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石下町史

第五編 史料 石下町の地誌

「(表紙)新石下村沿革誌
                      石下町役場 」
 
下総国豊田郡新石下村
 
   沿革 [月日ヲ記セサルハ皆詳ナラサルナリ]
名称 
古ヘ単ニ石毛ト称ス慶長六年辛丑以降漸ク開墾ノ功成リ新タニ田土ヲ増シ石毛新田ト称セリ寛永七年庚午八月ノ検地ニ及ヒテ新石毛ノ称始メテ立ツ後毛ヲ下ト誤記スル者多ク明治維新ニ及ヒテ全ク今ノ名称トナレリ
所属 
古ヘ岡田郡ナリ延喜四年甲子ヨリ豊田郡ニ属セリ天正六年戊寅以来常陸国真壁郡下妻ノ主多賀谷氏ノ領地タルヲ以テ慶長六年四月以後下妻領ト称シ石毛郷ニ属セリ慶長ノ開墾以来分レテ一村ノ形勢ヲナシ慶長十四年以後代官庁ヲ本村ニ置クコト二十余年間宝永四年丁亥徳川ノ臣四家ノ菜地トナリ東、西、中、横堤ノ四組ニ分レ享保四年己亥中組ヲ割テ小組ヲ立ツ文政十年丁亥関東取締二十七ケ村組合ニ編入シ本村其拇村タリ明治元年戊辰八月五組ヲ廃シ一トナス取締組合猶旧ニ依ル明治五年壬申印旛県第四大区五小区ニ編入同六年癸酉六月千葉県トナリ七年甲戌七月大区取締所ヲ本村字陣屋敷ニ置ク同年十月同県第十六大区四小区ニ編入同八年乙亥二月大区事務扱所ヲ本郡本石下村ヨリ本村字陣屋敷ニ移ス同年四月茨城県トナリ大小区猶旧ニ依リ大区取締所ヲ警察出張所ト改称ス同年十二月同県第七大区十小区ニ編入シ警察及ヒ大区扱所ヲ廃ス同十二年己卯二月郡区編制ニ当リ結城岡田豊田郡役所ノ所轄ニ属シ戸長役場ヲ本村(位置屢々移ル)ニ置ク
分合 
古ヘ石毛郷ノ南部ナリ慶長ノ開墾以来北部ト分離シ別ニ一村ヲ立ツ明治二年己巳妙見沼新田ノ半ヲ併セテ現今ノ形勢ヲナセリ
管轄 
前九年ノ役天喜二年甲午六月平政基(赤須四郎)戦功アリ凱旋後賞スルニ石毛ノ地ヲ以テス政基豊田ニ拠リ(今ノ豊田郡本豊田村)世襲シテ豊田氏ト号ス文治二年丙午源頼朝総追捕使タルニ及ヒテ鎌倉ノ直轄トナリ畠山六郎等之ヲ管ス其後事蹟詳ナラズ足利氏ノ末関東大乱ノ時豊田氏本郡ヲ有ス治親ニ及ヒテ天文年間其弟政重ヲ石毛ニ封ス天正三年乙亥九月政重卒シ子正家幼ナリ時ニ年七歳同六年戊寅五月治親其臣飯見大膳ノ弑ス所トナリ下妻ノ主多賀谷政経此ニ機ニ投シ豊田ヲ陥レ石毛ヲ降シ豊田氏二十二主終始殆ト五百年ニシテ其土尽ク多賀谷氏ニ併セラル関ヶ原ノ役政経石田三成ニ通シ慶長六年辛丑二月徳川家康ノ放ツ所トナリ天正以来二十三年ニシテ徳川氏ノ有トナル爾来慶応三年丁卯ニ至ルマテ二百六十七年間其諸臣ノ菜地或直轄トナリ屢々更替ス慶長六年ヨリ同十一年丙午ニ至ル七年間徳川氏ノ直轄ナリ同十二年丁未以後二年間永井信濃守ノ封土トナリ同十四年己酉ヨリ寛永十二年乙亥ニ至ル二十七年間直轄トナリ寛永十三年丙子ヨリ寛文二年壬寅ニ至ル二十六年間土井利勝(大炊頭)其子利隆(遠江守)ノ封土トナリ継テ天和元年辛酉ニ至ル二十年間利隆ノ弟(能登守)ノ封土トナリ同二年壬戌以後二年間直轄トナリ貞享元年甲子ヨリ元禄十年丁丑ニ至ル十四年間太田摂津守ノ封土トナリ同十一年戊寅ヨリ宝永二年乙酉ニ至ル八年間又直轄トナリ同三年丙戌越知下総守ノ封土トナリ同四年丁亥麾下ノ士窪田、井関、岡田、小倉、四家ノ封土トナリ享保四年己亥岡田氏二家ニ分レ全村五家ノ菜地トナリ宝永四年ヨリ慶応三年丁卯ニ至ルマテ一百六十一年ニシテ全ク朝廷ニ復ス明治元年戊辰八月以後粥川池田二氏相継テ之ヲ管シ同二年己巳二月若森県ニ属シ四年辛未十一月印旛県トナリ同六年癸酉六月千葉県トナリ同八年乙亥四月以降茨城県所轄ナリ
 
   位置疆域
位置 
豊田郡ノ中央
東 
同郡豊田村及ヒ本豊田村ノ耕地
西 
絹川ヲ隔テヽ岡田郡向石下篠山蔵持ノ三村ニ対ス
南 
豊田郡三坂、大房、東野原、山口、収納谷、福二、曲田、六村ノ宅地或ハ耕地
北 
同郡本石下村ノ宅地及ヒ耕地
 
   幅員
東西 
二十六町四十七間
南北 
三十町十六間
周囲 
四里十五町九間
面積
 
   地味
色 
黯褐色
質 
東南部ハ粘力強キ真土西北部ハ細砂ヲ混スル土
適種 
五穀蔬菜桑茶綿絮ニ適ス
 
   地勢
山脈 

水脈 
絹川豊田岡田二郡ヲ分界シ本村ノ西ヲ南流シ舟楫ノ便アリ八間堀北ヨリ来リ東部ノ耕地ヲ貫流シ南同郡曲田村ニ入ル是絹川以東ニ於ケル本郡排洩ノ正脈ナリ
   江連養水北ヨリ来リ耕宅地間ヲ貫キ南下シ大房村ニ入ル支流ハ本石下村ノ界ヨリ東ニ分派シ本村及ヒ下流数村ニ灌漑ス
東部 
田圃ニシテ地勢西ヨリ漸ク東ニ低シ
西部 
宅地及ヒ樹林多ク耕地少シ絹川ニ沿ヒ地勢稍高シ
南部 
平坦ニシテ田圃
北部 
西北隅宅地連続シ余ハ平坦ニシテ田圃
全地形勢 
西北ヨリ東南ニ延ヒ北漸ク縮シ南甚タ張リ大房東野原ノ二村ヲ銜ム西部絹川ノ沿岸地勢稍高ク宅地相連リ陸羽支道南北ニ貫通シテ水陸ノ便アリ東漸ク低ク圃トナリ田トナル南端ハ福二村ニ連リ本郡東界ノ小貝川ニ接近ス概スルニ田ハ低下ニシテ旱ニ損ナク潦ニ害アリ圃ハ砂地多ク旱ニ害アリ秋季時アリテ暴風ノ患アリ
 
   道路
     陸羽支道
等級 
県道三等 下総国南相馬郡ニ於テ陸前浜街道ヨリ分岐シ下野国塩谷郡喜連川ニ至リ陸羽街道ニ合ス
長 
村内延長十一町八間一尺 南方豊田郡大房村字上宿ヨリ本村字芝原ニ入リ字寺浦、高柳、傍鷹、西河原ヲ経テ北方同郡本石下村字下宿ニ入ル
幅 
四間
並木 

形状 
平坦ニシテ概ネ直線宅地間ニ一橋アリ妙見寺橋ト云フ
雑項 

 
     ○蚕養川西畔北道
等級 
里道一等 本村ニ於テ陸羽支道ヨリ分レ豊田郡本豊田村ヨリ蚕養川ニ沿ヒ北方数村ヲ貫通ス
長 
延長十九町四十二間 本村字寺浦ニ於テ陸羽支道ヨリ分レ字横堤、八反田、毛曾ヲ経テ本豊田村字松並ニ入ル
幅 
二間
並木 

形状 
平坦ニシテ東向一直線中ニ二本木橋、八反田橋、五間橋アリ
雑項 
本路ハ本村ヨリ東シテ本豊田村ニ至リ矩折北向シテ蚕養川西畔ニ沿ヒ豊田、館方ヲ経鯨村ニ至リ分レテ東西両路トナリ東路ハ大園木村ニ至リ蚕養川ヲ踰へ常陸国筑波郡吉沼村ニ達ス西路ハ西北ニ向ヒ豊田郡ヲ横絶シ同郡新宗道村ニ至リ陸羽支道ニ合ス総テ平坦ナリ
 
     ○絹、蚕養二川間中道
等級 
里道一等 本村ニ於テ陸羽支道ヨリ分レ南方両川間中部ノ村落ヲ貫通ス
長 
延長四町六間 本村字芝原ヨリ起リ豊田郡大房村字石塔ニ入ル
幅 
一間半
並木 

形状 
平坦ニシテ小シク迂曲シ東南ニ向フ
雑項 
本路ハ本村ニ起リ豊田郡東野原、山口、収納谷、三坂新田、沖新田ノ数村即両川間中位ノ村落ヲ貫穿ス収納谷村ノ南ニ於テ蚕養川西畔南道ヲ分ツ
 
     蚕養川西畔南道
等級 
里道一等 豊田郡収納谷村ノ南ニ於テ絹、蚕養両川間ノ中道ヨリ分レ本村ノ南部ニ入リ蚕養川ニ沿ヒ南方数村ヲ貫通ス
長 
延長十三町八間半 収納谷村ノ南字古間木田ヨリ起リ本村字二十反ニ入リ字六軒ニ至リ曲田村字沖田茅場集荷ト界シ福二村字集荷ニ入ル
幅 
一間半
並木 

形状 
平坦ニシテ曲折村内ニ三貫橋福田橋アリ
雑項 
本路ハ両川間ノ中道ヨリ分レ東向シテ曲田村ヲ衝キ矩折シテ蚕養川ニ沿ヒ南向一直線福二村以南堤防ニ接スル村落ヲ貫通ス本路ノ基礎部字古間木田ヨリ本村字二十反ノ界ニ至ルマテ三町十五間半ノ間ハ数村ノ混合耕地ニシテ字ノ如キモ各村称呼ヲ異ニス若シ之ヲ記スル愈々密ナレハ愈々読者ノ眩惑ヲ来ス故ニ姑ク之ヲ本村ニ合算ス読者之ヲ諒セヨ
 
   河渠
     絹川
発源 
栃木県塩谷郡ニ詳ナル可シ
流状 
北方本郡本石下村字川端ヨリ本村字西河原ニ続キ字側鷹大正内ヲ経南方本郡三坂村字三夜ニ連ル
所属ノ長 
十七町三十六間
広 
平均百六十五間
深 
最深キ所六尺ニ過キス
水質 
清冽
灌漑 
河底低クシテ利用スルコト能ハス
運輸 
平時砂洲浅瀬多ク舟底膠シテ進行ニ苦ムモノ数処アリ
物産 
ヤマベ、鮏、鱒、
雑項 
本村ノ中央ヨリ岡田郡篠山村ニ達スル渡津アリ
 
     八間堀
発源 
豊田郡肘谷加養新堀ノ三村ニ詳ナル可シ
流状 
北方本郡本石下村字見取ヨリ本村字上ノ割ニ来リ字浄土割十三人割ヲ経本村ノ東ノ界限リ本村ニ入リ字妙見ヲ環リ字毛曾ノ西界ヲ限リ南方曲田村字高田ニ入ル
所属ノ長 
二十九町九間三尺
広 
六間乃至八間
深 
盈ルトキ六尺ヲ過キ涸ルヽトキ一尺許
水質 
淤濁
灌漑 
余水ヲ排除スルモノニシテ灌漑ニ利用セズ
運輸 
利用ス可カラス
物産 

雑項 

 
     江連養水
発源 
下野国芳賀郡上江連村ヨリ起ル故ニ此名アリ
流状 
北方本石下村字愛宕ヨリ本村字北浦ニ入リ其界ニ於テ分レテ両派トナリ甲ハ東南ニ下リ字二本木ヲ経テ本郡収納谷村ニ通ス乙ハ南下シテ字大正内ヨリ大房村字用水附ニ去ル
所属ノ長 
甲二十町二十六間乙十四町三十間三尺
広 
甲乙共ニ三間乃至四間
深 
一定セズ
水質 
淤濁
灌漑 
甲ハ本村及ヒ南方六村ニ乙ハ本郡三坂村以南ニ利用ス
運輸 
利用ス可カラズ
物産 

雑項 
絹川ノ水ヲ上江連ニ分チ之ヲ東南ニ導キ常陸国真壁郡下妻ノ西ニ至リ砂沼ニ瀦シ更ニ導テ豊田郡ニ入リ十八村養水ヲ東ニ分チ余水南下シテ同郡本宗道村ニ至リ十二村養水ヲ分チ余水南下シ本村ノ北界ニ来リ分レテ二派トナリ一ハ東南ニ下リ収納谷村ノ東部ヲ貫キ余水千代田悪水トナル一ハ猶南流シ三坂村以南ニ利用シ余水同郡小山戸村ニ至リ絹川ニ落ツ源委延長十里十町
 
     七蔵堀
発源 
本村東部水田ノ中央ヨリ起ル排泄路ナリ
流状 
本村字上ノ割ニ起リ一直線ニ南下シ字浄土割東谷原駒放レ八反田堰場悪水附ヲ過キ福二村字向田ニ入リ八間堀ニ落ツ
所属ノ長 
二十六町三十八間
広 
二間乃至三間
深 
一定セズ
水質 
淤濁
灌漑 
本村北部ニ於テハ余水ノ排除ヲ主トシ南部ハ之ニ反シ堰シテ利用ス
運輸 
利用スヘカラズ
物産 

雑項 
下流他村ニ入ルモ僅ニ三町余ニシテ八間堀ニ落ツ故ニ南北其主用相反スルモ利害他村ニ関係セス
 
   河渠
     七個村悪水
発源 
本郡豊田村及ヒ本石下村ニ詳ナル可シ
流状 
北方本豊田村字見井向ヨリ本村字毛曾ニ来リ本豊田村ヲ界シ南方同郡曲田村字三角内前ニ入ル
所属ノ長 
四町五十一間
広 
三間
深 
一定セズ
水質 
透明ナラズ
灌漑 
利川ス可カラス
運輸 
同上
物産 

雑項 

 
   渡津 新船渡
所在 
字大正内
広 
二百二十間
深 
平均四尺
舟梁 
舟三艘ヲ使用ス
雑項 
本村ヨリ西方岡田郡篠山村ニ通ス
 
   漁場
所在 
絹川ノ中
主産 
鮏、鱒、
季節 
鱒ハ三月ヨリ五月ニ至リ鮏ハ九月ヨリ十一月ニ至ル
漁額 
一歳間鱒七十尾鮏百三十尾此売価凡金一百円
用具 
網長百尺幅五尺其一辺ニ錘アリ他ノ一辺ニ浮子アリ
船数 
四艘
漁夫 
八人
雑項 
鮏鱒ヲ漁スルヤ河流ニ遡リ来ルヲ待チテ捕獲スルナリ其来ルヤ昼間少ク夜間多シ之ヲ捕獲スルヤ漁夫二人伍ヲナシ一舟ヲ其来路ニ留メ背鰭ノ波紋閃々トシテ直線進行スルヲ候ヒ衣帯ヲ緩フシ以テ待ツ其来ルヤ波紋ニ因テ其所在ヲ認メ急ニ舟ヲ其上流ニ回転シ二人踝体網ノ両端ヲ固持シ俄然水ニ投シ左右ニ別レ下流ニ回リテ其両端ヲ合セ魚ノ走路ヲ絶チ之ヲ捕獲ス其活撥ナルコト実ニ一時ノ観ナリ是昼間ノ漁ナリ夜間ハ三舟六人一伍トナリ燈火ヲ其傍ニ置キ以テ波紋ヲ候フ
 
   方言
     天時
アシタ明日 アス同上 アサッテアス去リテノコトニテ明後日ナリ ヤナアサッテ明々後日 オトヽヘ一昨日 ユウベ昨夜 アサッパラ払暁 コヌカ雨粉糠雨ニテ細雨ヲ云 ヂャバラ雲「ソルラス」ノコト即雲片ヨリ成ル最高ノ雲 ヨコッピ横日ニテ夕陽ヲ云 モヤ
 
     地理
サク圃ノウネ ヤツ両阜間ニ介マリタル細長ノ低地 ホック陸田ヲ掘リテ水田トナシタルモノヲ云 ノラ田圃ノ総称 ホッツケ低田ヲ高クスル為其中ノ土ヲ取リタル穴ヲ云 田ジマ地盤高ク養水ニ不利ナル田ヲ低クシ其土ヲ集メ圃トナスモノ ダイ高塏ノ地 フンギリ道蹈切道ニテ道ナキ所ヲ妄ニ通行シテ自然ニナリタルモノ アク水田ノ余水ノ排除スル溝 アサッパ浅泒ニテ河ノ浅キ所
 
     家屋
クネ竹籬ノ類 セッチン雪隠ニテ廁ヲ云 カウカ同上 エンガワ板椽 ギョウヤ行屋ニテ念仏講中ノ会所
 
     人倫
オトッツァン オッカサン オッチャン叔父伯父 オンツァン同上 セナァ トウライ継妻 イレシ継夫
 
     人品
ダンナ家ノ主人ノ尊称 オトメ赤子男女ヲ論セズ アカンボ同上 ボウヤ饂飩ヲノベル職人 ノロマ遅鈍ナル人 ヤシンボ賤坊ニテ貧食ノ人 キンパチ剛愎ノ義女ニ用ユ キカンボ同上
 
     身体
マナク眼ヲ云マナコノ誤  ビッコ跛行ヨリ来ルヤ整当対ナラサルモノヲ云フ ケツ穴ヨリ来ルカ臀ヲ云フ モヽネ腿根ナリ大腿骨ノ上部 ベロ ハナメド鼻孔ナリ総テ孔ヲメドト云フ針メドノ類 ツキヤク月役ナリ月経ヲ云 ノチザン後産ナリ胞衣ヲ云 ドンノクボ後頭関節 ゲンコツ堅ク握リタル拳 チンボ乳房 オチンコ小児の陰茎 フクラッパキ 二ノウデ上臂骨ノ部分 コビン顳顬骨の部分 ションベン小便ノ誤 シーコ小児の尿 テンボ手ノナキ人 ホダレ耳朶 ウンコ キタキ唾液 カマチ
 
     物品
ヘッツイ クド火所ナリ同上 オハチ飯櫃 シヤクシ飯ヲ盛ル器又鋤ヲ云 スルス摺臼ノ略語礭ヲ云 フルチボウ連枷 ダラヲケ糞担桶 トウガイ燈火ヲ点スル土器 ショウギ竹ニ平扁ニ編ミ飯櫃ノ蓋ニ用ル器 スイノ形篩ノ如ク直径八寸許ニシテ其底ハ竹片ヲ編ミ味噌汁ヲ轆過スルニ用ユ シャモジ飯ヲ盛ル器形科斗ノ如シ オカワ大小便ヲ受ケル器病人ニ用ユ オマル同上 シビン陶製ノ尿器 ゼネ 井ドコガ井戸ニ伏セコム無底ノ桶 メカイ アゲサテ
 
     衣服
ヒコオビ細帯 ツヽポ筒袖 ヌイト縫糸 マイト絹ノ縫糸 下ノオビ特鼻 ヒボ バェー/\小児ノ語衣服 ユモヂ特鼻
 
     飲食
コワメシ赤飯 ヒキワリ麦ヲ石臼ニテ挽割タルモノ キナコ大豆ノ粉 オツケ味噌汁 シタヂ醬油汁 アンモ小児ノ語餻ヲ云 カイ粥ノ誤リ オマンマ チウハン又コチウハントモ云フ昼餐晩餐ノ間ノ食 オヒル昼餐
 
     動物
マイボコ蝸牛 ヒヨッコ コロ犬児 麦ツキ虫叩頭虫 アブラ虫呀虫 アイ鮎ノ誤 ドンバムシ水蟇 ドンバ蜻蜒 サカナ チッチ同上小児ノ語
 
     植物
タウナス南瓜 トウギミ玉蜀黍 モンモ総テ植物ノ実ヲ云 アイ不熟ノ穀実秕ヲ云 ボッタラ穀実ノ遺リタル穂ナリ クタヾ同上 ハッパ ネッコ クソッカワ表皮
 
     人事
ブチカル坐スルヲ云 ツコテル落ルヲ云 ウッチャル棄ルヲ云 コス漕ノ誤リ舟ヲコス ムル漏ノ誤水ガムル ノッケル載セル エシャル其席ヲ去ルヲ云 ダク抱クノ略語 デイネンボ小児ノ遊戯手拭ニテ一児目ヲ掩ヒ他ノ衆児ヲ逐フ アシケン/\偏脚ニテ立チ躍リテ進行スルヲ云 ツックルカヘス衝倒ス ツッパル支ヘル ソックリカヘル身ヲ反ラセル ヒッカケル物ヲ他物ニ懸ルヲ云 ヒッパル引クヲ云 モチャゲル下ヨリ挙ルヲ云 イチケル載セル トッパトシ不意ノ過 ヨナベ夜業 一チャウギリ タヘヤ忌日一日前 チャブス
 
     雑語
アラッポイ暴動ノカタチ オッカナイ物ニ怖レルヲ云 ベラボウ方外ト云意 チクヲヌク虚言ヲ吐ク テッポウ虚言 コヽントシ此処ノ誤小児ニ多シ ワレ下輩ノ人ヲ指ス マッサヲ真黄真青 ミンナ皆ノ誤 イカイ大ナルヲ云 タント多キヲ云 ビッシャラ平扁ナル形 ミトモナイ見ル人ナシト云語醜態ノ義 カラッポ空虚 一ッパイ多キヲ云 ツマラナイ ナンボ何程 カゲポチ陰影ヲ云影法師 ツコトス
 
   古跡
     代官庁
所在 
字陣屋敷ヨリ字横町ニ亘ル
現状 
方百十間許ニシテ地勢平坦総テ圃ナリ東北ノ二辺ハ道路ヲ遶ラシ西南ノ二辺ハ道路ニ平行シテ村民ノ宅地ヲ繞ラス古ヨリ此地ヲ陣屋敷ト通称セリ明治八九年ノ間ハ其東界ニ老松三四株列植シ其近傍ヲ松並ト称ス其他観ルヘキモノナシ
雑項 
慶長六年徳川氏常陸谷原開墾ノ令ヲ布キ伊奈忠次(備前守)ヲシテ之ヲ管セシム時ニ本村夙ニ其業ニ就ケリ同十四年ニ至リ伊奈半十郎之ニ代ル爾来寛永十二年ニ至ルマテ二十七年間地方政務ノ会スル所ナリ
 
   堤塘
     絹川堤
長 
延長四町四十六間 北方本村字西河原ヨリ起リ字側鷹ヲ経字大正内ノニ終ル
高 
三間
幅 
馬蹈四間敷八間
雑項
 
   気候
極寒 
華氏凡二十五度
極暑 
華氏凡九十五度
初霜 
十月十五日頃
終霜 
三月二十五日頃
初雪 
十二月十日頃
終雪 
二月廿八日頃
降雪 
凡七度
積雪 
凡五寸
風 
春最多方位春分前ハ西北春分後ハ東
夏最多方位南
秋最多方位寒露前ハ南寒露後ハ西
冬最多方位西或ハ西北
雨 
凡五十日
 
   風俗
衣服 
平常綿服ヲ用ユ其態雅ナラサレトモ質堅フシテ保存ニ堪フルモノヲ好ム男女トモ半纏ト称スル通常服ノ裾ナキモノヲ外套トス平居羽織ヲ著ルモノ稀ナリ婦人ハ手巾ヲ以テ頭ヲ纏フモノ多シ
飲食 
米大麦混ノ飯蔬菜ヲ常トシ肉食少ナリ調理ハ摂生ヲ後ニシ佳味ヲ主トス飲料ハ茶ノ外清酒濁酒半ス盛饌賀節ニハ主ニ饂飩ヲ造ル饂飩ノ膳ニハ必ス熬豆ヲ備フ倚ト云フヘシ
住居 
家屋多クハ茅屋ノ平家ナリ其一間ハ六尺二寸ニシテ今ヨリ凡三十年前ハ毎一間ニ柱アリテ柱間ハ半戸ト称スル下半一扉ヲ横ニシ上半ノ横扉ハ上ニ釦鈕アリテ内部ノ上ニ開然レトモ近来此製ヲ見ルナシ
器物 
農具ハ通常ノ鋤鍬鎌钁万能礭颺扇連枷ノ類ニシテ日用ノ器具モ異様ノモノアルヲ覚ヘス
式例 
一般太陰暦ヲ用ユ婚礼ノ席婦上ニ坐シ夫下ニ在リテ杯ヲ交ユ其夜徹暁酣飲スルヲ例トス子生レテ孫祝ヒト称シ七歳ノ十一月十五日ニ帯解ト称スル賀儀アリ上巳ニハ女子端午ニハ男児ノ無事ヲ祝ス葬祭ハ総テ僧侶ニ委ス葬ノ日ハ隣家一切ノ事務ヲ分担ス松竹ノ歳旦ニ於ケル熬豆ノ儺ニ於ル各村概同一様ナリ盆会ハ始ニ燈火ヲ寺院ニ迎ヒ終ニ之ヲ寺院ニ送リ燈火ヲ以テ霊魂ヲ送迎スルノ式トス歳末盆会ハ之ヲ二季ト称シ貸借ノ大段落トス
 
   風土病
病名 
瘧疾、痢疾、僂麻知斯、狐崇
季節 
瘧ト痢ハ春ヨリ秋ニ亘リ僂麻知斯ト狐崇ハ季節ニ拘ハラス
雑項 
土人多ク祈禱ヲ信シ祈禱者モ亦自カラ信シテ或ハ「メスメリズム」ヲ行ヒ神託ヲ聞ク故ニ何病ニ論ナク苟シクモ神経性ノモノ認テ狐崇トシ靡然風ヲナス是其多キ所以ナリ以テ土人ノ多種ノ神ヲ信シ方位ハ禍福ニ大関係アリト云狐狸ヲ怪物視スル等ヲ見ルニ足ル
 
   人物
姓名 
小口伝内
産地 
下総国結城郡結城々中
生卒 
出生年月詳ナラス寛永十五年五月十二日死
事蹟 
父ハ小口主計其先ハ紀伊国牟婁郡新宮小口村ノ人ナリ源頼朝ニ仕ヘ治承四年頼朝其子朝光ヲ結城ニ封スルヤ祖先其随フ爾来世々結城氏ニ仕フ天正年間父主計ト善カラス出テヽ石毛(今ノ岡田郡向石下村)ニ住ス慶長六年辛丑徳川氏常陸谷原開墾ノ令ヲ布ク伝内之ニ従事セント欲シ請求再三此年十一月廿五日始テ允可ヲ得周旋甚務メ大ニ其成績ヲ著ス同十三年戊申三月十五日是ヨリ先父老主君ニ越前ニ従ヒ慶長元年丙申帰農シテ本郡若村ニアリ伝内迎セテ之ヲ孝養ス伊奈備前守其功ヲ賞シ谷原ノ地一町ヲ賜フ寛永八年辛未九月十一日伊奈半十郎復其功ヲ嘉シ谷原地五段ヲ賜フ実ニ本村及ヒ近傍数村ノ率先ニシテ人民ノ方向此ニ頼リテ定マリ今ニ至ルマテ其賜ヲ受ク
 
姓名 
山口紋三郎
産地 
本村第三十一番地
生卒 
文久元年辛酉十一月出生現今生存
事蹟 
紋三郎ハ山口六郎兵衛ノ二男ナリ兄紋助嗣タリ明治十二年来父村事ニ与リ同村人小口卯一郎ノ逋券ニ公証ス卯一郎退テ券面ノ字形ヲ変シ之ヲ詐用ス此ニ於テ父寃柱ニ坐シ明治十六年五月本県下妻ノ檻ニ入ル卯一郎亡命其所在ヲ知ラス兄弟痛哭貧中資ヲ継キ東探西討他県ニ飄零シ資竭キテ帰ルコト三回家益々窮ス紋三郎復出ント欲ス母泣テ之ヲ止ム紋三郎奮テ曰ク旅資ヲ要セズ卯一郎ヲ得サレハ復母ニ見ヘスト母又徴資ヲ与フ絞三郎孤身討索具サニ鹹苦ヲ嘗メ此歳七月尋群馬県桐生町ニ獲縛ニ就カシム此ニ於テ同年十月父無罪ノ人タルヲ得タリ明治十七年兄紋助北海道根室ニ在リテ疾ム時ニ在根室ノ同郷人貨幣ヲ与ヒテ青森ニ到リ急ヲ郷里ニ報セシム家人報ヲ得ルモ長程百数十里只茫然タルノミ紋三郎奮テ赴キ救ハント請フ父母金十五円ヲ与フ七月二十日発程シテ青森ニ至リ金九円ヲ兄ニ分チ先ツ帰郷セシメ躬自カラ其地ニ留リ力役ニ服シ兄カ病中ノ逋債ヲ償ヒ苦ヲ嘗メ辛ヲ茹ヒ八月十七日ヲ以テ帰郷ス夫レ父ニ孝兄ニ弟アル者古今其人ニ乏シカラサルモ紋三郎ノ如キ学ヲ然フシテ後行ヒノ然ルニ非ス而フシテ其奮勉力行君子ニ恥チザルコト斯ノ如シ嗚呼
 
姓名 
木村善兵衛
産地 
本郡長萱村
生卒 
詳ナラス維新前ニ死ス
事蹟 
善兵衛ハ本村ノ人ニ非ス本郡福二村ノ農ナリ然ルヲ之ヲ記スル故ニ其精細ヲ尽スコト能ハス蓋シ其地ノ記ニ詳ナラン此人ヤ実ニ本郡織紝器械改良ノ先鞭ヲ著タリ本郡ノ綿布ヲ産スル従来輸出品ノ一大部ヲ占メ天保ノ末福二村頗多トス其器械ハ地機(ヂハタ)ト称シ簡単迂遠ノ製ニシテ一端(二丈八尺)ヲ織ルニ二日間ヲ費ス下野国足利郡以西ニ於テハ高機(タカハタ)ト称スル(方今一般用ユルモノ)器械ナリ共ニ人力ヲ以テ運転スト雖高機ハ日ニ一端ノ布ヲ織ルヘシ而フシテ郷里此利ヲ知ルモノナシ弘化年間善兵衛慨然トシテ改良ノ志アリ器械ヲ上野ニ購ヒ婦女子ヲ役シテ之ニ従事ス人其運営ノ活潑ナルヲ目テ初メ之ニ倣フモノアリ然レトモ当時運転未タ功ナラス布質未タ旧器ニ如カズ商売従フテ其布価ヲ卑フス此ニ於テ倣フ者漸ク減シ不利ヲ唱ルモノ愈々多シ善兵衛確乎独リ其志ヲ屈セス断トシテ其不利ヲ顧ミス為ニ窮乏ニ迫ル既ニシテ運転漸ク巧ナリ嘉永三年庚戌本村ノ人高橋直右衛門等主トシテ新器械ヲ用イ後漸ク其数ヲ加ヒ郷里始メテ其利ヲ知ル明治元年以後ニ及ンテハ旧器地ヲ払ヒ本村ノ如キ家此器械ヲ欠クモノ稀ナリ故ニ方今ノ景況其輸出天保年間ニ数倍シ細民ノ生計過半之ニ頼リ布価ノ高低ヲ以テ年ノ豊凶ト為スニ至レリ悲ヒ哉今人其業ニ衣食シテ善兵衛ノ恩ナルヲ知ル者稀ナリ是之ヲ此ニ記スル所以ナリ
     誌料編輯有志賛襄者
       茨城県下総国豊田郡新石下村
                   高橋正賢
                  天保九年戊戌十月出生
身分 
平民
履歴 
(学業)嘉永六年癸丑四月ヨリ安政五年戊午三月マテ常陸国水戸及ヒ旧江戸遊学シ漢学及ヒ医術修業(職務)初メ医ヲ業トシ明治六年三月ヨリ同十七年二月ニ至ルマテ小学校教育ニ従事シ石下小学校一等訓導ニ歴進ス其間ノ兼職ハ明治九年同十四年同十六年ノ茨城県教育会員明治十四年一月ヨリ教員集会ノ会長同十五年八月ヨリ本郡第八番衛生委員同年九月ヨリ茨城県教育通信委員十六年一月ヨリ開業医師集会ノ会長同十一年十二年十六年ノ小学校定期試験係ナリ同十七年二月茨城第三中学校二等助教諭ニ任ス同十九年七月廃校ニ付罷官(賞罰)賞与ハ明治十六年十一月文部省ヨリ一等賞トシテ六国史及ヒ硯箱茨城県ヨリ同年七月金三円同十八年八月金拾円同十九年九月金拾三円三拾銭ヲ賜ハル其他譴罰ヲ受ケシコトナシ
 
 
下総国豊田郡大房村
 
   沿革
名称 
文治年間五個ノ村ト称ス天正六年戊寅東弘寺(今ノ寺院)本村ニ移ル故ニ大坊ト称ス寛永七年庚午八月ノ検地ニ及ヒテ始メテ村名トナリ後誤リテ坊ヲ房ニ作ル
所属 
郡領及ヒ関東取締組合大小区ノ編制郡役所ノ所轄等総テ本郡新石下村ニ同シ戸長役場モ明治十二年己卯二月郡区編制以来新石下聯合ニ属セリ
分合 
古ヘ五個ノ村ニシテ石毛村ノ支村ナリ慶長年間其各部互ニ所在ヲ開墾シ漸ク独立ノ形勢ヲナシ寛永七年ノ検地ニ及ヒ分レテ本村及ヒ山口、平内、東野原、収納谷ノ五村トナル爾来分合ノ変ナシ
管轄 
慶長以前ハ新石下村ニ記スル所ト同シ慶長六年辛丑以後寛永十二年乙亥ニ至ル三十五年間徳川氏ノ直轄ナリ同十三年丙子ヨリ天和元年辛酉ニ至ル四十六年間土井氏ノ封土トナリ同二年壬戌ヨリ元禄十年丁丑ニ至ル十六年間直轄トナリ同十一年戊寅ヨリ慶応三年丁卯ニ至ル百七十年間麾下ノ士小田切、武田、朝倉三氏ノ菜地トナル明治元年戊辰以後ハ新石下村ト同シ
     備考
大坊ハ東弘寺所在ノ地名ナリ故ニ寺院ニ伴フテ其位置ヲ転従ス豊田善性(本郡豊田ヲ主ニシテ仏門ニ入ル者)カ東弘寺ヲ創スル建長二年庚戌ニ在ルモ(東弘寺ノ条ニ記スル所)其地ハ常陸国筑波郡長高野村ナリ其三世善了ニ至リ(年代闕ク)本郡石毛村(今ノ本石毛村ノ北端)ニ移ル当時其地ヲ石毛大坊ト称ス正和元年壬子岡田郡蔵持村ニ移リ享禄年間復タ石毛村(今ノ新石下小学校ノ地)ニ移ル又其地ヲ石毛大坊ト称ス天正六年戊寅寺主豊田忠円私怨ヲ舎テ多賀谷政経ト成ラク政経悦ヒ此歳四百石ヲ寄附シ現今ノ地ニ徒ス故ニ大坊ノ名亦従フテ本村ノ地ニ来ル
 
   位置疆域
位置 
豊田郡ノ中央稍南
東 
同郡東野原村耕宅地
西 
同郡新石下村ノ耕地及ヒ樹林
南 
同郡三坂村平内村山口村ノ耕地
北 
新石下村ノ耕地及ヒ樹林
 
   幅員
東西 
六町二十間
南北 
八町四十間
周囲 
三十四町三十九間
面積 
十五万八千二百〇七坪
 
   地味
色 
黯褐色
質 
南部ハ少シク細砂ヲ混シタル真土北部ハ細砂多キ真土
適種 
五穀蔬菜桑茶ニ適ス
 
   地勢
山脈 

水脈 
江連用水新石下村ヨリ来リ居住地ノ西ニ沿ヒ南流シ同郡三坂村耕地ニ入ル
東部 
南半総テ圃北半耕宅地樹林相交リ多クハ砂地
西部 
宅地相連リ其西総テ圃ナリ
南部 
総テ圃ナリ
北部 
西半宅地相連リ東半耕宅樹林相交ル総テ砂地
全地形勢 
南張北縮シ全土平坦一阜丘ナシ居住地ハ其西北隅ヨリ南ニ連リ前頭ヲ其中央ニ突出シ広濶ナル圃ヲ南西二面ニ受ク北砂地多ク南沃土ナリ水田ハ本村ト隔絶シ大別シテ三トス一ハ新石下村ノ間ニ介マリ一ハ同村ノ中ニ包裹セラレ一ハ収納谷村ノ東南数村混合耕地(収納谷村ニ詳ナリ)間ニ散布シ皆灌漑ノ便アリ
 
   道路
     陸羽支道
等級 
県道三等千葉県陸前浜街道ヨリ分岐シ栃木県ニ入リ陸羽街道ニ合ス
長 
村内延長七町三十一間五尺 南方本郡三坂村字上坪ヨリ本村字三坂街道東ニ入リ字中宿上宿ヲ経テ新石下村字芝原ニ入ル
幅 
二間
並木 

形状 
平坦ニシテ迂曲村内字三坂街道東ト八幡前トノ間ニ大慶橋アリ
雑項 

 
     陸羽支道
等級 
県道三等 下総国南相馬郡ニ於テ陸前浜街道ヨリ分岐シ本郡ヲ縦貫シ下野国塩谷郡喜連川ニ至リ陸羽街道ニ合ス
長 
延長七町三十一間五尺 南方豊田郡三坂村字上坪ヨリ本村字三坂街道東ニ入リ字中宿、上宿ヲ経テ新石下村字芝原ニ入ル
並木 

幅 
二間
形状 
平坦ニシテ迂曲村内字三坂街道東ト字八幡前トノ間ニ橋アリ
雑項 

 
     絹、蚕養両川間ノ中道
等級 
里道一等 
本郡新石下村ニ於テ陸羽支道ヨリ分レ東南ニ向ヒ両川間ノ中部本村以南本郡東野原山口収納谷三坂新田沖新田等ノ諸村ヲ貫ク
長 
一町二十七間 北方新石下村字芝原ヨリ本村字石塔ヲ過キ、東野原村字立ノ内ニ入ル
幅 
一間半
並木 

形状 
平坦ニシテ直線
雑項 

 
     絹、蚕養両川間中道ト陸羽支道ト連綴スル間道
等級 
里道一等 本村ニ於テ陸羽支道ヨリ分レ東南ニ向ヒ本郡山口村ヲ過キ収納谷村ニ至リ絹、蚕養二川間中道ニ合ス
長 
延長四町五十四間 本村字下宿ニ起リ字前畑、山口浦ヲ経テ山口村字往来東ト往来西ノ間ニ入ル
幅 
一間半
並木 

形状 
平坦ニシテ曲折
雑項
 
   河渠
     江連養水
発源 
豊田郡新石下村ニ詳ナリ
流状 
北方新石下村字大正内ヨリ字用水西ニ来リ南流シ字三坂街道ヨリ本郡三坂村字上坪ニ入ル
所属ノ長 
七町五十六間
広 
三間乃至四間
深 
一定セズ
水質 
淤濁
灌漑 
水路ニ水田ナキヲ以テ利用セズ
運輸 
利用ス可カラス
物産 

雑項 

 
 
下総国豊田郡収納谷村
 
   沿革
名称 
文治年間五個ノ村ト称セリ慶長年間開墾ノ業ヲ興シ寛永七年庚午八月ノ検地ニ至リ今ノ村名定マル
所属 
郡領及ヒ関東取締組合大小区ノ編制郡役所ノ所轄総テ本郡新石下村ニ同シ戸長役場ハ明治十二年己卯二月郡区編制以来新石下村聯合ナリ
分合 
古ヘ五個ノ村ニシテ石毛村ノ支村ナリ慶長年間各部互ニ所在ヲ開墾シ漸ク独立ノ形勢ヲナシ寛永七年ノ検地ニ及ヒ分レテ本村及ヒ大房、東野原、山口、平内ノ五村トナル爾来分合ノ変ナシ
管轄 
慶長六年辛丑以前ハ新石下村記スル所ト同シ辛丑以後寛永十二年乙亥ニ至ル三十五年間徳川氏ノ直轄ナリ同十三年丙子ヨリ天和元年辛酉ニ至ル四十六年間土井氏ノ封土トナリ同二年壬戌ヨリ元禄十年丁丑ニ至ル十六年間直轄トナリ同十一年戊寅ヨリ慶応三年丁卯ニ至ル百七十年間同郡曲田村ト同シク徳川麾下ノ士松平次郎左衛門ノ菜地トナリ明治元年戊辰八月天朝ノ直轄ニ復ス戊辰以後ハ新石下村ニ同シ
 
   位置疆域
位置 
豊田郡ノ中央稍南
東 
同郡大房山口平内東野原四村ノ混合耕地
西 
同郡山口村耕地
南 
同郡山口平内大房新石下等数村混合耕地
北 
新石下村耕地
 
   幅員
東西 
四町二十二間
南北 
三町五十二間
周囲 
十四町二十八間
面積
 
   地味
色 
黯褐色
質 
粘力強キ真土
適種 
五穀蔬菜綿絮桑茶ニ適ス
 
   地勢
山脈 

水脈 
江連養水支脈ノ末流本流東北隅ニ来リ本村ノ東部ヲ過キ下流同郡三坂村ニ入リ千代田悪水ニ連ル
東部 
耕宅地相交ル
西部 
同上
南部 
田圃相交ル
北部 
耕宅地交リ最北圃ナリ
全地形勢 
東北ヨリ西南ニ延ヒ地勢平坦ナリ江連養水ノ細支脈其間ヲ貫流シ宅地多クハ此ニ接ス一帯ノ圃其東南ヲ繞リ其外囲ハ即本村及ヒ東野原山口平内大房新石下本石下七村ノ混合耕地ニシテ総テ水田ナリ此耕地ヤ平均凡東西七百間南北四百間其名称随所ニ異ナリ其他本村所属ノ圃他村耕地間ニ星散スル数多アリ
 
   河渠
     江連養水
発源 
豊田郡新石下村ニ詳ナリ
流状 
新石下村字山口東ヨリ本村字八反田ニ入リ字居村東、前田ヲ南下シ本村外五村混合地字高田堤先ヲ経同郡三坂村字勘四郎町ニ入リ千代田悪水トナル
所属ノ長 
十一町九間内本村ノ所属ハ二町五十三間
広 
二間
深 
一定セズ
水質 
透明ナラズ
灌漑 
本村及ヒ東野原山口平内大房新石下五村ノ混合耕地ニ利用ス
運輸 
利用ス可カラス
雑項 
本村字前田以南字堤先ニ至ル八町十六間ハ本村外上文所記五村ノ混合地ナリ今各村之ヲ記スル愈々密ナレハ愈々弁ス可カラス故ニ姑ク之ヲ本村ニ合算ス請フ之ヲ諒セヨ
 
   道路
     絹、蚕養両川間ノ中道
等級 
里道一等 本郡新石下村ニ於テ陸羽支道ヨリ分レ本村ノ東部ヲ過キ両川間ノ中位ヲ縦貫シ本郡三坂新田、沖新田ノ二村ニ亘ル
長 
延長九町十間 北方本郡山口村字天神裏ヨリ本村字天神東ニ入リ字前田ヲ過キ本村外五村ノ混合地字高田堤先ヲ経テ本郡三坂村字勘四郎町ニ入ル
広 
一間半
並木 

形状 
平坦ニシテ北方屈曲シ本村ノ東部ヨリ南方一直線
雑項 
本路ハ本村字前田以南六町四十三間ノ分ハ本村ノ外大房、東野原、山口、平内、新石下、五村ノ耕地碁布星散スル所ニ亘レリ今之ヲ記スル愈々密ナレハ愈々読者ノ眩惑ヲ来シ殆ト弁ス可カラス故ニ姑ク之ヲ本村ニ合算ス看者之ヲ諒セヨ
 
     陸羽支道ヨリ絹、蚕養、両川間ニ連絡スル間道
等級 里道一等 本郡大房村ニ於テ陸羽支道ヨリ分レ東南ニ向ヒ山口村ヲ経テ本村ニ入リ両川間中道ニ合ス
長 
延長三町十二間 北方山口村字前畑ヨリ本村ノ西端字天神西ニ入リ矩折東向シ字天神東ニ於テ両川間ノ中道ニ合ス
幅 
一間半
並木 

形状 
平坦ニシテ曲折
雑項 

 
 
下総国豊田郡平内村
 
   沿革
名称 
文治年間五個ノ村ト称ス慶長年間開墾ノ業ヲ起シ寛永七年庚午八月ノ検地ニ至リ今ノ村名定マル
所属 
郡領及ヒ関東取締組合大小区ノ編制郡役所ノ所轄総テ本郡新石下村ニ同シ戸長役場ハ明治十二年己卯二月郡区編制以来新石下村聯合ナリ
分合 
古ヘ五個ノ村ニシテ石毛村ノ支村ナリ慶長年間各部互ニ所在ヲ開墾シ漸ク独立ノ形勢ヲナシ寛永七年ノ検地ニ及ヒ分レテ本村及ヒ大房、東野原、収納谷、山口ノ五村トナル爾来分合ノ変ナシ
管轄 
豊田郡収納谷村ト同シ
 
   位置疆域
位置 
豊田郡中央ヨリ稍南
東 
同郡山口村ノ耕宅地
西 
同郡三坂村ノ耕宅地
南 
同郡取納谷村ノ耕宅地
北 
同郡大房村ノ耕地
 
   幅員
東西 
五町三十五間
南北 
七町四十間
周囲 
二十九町十二間
面積 
六万五千六百八十坪
 
   地味
色 
黯褐色
質 
真土
適種 
五穀蔬菜綿絮桑茶ニ適ス
 
   地勢
山脈 

水脈 

東部 
圃多ク宅地少シ
西部 
総テ圃ナリ
南部 
同上
北部 
同上
全地形勢 
西北ヨリ東南ニ長ク山口村ト平行密接シ中部甚縮シ狭キ所ハ五十間ニ満タス全地平坦中央ヲ居住地トシ両端総テ圃ナリ水田ハ収納谷村ノ東南一帯東野原収納谷山口大房等数村ノ混合耕地(凡東西七百間南北四百間)間ニ散布シ又東野原以下四村ノ耕地間ニ散在スル圃多シ
 
   道路
     山口村ノ通路
等級 
里道一等 北方本郡山口村ヲ縦貫スル道ヨリ分レ本村ヲ貫キ南方末端田間ノ小蹊トナル
長 
延長三町四十六間 北方山口村字往来西ヨリ本村字弁天東ニ入リ字前畑ヲ経テ南方本村及ヒ山口、収納谷、二村ノ混合耕地字神立ニ入ル
幅 
一間半
並木 

形状 
平坦ニシテ迂曲
雑項 

 
   河渠
     江連用水
発源 
本郡新石下村ニ詳ナリ
流状 
北方本郡大房村字八幡前ヨリ本村字居村西ノ西端ヲ南下シ本郡三坂村字上坪ト界ヲ限リ同村字沖西ニ入ル
所属ノ長 
一町三間
広 
三間半
深 
一定セズ
水質 
透明ナラス
灌漑 
三坂村以南ニ利用スル水ニシテ本村ニ用イズ
運輸 
利用ス可カラス
物産 

雑項 

 
 
下総国豊田郡山口村
 
   沿革
名称 
文治年間五個ノ村ト称ス慶長年間開墾ノ業ヲ起シ寛永七年庚午八月ノ検地ニ至リ今ノ村名定マル始メ山口某新石下ヨリ移リ開墾ニ率先ス故ニ其姓ヲ以テ名ツク
所属 
郡領及ヒ関東取締組合大小区ノ編制郡役所ノ所轄総テ本郡新石下村ニ同シ戸長役場モ明治十二年己卯二月郡区編制以来新石下村聯合ナリ
分合 
古ヘ五個ノ村ニシテ石毛ノ支村ナリ慶長年間各部互ニ所在ヲ開墾シ漸ク独立ノ形勢ヲナシ寛永七年ノ検地ニ及ヒ分レテ本村及ヒ大房、東野原、平内、収納谷ノ五村トナル爾来分合ノ変ナシ
管轄 
豊田郡大房村ニ記スル所ト同シ
 
   位置疆域
位置 
豊田郡ノ中位ヨリ稍南
東 
同郡新石下村耕地
西 
同郡平内村ノ耕宅地
南 
同郡収納谷村ノ耕宅地
北 
同郡東野原村大房村ノ耕地
 
   幅員
東西 
五町三十五間
南北 
八町六間
周囲 
二十八町二十間
面積 
十三万八千百十八坪
 
   地味
色 
黯褐色
質 
陸田ハ細砂ヲ混スル真土水田ハ粘力多キ真土
適種 
五穀蔬菜綿絮桑茶ニ適ス
 
   地勢
山脈 

水脈 

東部 
宅地少ク圃多シ
西部 
中央ヨリ稍西宅地ニシテ最西総テ圃ナリ
南部 
総テ圃ナリ
北部 
宅地多ク耕地少シ
全地形勢 
北々西ヨリ南々東ニ延ヒ東西ニ狭シ地勢平坦砥ノ如シ中央ヨリ北宅地一帯相連リ其東西二帯宅地ト平行シテ圃ナリ中央以南総テ圃本村所属ノ水田ハ本地ト隔絶シ収納谷村ノ東南東野原、収納谷、平内、大房、新石下、本石下ト共ニ七村ノ混合耕地東西七百間南北四百間間二碁布シ皆灌漑ノ便アリ
 
   道路
     陸羽支道ト絹蚕両川間中道ヲ連綴スル間道
等級 
里道一等 
本郡大房村ニ於テ陸羽支道ヨリ分レ東南ニ向ヒ本村ヲ過キ収納谷村ニ至リ両川間中道ニ会ス
長 
延長六町五十三間 北方大房村字山口浦ヨリ本村字往来東ト往来西ノ間ニ入り字前畑ヲ経テ収納谷村字天神西ニ入ル
幅 
一間半
並木 

形状 
平坦ニシテ迂曲シ南ニ向フ
雑項
 
     平内村ノ通路
等級 
里道一等 
本村ニ於テ前款ノ連綴間道ヨリ分レ本郡平内村ヲ縦貫シ末端ハ田圃間ノ通路トナル
長 
延長四十一間半 本村字往来西ヨリ起リ平内村字弁天東ニ入ル
幅 
一間半
並木 

形状 
平坦ニシテ迂曲
雑項 

 
     絹、蚕養両川間ノ中道
等級 
里道一等 北方本郡新石下村ニ於テ陸羽支道ヨリ分レ来リ本村ノ東界ヲ限リ南向シ両川間ノ中部諸村三坂新田沖新田等ヲ貫通ス
長 
延長四町四十九間 北方本郡東野原字大街道ヨリ本村字二ツ屋浦ニ入リ字二ツ屋及ヒ天神浦裏ニ於テ新石下村耕地ヲ界シ収納谷村字天神東ニ入ル
幅 
一間半
並木 

形状 
平坦ニシテ迂曲
雑項
 
   人物
姓名 
平間勝之助
産地 
本村
生卒 
嘉永五年三月六日出生現今生存
事蹟 
勝ノ助ハ本村平民平間利右衛門ノ弟ナリ人トナリ温良撲実始メ本村平民農平間文内ト云フモノアリ安政二年乙卯老ヘテ妻ヲ喪ヒ嗣ナシ赤貧洗フカ如シ衣食只自己ノ瘦骨ニ頼ル明治七年甲戌某其養子トナリ久シカラズシテ去ル同十年丁丑二月勝之助其養子トナルヤ職業ニ勉励シ孝養至ラサルナシ同年十月妻ヲ娶ル夫妻力行一如タリ共ニ他人ノ地ヲ借耕シテ其利益ヲ収メ傍ラ他人ノ傭役ニ服シテ賃金ヲ得而フシテ能ク養父ニ事フ同十三年庚辰以来養父聾トナルニ及ヒテ夫妻反省温清ノ労更ニ一層ヲ増ス然レトモ鉄心屈セズ多年一日ノ如シ明治十八年乙酉ニ及テハ夫妻勤倹ノ凝結スル所三段余ノ田産ヲ造レリ時ニ養父年八十余歓喜四体ニ溢ル孝徳実ニ郷里ノ人ヲ感セシム此年県令人見寧其孝ヲ嘉シ夫ニ金二円五十銭妻ニ金壱円五十銭ヲ賜フ
 
姓名 
岡田タキ
産地 
常陸国筑波郡小張村
生卒 
安政四年二月四日出生現今生存
事蹟 
「タキ」ハ小張村平民岡田伊之助ノ妹ナリ明治十年丁丑十月本村平民農平間勝之助ニ嫁シ共ニ養父平間文内ニ事ヘテ孝ナリ事蹟前ニ見ヘタリ
 
 
下総国豊田郡東野原村
 
   沿革
名称 
文治年間五個ノ村ト称ス慶長年間開墾ノ業ヲ起シ寛永七年庚午八月ノ検地ニ至リ今ノ村名定マル
所属 
郡領及ヒ関東取締組合大小区ノ編制郡役所ノ所轄総テ本郡新石下ニ同シ戸長役場ハ明治十二年己卯二月郡区編制以来新石下村聯合ナリ
分合 
古ヘ五個ノ村ニシテ石毛村ノ支村ナリ慶長年間各部互ニ所在ヲ開墾シ漸ク独立ノ形勢ヲナシ寛永七年ノ検地ニ及ヒ分レテ本村及ヒ大房、山口、平内、収納谷ノ五村トナル爾来分合ノ変ナシ
管轄 
慶長六年辛丑以前ハ新石下村記スル所ト同シ辛丑以後寛永十二年乙亥ニ至ル三十五年間徳川氏ノ直轄ナリ同十三年丙子ヨリ寛文二年壬寅ニ至ル二十七年間土井利勝(大炊頭)其子利隆(遠江守)ノ封土トナリ同三年癸卯ヨリ延享二年乙丑ニ至ル八十三年間直轄トナリ同三年丙寅ヨリ宝暦十二年壬午ニ至ル十七年間堀田相模守ノ封土トナリ同十三年癸未ヨリ文化八年辛未ニ至ル四十九年間又直轄トナリ文化九年壬申本村ヲ割キ麾下ノ士山田氏ノ菜地トス之ヲ東組ト称シ直轄ノ部分之ヲ西組ト称ス其他蕞爾タル土岐佐橋二氏ノ封土アリテ両組ノ附属タリ文政五年壬午山田氏罪アリ流ニ坐シ其地直轄ニ帰ス而フシテ土岐佐橋二氏ノ地故ノ如シ文化九年ヨリ天保十四年癸卯ニ至ル三十二年間東西ニ対峙シ弘化元年甲辰三月東西ヲ合セテ麾下ノ士松平佐金吾ノ菜地トス土岐佐橋ノ地猶故ノ如シ弘化元年ヨリ慶応三年丁卯ニ至ル二十四年間松平等三氏ノ菜地ニシテ明治元年戊辰八月天朝ノ直轄ニ復ス戊辰以後ハ新石下村ト同シ
 
   位置疆域
位置 
豊田郡ノ中央ヨリ稍南ニ位ス
東 
同郡新石下村ノ耕地
西 
同郡大房村ノ耕地
南 
同郡新石下山口二村ノ耕地
北 
新石下村
 
   幅員
東西 
九町十一間
南北 
六町四十八間
周囲 
一里二町一間
面積 
十四万七千七百七十六坪
 
   地味
色 
黯褐色帯黒
質 
陸田ハ細砂ヲ混スル真土水田ハ粘力強キ真土
適種 
五穀蔬菜桑茶ニ適ス
 
   地勢
山脈 

水脈 
江連用水ノ支脈北方同郡新石下村ヨリ来リ本村東部ノ耕地ヲ貫キ南流シテ新石下耕地ニ入ル
東部 
圃多ク田少シ
西部 
宅地連続シ耕地其間ニ混ス
南部 
一帯圃ナリ
北部 
耕宅地樹林相交ル総テ砂地ナリ
全地形勢 
東西稍長ク平坦砥ノ如シ居住地其西北ニ位シ其他概ネ圃ナリ水田ハ本村ト隔絶シ各処ニ散在ス之ヲ大別シテ二トス一ハ東ニ離レ新石下村耕地間ニ介ルモノ一ハ同郡収納谷村ノ東南一帯収納谷、山口、平内、大房四村ノ混合耕地(東西凡七百間南北凡四百間)間ニ散布ス皆灌漑ノ便アリ全地北部砂地ニシテ南部沃壌
 
   河渠
     江連用水支脈
発源 
豊田郡新石下村ニ詳ナリ
流状 
北方新石下村字甲柳ヨリ本村字甲柳ニ入リ字五十嵐ニ於テ新石下村字山口東ト字蛭沼ノ間ニ入ル
所属ノ長 
四町十一間
広 
三間
深 
一定セズ
水質 
淤濁
灌漑 
本村東部ノ水田及ヒ隔絶散布セル水田一ニ此利ニ頼ル
運輸 
利用スヘカラス
物産 

雑項 

 
   道路
     絹、蚕養両川間中道
等級 
里道一等 豊田郡新石下村ニ於テ陸羽支道ヨリ分レ本村ヲ貫キ直線南向スル数里両川間中部ノ村落ヲ貫通ス
長 
延長五町四十三間半 北方大房村字石塔ヨリ本村ニ入字立ノ内(タテノウチ)ニ入リ字大街道ヲ経テ新石下村字山口東ト山口村字二ツ屋ノ間ニ入ル
幅 
一間半
形状 
平坦ニシテ小シク迂曲ス概ネ直線
雑項
 
 
下総国豊田郡本豊田村
 
   沿革
名称 
古ヘ単ニ豊田ト称シ区域頗ル広シ豊田城陥ルノ後只城北ノ地ノミノ名称トナル寛永七年庚午八月ノ検地ニ及ヒテ本ノ字ヲ冒ス
所属 
郡領及ヒ大小区ノ変遷郡役所ノ所轄ハ本郡新石下村ニ同シ文政十年丁亥関東取締組合ハ本郡加養村聯合十六個村ニ編入セリ戸長役場ハ明治十二年己卯二月豊田村聯合ニ属シ同十七年甲申六月以後新石下村聯合ナリ
分合 
古ノ豊田ハ疆域頗ル広ク南ハ今ノ曲田福二ノ二村北ハ今ノ豊田村東ハ蚕養川ヲ挟テ今ノ筑波郡上郷村ニ亘レリト云フ城陥ルノ後漸ク新ニ部落ヲ分チ寛永七年各自村ヲ立ツ明治二年己巳妙見沼新田ノ半ヲ併セ今ノ形勢ヲナセリ
管轄 
慶長六年辛丑以前ハ新石下村ニ記スル所ト同シ辛丑以後元禄十年丁丑ニ至ル九十七年間徳川氏ノ直轄ナリ同十一年戊寅麾下ノ士菊地、森川、長田、三氏ノ菜地トナリ猶直轄ノ地ヲ存ス宝永四年丁亥直轄ノ地ヲ以テ窪田氏ノ菜地トス爾来慶応三年丁卯ニ至ル百六十一年間全土四家ノ菜地ナリ明治元年戊辰以後ハ新石下村ニ同シ
 
   位置疆域
位置 
豊田郡中央稍南ノ東部
東 
蚕養川ヲ隔テヽ常陸国筑波郡上郷村ニ対ス
西 
豊田郡新石下村耕地
南 
同郡曲田村ヲ包ミ福田村ニ連ル
北 
同郡豊田村耕地
 
   幅員
東西 
十八町三十六間
南北 
二十六町十間
周囲 
三里一町十九間
面積 
四十七万七千四百五十七坪
 
   地味
色 
黯褐色
質 
粘力強ク真土
適種 
五穀蔬菜桑茶最モ綿絮ニ適ス
 
   地勢
山脈 

水脈 
蚕養川常陸下総ヲ分界シ本村ノ東ヲ限リ南流ス
   八間堀本村ノ西ヲ限リ南流ス
   七個村悪水北ヨリ来リ本村耕地ノ西界ニ沿テ南流ス
   東部江連用水ノ下流北ヨリ来リ本村ニ入リ七個村悪水ニ合ス
東部 
北半蚕養川堤防ニ接シテ宅地相連ル南半総テ陸田地勢梢高シ
西部 
居住地ノ西一帯陸田ニシテ其西漸ク低ク総テ水田ナリ
南部 
総テ陸田最南地形挟長河流ニ随フテ大ニ屈曲シ曲田村ヲ囲繞ス
北部 
総テ田圃
全地形勢 
地形南北ニ長ク北部広濶西ニ張リ南部甚縮シ細長屈曲シテ鵞頭ノ如ク南出シ項東ニ張リ嘴端西ニ啄ミ曲田村ヲ其喉下ニ御シ総テ陸田ナリ蚕養川ニ接スルノ地梢高ク東ヨリ漸ク低シ故ニ北部開張ノ地堤防ニ接シテ宅地相連リ里道貫通ス其西陸田トナリ水田トナリテ止ム皆灌漑ノ便ヲ占ム蚕養川舟運ノ利ナキヲ以テ物貨ノ運輸馬背或ハ絹川ニ取ル
 
   河溝
     蚕養川又小貝川
発源 
下野国芳賀郡ニ詳ナル可シ
流状 
北方豊田村字堤外ヨリ本村字流レ新田ニ入リ常陸国筑波郡上郷村ヲ分界シテ屈曲南流シ南方本郡本石下村飛地字亀ノ甲ニ続ク水涯ノ字ハ総テ流新田ナリ
所属ノ長 
三十二町一間内二町二十四間ハ上郷村ノ飛地介マル

三十間
深 
六尺
水質 
全ク透明ナラス
灌漑 
下流此ノ利ニ頼ルノ地アルモ本村ハ之ヲ利用セズ
運輸 
近傍ノミニシテ利根川ニ達ス可カラス
物産 
鯉、鰻、鯰、
雑項 

 
     七個村悪水
発源 
本郡本石下村字十三人割ヨリ発ス
流状 
北方豊田村字上新田ヨリ八間堀ニ沿ヒ本村字向新田ニ入リ字宮地、見井向ヲ経テ三角内ニ至リ新石下村字毛曾ヲ分界シ南方曲田村字三角内前ニ入ル
所属ノ長 
二十町五十三間
広 
三間
深 
一定セズ
水質 
全ク透明ナラス
灌漑 
利用ス可カラス
運輸 
利用ス可カラス
物産
雑項 
本石下新石下豊田曲田及ヒ本村以上五村ノ余水ヲ排除スルニ拘ル本石下村ハ本石下中石下上石下三村ノ合併ナリ故ニ七個ノ名アリ
 
   道路
     蚕養川西畔北道
等級 
里道一等 
豊田郡新石下村ニ於テ陸羽支道ヨリ分岐シ東向シテ本村ヲ衝キ矩曲北行シテ蚕養川ニ沿ヒ河畔ノ村落ヲ貫通ス
長 
新石下村字毛曾ヨリ本村字松並ニ入リ字大道西大道添丸池ヲ経テ本郡豊田村字丸池ニ入ル村内延長八町十間
幅 
二間
並木 

形状 
新石下村ヨリ本村マテ直線東向シ本村ヨリ北ニ向ヒ又直線到ル所総テ平坦村内新石下ノ界ニ一橋アリ横倉橋ト云
雑項 

 
   河渠
     八間堀
発源 
豊田郡肘谷加養新堀ノ三村ニ詳ナル可シ
流状 
北方同郡豊田村字上新田ト新石下村字十三人割ノ間ヨリ本村字向新田ニ来リ本村ノ西界ヲ限リ字□□ヨリ南下シテ新石下村字妙見ニ入ル延長四町四十間
所属ノ長
広 
六間乃至八間
深 
一定セズ
水質 
淤濁
灌漑 
利用ス可カラス
運輸 
利用ス可カラス
物産 

雑項 

 
     東部江連養水
発源 
豊田郡新石下村ニ詳ナリ
流状 
北方同郡豊田村字塚ノ内ヨリ本村字丸池ニ入リ大道西ヲ経字見井向ニ至リ七個村悪水ニ入ル
所属ノ長 
十一町五十三間
広 
三間
深 
一定セズ
水質 
不透明
灌漑 
利用ス可カラス
運輸 
利用ス可カラス
物産 

雑項 
此水西部ノ養水ト同シク常陸国真壁郡沙沼ニ潴シ更ニ導キテ本郡ニ入ルヤ直ニ東西二部ニ分ル西部ハ則絹川ニ沿フテ下注シ東部ハ則十八個村養水ニシテ蚕養川ニ沿ヒ其下流本村ニ至リテ止ム本項記スル所是ナリ下野国芳賀郡上江連村ヨリ此ニ至ル延長八里六町五間東部ニ分岐セシヨリ此ニ至ル延長二里二十六町十四間半
 
   漁場
所在 
蚕養川ノ中
主産 
鯉、鰻、
季節 
鯉ハ春夏ノ交鰻ハ季節ニ拘ハラス
漁額 
売価一年間合計凡金三十六円
用具 
打網 
簗竹片ヲ以テ造ル 針土人置針ト称シ針尖ニ餌アリ針根ニ綸アリ之ヲ細竿ニ縛シ河中ニ樹テ針ヲシテ浮動セシム
船数
漁夫
雑項 
鯉ヲ漁スルハ預メ魚ノ所在ヲ認メ竹簀ヲ用ヰテ其上流ト下流トヲ横絶シ舟ヲ其中ニ放チ網ヲ投シテ捕獲スルナリ鰻ハ簗或ハ針ヲ用ヰ其法甚迂遠
 
   古跡
     御城城趾
所在 
牙城ハ本村居住地ノ東南ニシテ蚕養川ニ接シ字御城及ヒ東城ノ地ナリ外郭ハ其西南字御門内(ミカトウチ)(今三角内)ノ地ナリ
現状 
蚕養川其東ヲ囲ミ南ニ押切沼アリ其他総ヲ平坦ナル圃ニシテ地勢稍高ク塁壁ノ痕迹今猶存ス毎年九月十五日村民草ヲ束ネテ祠トシ城主ヲ祀ル之ヲ将軍祭ト云フ別ニ稲荷ヲ祀ル処アリ伝ヘ云フ将軍ノ祠ハ倉庫ノ迹ニシテ稲荷ハ牙城ノ迹ナリト当時牙城ノ正南十一町許曲田村ノ南ニ於テ蚕養川ニ架スル橋アリ本橋ト云フ
雑項 
前九年ノ役平政基(赤須四郎)軍ニ従ヒ天喜二年甲午六月阿武隈川ニ先登ノ功アリ平定後石毛ノ地ヲ賜ハリ爾来此ニ拠ル之ヲ豊田家ト称ス治親ニ及ヒテ多賀谷政経ノ臣白井全洞ノ謀ル所トナリ天正六年戊寅五月其臣飯見大膳ニ弑セラル時ニ絹蚕養二川漲ル政経本郡原ノ堤ヲ断チ絹川ノ水ヲ本城ニ注キ城終ニ陥ル政基ヨリ二十二主殆ト五百年ニシテ亡フ
 
   湖沼
     押切沼
所在 
居住地ノ東南隄防ニ接ス字五ワント堤外粕内ノ間ニ在リ
径 
縦 五十間
横 十八間
面積 
九百坪
物産 

水利 
利用ス可カラス
雑項 

 
   堤塘
     蚕養川堤
長 
延長二十七町三十間 北方本郡豊田村字白金ヨリ本村字丸池ニ連続シ字上宿、下宿、北宿、稲荷裏、東城、御城ヲ経堤外粕内ニ至リ南方曲田村字貴舟ニ連ル


雑項
 
 
下総国豊田郡曲田村
 
   沿革
名称 
古ヘ豊田ノ地ナリ天正六年戊寅豊田城陥ルノ後各自新タニ部落ヲ分チテ独立ス然レトモ其年代考フ可カラス
所属 
郡領及ヒ大小区ノ変遷郡役所ノ所轄ハ本郡新石下村ニ同シ文政十年丁亥関東取締組合ハ本郡加養村聯合十六村ニ編入セリ
分合 
本村独立前ハ本豊田村ニ詳記ス以後ハ分合ノ変ナシ 戸長役場ハ明治十二年己卯二月豊田村聯合ニ属シ同十七年六月以後新石下村聯合ナリ
管轄 
慶長六年辛丑以前ハ本郡新石下村ニ記スル所ト同シ辛丑以後元禄十年丁丑ニ至ル九十七年間徳川氏ノ直轄ナリ同十一年戊寅ヨリ慶応三年丁卯ニ至ル一百七十一年間徳川麾下ノ士松平、長田、森川三氏ノ菜地トナリ明治元年戊辰八月天朝ノ直轄ニ復ス戊辰以後ハ新石下村記スル所ニ同シ
 
   位置疆域
位置 
豊田郡中央ヨリ稍南ノ東部
東 
同郡本豊田村耕地
西 
同郡新石下村南端ノ耕地
南 
本豊田村ノ堤外地及ヒ同郡福田村
北 
本豊田新石下ノ二村耕地及ヒ同郡東野原村耕地
 
   幅員
東西 
十二町十三間
南北 
十一町十間
周囲 
一里十五町十間
面積 
二十六万五千九百五十四坪
 
   地味
色 
黯褐色
質 
粘力強キ真土
適種 
五穀蔬菜桑茶最モ綿絮ニ適ス
 
   地勢
山脈 

水脈 
八間堀北方新石下村耕地ヨリ本村ヲ屈曲貫流シ新石下福田二村ノ間ニ入ル七個村悪水ハ北方八間堀ノ東ニ平行シ新石下本豊田二村ノ間ヨリ本村ニ入リ居住地ノ東ヲ過キ福田村耕地ヲ貫キ蚕養川ニ落ツ
東部 
総テ圃ナリ
西部 
耕宅地相交ル
南部 
東半総テ圃西半耕宅地相交ル
北部 
東半総テ圃西半総テ水田ナリ
全地形勢 
東西稍長ク北部ノ中央新石下村東南端ノ突起ヲ受ケテ凹状ヲナシ西部殊ニ西北ニ延ヒ全形磬折ス極西宅地断続シ地勢稍高シ其北総テ水田宅地ノ東地勢低シテ平坦総テ圃ナリ全土膏腴ニシテ水田ハ灌漑ノ便アリ然レトモ蚕養川舟楫ノ利ナキヲ以テ運輸ノ不便本豊田村ニ同シ
 
   河渠
     八間堀
発源 
豊田郡肘谷加養新堀ノ三村ニ詳ナル可シ
流状 
北方新石下村字毛曾ヨリ本村字高田ニ入リ屈曲シテ本村ヲ貫キ字土手根、内荒句、茅場ヲ経西南ニ下リ字集荷ニ至リ新石下村字六軒ト福二村字集荷ノ間ニ入ル
所属ノ長 
十三町十五間
広 
六間
深 
一定セス
水質 
淤濁
灌漑 
利用ス可カラス
運輸 
利用ス可カラス
物産 

雑項 

 
     七個村悪水
発源 
豊田郡豊田村ニ詳ナル可シ
流状 
北方同郡本豊田村字三角内ト新石下村字毛曾ノ間ヨリ本村字三角内前ニ入リ字御林悪水附ヲ経テ屈曲環流シ同郡本石下村字亀ノ甲ニ入り蚕養川ニ落ツ
所属ノ長 
十一町十二間
広 
三間
深 
一定セズ
水質 
淤濁
灌漑 
利用ス可カラス
運輸 
利用ス可カラス
物産 

雑項 

 
   道路
     蚕養川西畔南道
等級 
里道一等豊田郡収納谷村ノ南ニ於テ絹蚕養両川間ノ中道ヨリ分岐シ東向シテ本村ヲ衝キ蚕養川ニ沿テ南向シ河畔ノ村落ヲ貫通ス
長 
西方同郡新石下村字悪水附ヨリ本村字沖田ニ入リ同村字六軒ト本村字茅場ヲ界シ字集荷ニ至リ南方同郡福田村字集荷ニ入ル村内延長五町二十八間
広 
一間半
並木 

形状 
平坦
雑項 

 
   堤塘
     蚕養川堤
長 
延長十二町一間 東方本豊田村字堤外粕内ヨリ本村字貴舟ニ連続シ字荒句、蔵王、ヲ経前畑ヨリ南方福二村字袋ニ連ル



 
曲田村 合計反別七拾九町三反四畝廿七歩
  番外 道敷反別三町八反九畝拾五歩
     堀敷反別三町三反壱畝九歩
     堤敷反別壱町五反廿七歩
     溝敷反別五反八畝拾六歩
 合計 八十八町六反五畝四歩
    二十六万五千九百五十四坪
本豊田村 合計反別百四拾六町七畝廿七歩
  番外 道敷反別四町八畝七歩
     川敷反別壱町八反四畝廿弐歩
     堀敷反別壱町八反壱畝拾歩
     堤敷反別五町三反三畝壱歩
 合計 百五十九町壱反五畝七歩
    四十七万七千四百五十七坪
大房村 合計反別四拾八町六反八畝廿六歩
  番外 道敷反別壱町九反弐歩
     堀敷反別九反三歩
     溝敷反別壱町弐反四畝拾六歩
 合計 五十弐町七反三畝十七歩
    十五万八千二百〇七歩
東野原村 合計反別四拾五町六反五畝拾歩
  番外 道敷反別壱町七反七畝六歩
     堀敷反別八反廿四歩
     土揚敷反別壱町弐畝拾六歩
 合計 四十九町二反五畝二十六歩
    十四万七千七百七十六坪
山口村 合計反別四拾三町六反弐畝三歩
  番外 塚地六歩
     道敷壱町五反五畝拾九歩
     堀敷壱反弐畝拾弐歩
     溝敷五反七畝廿八歩
     土揚敷壱反五畝廿歩
    合計弐町六反廿三歩
 合計 四十六町三畝廿八歩
    十三万八千百十八坪
平内村 合計反別廿町六反壱畝八歩
  番外 道敷反別八反九畝五歩
     土揚敷反別弐畝廿八歩
     堀敷反別弐畝三歩
     溝敷反別三反三畝廿六歩
 合計 二十一町八反九畝十歩
    六万五千六百八十坪
曲田、本豊田両村当連合ニ相成候は明治十七年六月
 
 
下総国豊田郡収納谷村
 
   沿革
名称 
取納谷或ハ収納谷ト記シ蓋シ収納小屋ノ義ナリ按スルニ慶長年間常陸谷原ノ開墾ニ会シ北方石毛地方ノ人民収農廬ヲ設ケ漸ク其子弟ヲ移住シ自ツカラ此称呼ヲ流キ寛永七年ノ検地ニ及ヒテ純然タル名称トナレリ
所属 
郡領及ヒ大小区ノ変遷ハ豊田郡新石下村ニ記スル所ト同シ
分合 
独立以後分合ノ変ナシ
管轄 
慶長年間本村開墾以後寛永十二年ニ至ル三十余年間徳川氏ノ直轄同十三年ヨリ天和元年ニ至ル四十六年間土井氏ノ封土トナリ天和二年ヨリ元禄十年ニ至ル十六年間直轄トナリ同十一年ヨリ慶応三年ニ至ル百七十年間同郡曲田村ト同シク徳川麾下ノ士松平次郎左衛門ノ菜地トナル明治元年以後ハ新石下村ニ記スル所ト同シ
 
   道路
     陸羽支道
等級 
県道三等下総国南相馬郡ニ於テ陸前浜街道ヨリ分岐シ下野国塩谷郡喜連川ニ至リ陸羽街道ニ合ス
長 
 南方豊田郡大房村字上宿ヨリ本村字芝原ニ入リ字寺浦、高柳、傍鷹、西河原ヲ経テ北方同郡本石下村字下宿ニ通ス村内延長十一町八間一尺
幅 
四間
並木 

形状 
平坦ニシテ概ネ直線居住地ノ間ニ於テ圯橋アリ
雑項 

 
 
下総国豊田郡山口村
 
   沿革
名称 
慶長年間豊田郡今ノ新石下村ノ人山口某ナル者開墾ニ率先シ本村ヲ立ツ故ニ其姓ヲ以テ村名トス
所属 
郡領及ヒ大小区等ノ変遷新石下村ニ記スル所ト同シ
分合 
慶長以後漸ク開墾ノ功ヲ積ミ寛永七年ノ検地ニ至リ始メテ一村ヲナス本村創立以後分合の変ナシ
管轄 
豊田郡大房村ニ記スル所ト同シ
 
 
下総国豊田郡曲田村
 
   沿革
名称 
古ヘ豊田ノ地タルコト明ナリ天正六年豊田城陥ルノ後各自新ニ部落ヲ分ツ邦俗豐豊誤リテ通用ス本村ハ城南ニ接スルヲ以テ蓋シ豊ノ上部ヲ採リ曲田ト称ス
所属 
郡領及ヒ大小区等ノ変遷ハ豊田郡新石下村ニ記スル所ト同シ
分合 
本村独立以後分合ノ変ナシ
管轄 
徳川氏国初慶長六年以前ハ豊田郡新石下村ニ詳記スル所ト同シ爾来元禄十年ニ至ル九十七年間徳川氏ノ直轄トナリ同十一年ヨリ慶応三年ニ至ル一百七十一年間麾下ノ士松平、長田、森川三氏ノ菜地トナレリ明治元年以後ハ新石下村ニ記スル所ト同シ
 
 
下総国豊田郡東野原村
 
   沿革
名称 
慶長年間徳川氏常陸谷原開墾ノ令ヲ布ク此時ニ当リ本郡今ノ新石下村夙ニ此業ニ就ケリ本村ハ其居住地ノ東南ニ位セル原野ナルヲ以テ東ノ原ト称ス後誤リテ野ノ字ヲ加フ寛永七年ノ検地ニ至リ今ノ名称トナル
所属 
王朝ノ時ヨリ豊田郡ニ属シ慶長以後下妻領ト称ス(理由新石下村ニ詳記ス)文化九年ニ至リ東西両組ニ分レ弘化元年両組ヲ廃シ一トナレリ明治元年以後大小区ノ変遷ハ新石下村ニ記スル所ト同シ
分合 
木村草創以来分合ノ変ナシ
管轄 
徳川氏以前ハ新石下村ニ記スル所ト同シ慶長年間本村草創以来寛永十二年ニ至ル凡三十年間徳川氏ノ直轄トナリ同十三年ヨリ寛文二年ニ至ル二十七年間土井利勝(大炊頭)其子利隆(遠江守)ノ封土トナリ同三年ヨリ延享二年ニ至ル八十三年間直轄トナリ延享三年ヨリ宝暦十二年ニ至ル十七年間堀田相模守ノ封土トナリ同十三年ヨリ文化八年ニ至ル四十九年間又直轄トナリ文化九年本村ノ半麾下ノ士山田氏ノ菜地トナル之ヲ東組ト称シ直轄ノ部分之ヲ西組ト称ス其他蕞爾タル土岐、佐橋二氏ノ封土アリ両組ニ附属セリ文政五年山田氏罪アリ流ニ坐シ其地直轄ニ帰ス而フシテ土岐佐橋二氏ノ地故ノ如シ文化九年ヨリ天保十四年ニ至ル三十二年間東西ニ分立シ弘化元年三月東西ヲ合セテ麾下ノ士松平左金吾ノ菜地トス土岐佐橋ノ地又故ノ如シ弘化元年ヨリ慶応三年ニ至ル二十四年間松平等三氏ノ菜地ニシテ明治元年天朝ノ直轄ニ帰ス明治元年以後ハ新石下村ニ記スル所ト同シ
 
 
下総国豊田郡本豊田村
 
沿革
名称 
豊田ノ名其来ル旧ク区域亦頗ル広シ豊田城陥ルノ後城北ノ地ノミヲ豊田ト称ス本村ハ特ニ城址ニ接スルヲ以テ更ニ本ノ字ヲ加フ按スルニ本ノ字ヲ加フルハ寛永七年検地ノ時ナラン
所属 
郡領及ヒ大小区等ノ変遷ハ同郡新石下村ニ記スル所ト同シ
分合 
古ノ豊田ハ疆域頗ル広ク南ハ今ノ曲田、福二ノ二村東ハ蚕養川ヲ挟ミテ今ノ筑波郡上郷村ニ亘レリ豊田城陥ルノ後漸ク新ニ部落ヲ分チ各自村ヲ立テ明治二年妙見沼新田ノ半ヲ併セ今ノ形勢ヲナセリ
管轄 
後冷泉天皇ノ朝康平ノ末年平政基(赤須四郎ト称ス)此地ニ拠リ子孫相承ケ二十二主殆ト五百年間其封土タリ天正六年以後二十三年間多賀谷政経ノ略有スル所トナリ慶長六年以後徳川氏ノ有タルコト同郡新石下村ニ詳記ス慶長六年以後元禄十年ニ至ルマテ九十七年間徳川氏ノ直轄トナリ同十一年麾下ノ士菊地、森川、長田三氏ノ菜地トナリ猶直轄ノ地ヲ存ス後九年ニシテ直轄ノ地窪田氏ノ菜地トナル爾来慶応三年ニ至ルマテ百六十一年間全土四家ノ菜地ナリ明治元年以後新石下村ニ記スル所ト同シ
 
   道路
     絹蚕養両川間ノ中道
等級 
里道一等 本郡新石下村ニ於テ陸羽支道ヨリ分レ本村ノ東部ヲ過キ両川ノ中位ヲ縦貫シ本郡三坂新田沖新田ノ二村ニ亘ル
長 
延長九町十間

並木 

形状 
平坦ニシテ北方屈曲シ本村ニ東ヨリ南方一直線
逍項 
本路ハ本村字前田以南六町四十三間ノ間本村ノ外本郡大房、東野原、山口、平内、新石下五村ノ耕地碁布星散スル所ニ亘レリ今之ヲ記スル愈々密ナレハ愈々読者ノ眩迷ヲ来シ殆ト弁ス可カラス故ニ姑ク之ヲ本村ニ合算ス看者之ヲ諒セヨ
 
     陸羽支道ヨリ絹蚕養両川間中道ニ連綴スル間道
等級 
里道一等 本郡新石下村ニ於テ陸羽支道ヨリ分レ東南ニ向ヒ東野原、山口二村
石下村周囲 
七里廿一丁
面積 
弐百四十一万百六十六
明治七年七月 水海道取締所新石下村移シタリ
明治八年四月 茨城県ヘ所轄換ニナル
明治八年十一月中 下妻ヘ引上ル
 
右ハ概略御覧可有候ニ付、尚御納之上申上候也
   十九年十一月廿八日           宇之助
  野村甚右衛門様