となった。
 幸い、人家被害はなかったものの、西大木地区で田や畑が冠水した。
冠水状況
冠水面積九〇ヘクタール
五〇ヘクタール

  (二)十月二十三日の水害
 台風二十四号は、十月二十三日二時ごろ、銚子の南東海上を北東に進み、十二時には根室の東南東海上に去った。県内では二十二日朝から二十三日未明まで雨となった。総降水量は県内全域で一〇〇ミリメートルを越え、県北においては二〇〇ミリメートル以上の雨が降った。このため、県内各地で浸水、崖崩れの被害が出た。
 町内の被害は、床上浸水が一軒、床下浸水七軒のほか、畑四ヘクタールが冠水した。
 
昭和五十七年(一九八二)
  (一)八月二日の水害
 七月二十一日、ウエック島の南で発生した台風十号は、複雑な動きをしながら北上し、八月二日〇時ごろ、愛知県渥美半島に上陸した。その後、本州中部を縦断して日本海に抜けた。関東地方の降雨は八月一日から二日に集中し、鬼怒川山岳部の川俣で一日の日雨量三三四ミリメートルを記録した。
 溢流堤が溢水し、西大木及び川端地区が被害を受けた。
町内の被害
家屋被害床下浸水十二戸
耕地被害(冠水面積)一五〇ヘクタール
一一八・七ヘクタール

  (二)九月十三日の水害
 台風第十八号は、九月十二日午後六時には静岡県御前崎付近に上陸し、東海、関東、東北、北海道地方を縦断するコースをとり、二十七都道府県に被害が及んだ。また、日本の南岸に停滞していた秋雨前線が、台風の接近に伴って活発化し、東海、関東にかけての太平洋岸では、十二日午後から風雨が強まり、夜半に最盛期を示した。
 西大木、川端地区でまたも床上・床下浸水などの被害が出た。
被害状況
家屋床上二八戸
床下二三戸
耕地(冠水面積)二一〇ヘクタール
一一八・七ヘクタール