守谷中央図書館/わたしたちの守谷市

『守谷わがふるさと』

守谷の歩み

交通

利根運河の開運
 江戸時代、利根川水系の整備によって東関東の水運は急速に発展したが、利根川から船で東京に行くには、利根川と江戸川の分岐点である千葉県関宿町まで遡(そ)行しなければならず、時間と労力の大きな負担となっていた。しかし、それも明治二十三年(一八九〇)二月ニ十五日、江戸川左岸の新川村西深井(現流山市)と利根川右岸の田中村船戸(現柏市)を結ぶ利根運河が開通されてからは解消されたので、千葉、茨城両県の水運は飛躍的に発展した。
 ちなみに、工事責任者は内務省土木局御雇技師のオランダ人ムルデル、監督者は工学士の近藤仙太郎、総工費五十七万円余、作業延人員は約二百ニ十二万人余が投入された。また工事を行った利根運河株式会社は、元茨城県令人見寧氏、高井村の広瀬誠一郎氏、土浦町の色川誠一氏の奔走により設立されたもので、創立時の株主のうちには、斎藤斐氏、椎名半氏ら本町在住者も名を連ねている。
①完成した利根運河水堰(せき)▶大正4年ごろ(北野道彦著『利根運河』から)

①完成した利根運河水堰(せき)▶大正4年ごろ(北野道彦著『利根運河』から)

②利根運河の開削工事▶明治21年ごろ(北野道彦著『利根運河』から)

②利根運河の開削工事▶明治21年ごろ(北野道彦著『利根運河』から)

③工事責任者のムルデル(北野道彦著『利根運河』から)

③工事責任者のムルデル(北野道彦著『利根運河』から)

④利根運河を行く通運丸(つううんまる)▶大正4年ごろ(北野道彦著『利根運河』から)

④利根運河を行く通運丸(つううんまる)▶大正4年ごろ(北野道彦著『利根運河』から)


 
 
川蒸気船「通運丸」の就航
 
 内国通運株式会社(現日通)は、明治三十二年(一八九九)、自社で運行する通運丸の航路を、従前の江戸川流域一帯から鬼怒川流域の水海道町まで延長させた。こうして、野木崎、大木両河岸にも通運丸が一日二回寄港することとなり、河岸は大いに賑わった。
 しかし、やがて輸送の主役を鉄道に奪われた上、鬼怒川の川床が上がって航行に支障をきたすようになったため、大正の中期(八年ごろ)その姿を消してしまった。
 
通運丸の航行時間
 (1)水海道→東京
  正午発  十九時着
   1)水海道河岸汽船寄航場→2)野木崎河岸→3)東京両国橋
 (2)東京→水海道
  十八時発  翌朝七時着
   東京両国橋→野木崎河岸→水海道河岸汽船寄航場
     ※上りと下りで六時間の差が生じるのは、下りの場合、江戸川、利根川、鬼怒川のいずれも流れに逆行して航行するためである。
      1)当時は蒸気宿と呼ばれており水海道市元町にあった。
      2)守谷町大字野木崎の下川岸地区
      3)日本橋区米沢町、現中央区日本橋二丁目
①取手の鉄橋と通運丸▶年不詳

①取手の鉄橋と通運丸▶年不詳

②大木寄航場(『利根川汽船航路案内』から)

②大木寄航場(『利根川汽船航路案内』から)

③野木崎寄航場(『利根川汽船航路案内』から)

③野木崎寄航場(『利根川汽船航路案内』から)


 
 
高瀬船
 高瀬船は、帆を張り風力によって航行する、河川専用に建造された和船である。森鴎外の小説「高瀬舟」には「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である」とあるが、固有の名称ではなく、様々な型や大きさの「高瀬船」が全国にあった。
 利根川の高瀬船は、京都のような小舟ではなく、米五、六百俵を積む大型のものが多かったという(赤松宗旦『利根川図誌』)。そして、この近辺では高瀬船を、大きさにより次の三種類に区分していた。
 高瀬船……千石船とも呼ばれた。米五、六百俵(五百俵の重さ=約三十トン)を積む大型のもの。
 舫長(ぼうちょう)………百俵積み以下の小型のもの。
 べ力………船首を切ってある、つまり箱型の小さな船で、鬼怒川あたりで多く造られた。鬼怒川は川底が浅いので、ごく軽く造られている。高瀬船が浅瀬で航行できなくなると、べ力に荷を積み替え進行した。いわば高瀬船の艀(はしけ)ともいうべきもの。
                       (『取手市史 民俗編』)
 また高瀬船は、風がない時には通運丸やポンポン蒸気船(通称、実際には焼玉エンジンを搭載した貨物運搬船)に曳航(えいこう)してもらっていた。
 
〈証言〉中妻・椎名半之助氏
「肥料にする魚の煮汁(にしる)を積んでたんで、『煮汁船(にしるぶね)』って呼んでた船もあったんですよ。春の日なんかにね、堤防の向こうを大きな帆を張った船が行ったり来たりするところは、まるで童話かなんかの挿絵みたいでね。実に良い景色だった」
  ※煮汁船は煮汁が積めるよう、船内に桝のような仕切りを設けたもので、外形は高瀬船と同じ。
①利根川の高瀬船▶昭和4年(毎日新聞社提供)

①利根川の高瀬船▶昭和4年(毎日新聞社提供)

②取手市小堀地区集会所にある高瀬船の復元模型

②取手市小堀地区集会所にある高瀬船の復元模型

③取手の鉄橋と高瀬船▶年不詳

③取手の鉄橋と高瀬船▶年不詳

④ベカ▶昭和7年

④ベカ▶昭和7年


 
 
①板戸井の渡し船▶右・昭和24年7月、左・昭和初期_1①板戸井の渡し船▶右・昭和24年7月、左・昭和初期_2

①板戸井の渡し船▶右・昭和24年7月、左・昭和初期

昭和三十一年(一九五六)に滝下橋が架けられるまで、東・西板戸井間の往来は、専ら渡し船に頼っていた。渡し船の船頭を「越し番」といい、村の者が当番でこれに当たっていたが、時には専業の船頭がいたこともあった。その専業の船頭の報酬は全村各戸から供出した(これを穀集めといった)米、または麦で賄われていた。村民以外からは一定の渡船料を取っていたが、子供からは料金を取らなかったこともあったようである。大井沢村には、このほかに大木と大山新田の二地区に渡船場があった。
②利根川の川舟▶戦前(毎日新聞社提供)

②利根川の川舟▶戦前(毎日新聞社提供)

②③利根川の渡船場
大野村には我慢、下川岸、大柏下の三カ所に渡船場があり、いずれも村営であった。船は村費で購入し、入札によって渡船場守(船頭=実際の営業を請け負う)を決めていた。高野村にも明治六年(一八七三)に渡船場が一カ所設置されたが、昭和十年(一九三五)か十三年(一九三八)の大洪水の後閉鎖されてしまった。

③野木崎下川岸の渡船料金表▶昭和5年

昭和五年大野村野木下川岸渡船賃銭定額
種別賃銭定額
一、大人八銭
一、小人三銭
一、人力車一輛(挽子共)十五銭
一、小形車一輛四銭
一、畜類(犬猿類)三銭
一、荷積車一輛十銭
一、自転車一輛四銭
一、荷馬車一輛(馬子共)三十三銭
一、天秤担荷四銭
一、一人乗駕一台十銭
一、荷物一駄十銭
一、自動車一輛一円
但水量標ニヨリ水位七尺以上五割増ノコト
仝     十二尺以上渡船止
危険ナリト認ムルトキハ此ノ限リニアラズ
平水位ニ於テモ強風雨雪ノ場合ハ総五割増
午後十時ヨリ翌午前四時迄ノ時間ハ総テ五割増

 
 
①滝下橋架橋工事のためのボーリング調査▶昭和30年ごろ

①滝下橋架橋工事のためのボーリング調査▶昭和30年ごろ

①―④滝下橋
昭和五、六年(一九三〇、三一)のころ、大井沢村大木の須賀勘兵衛氏が、鬼怒川に橋を架けようと各方面に運動を試みたが、結局実現にいたらなかった。しかし、戦後大井沢村村会議員川上丹治氏が再び架橋問題を提案し、ついに昭和三十一年(一九五六)一月二十七日、橋は竣工した。加橋工事費は八千四百七十万円だった。
②工事中の滝下橋▶昭和30年ごろ

②工事中の滝下橋▶昭和30年ごろ

③滝下橋の開通式▶昭和31年1月

③滝下橋の開通式▶昭和31年1月

④竣工記念写真

④竣工記念写真

⑤常総橋▶昭和30年代

⑤常総橋▶昭和30年代

⑤⑥常総橋
守谷町赤法花と伊奈町青木の間を貫流する小貝川は、かつて下総国(しもうさのくに)と常陸国(ひたちのくに)との境界だった。そのため昔から守谷町の住人は、小貝川対岸の住人を「ひたちんて」と呼んでいた。「ひたちんて」とは常陸の人という意味である。明治十七年(一八八四)、現在の牛久・守谷線(旧称笠間街道)が改修されて架橋したとき、その名を常総橋と名づけたのもそれに由来する。しかし、土地の人は、あえて「青木の橋」と呼び慣わしている。
⑥架け替えられた常総橋▶昭和30年代

⑥架け替えられた常総橋▶昭和30年代