常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第七章 教育と文化

第二節 戦前の文化―明治から太平洋戦争まで

長塚節(一八七九~一九一五)は明治十二年四月三日、父源次郎、母たかの長男として国生村に生れた。三歳の頃百人一首の何首かを暗誦したといわれている。
 明治十六年(一八八三)五歳の時国生小学校に入学、ついで下妻高等小学校に学び、後茨城尋常中学校(現水戸一高)に入学したが、神経衰弱のため四年進級間もなく退学した。水戸から帰ってから精神の慰安のため作歌に親しんだ。
 三十一年(一八九八)二月、陸羯南(くがかつなん)主宰の新聞に掲載された「歌よみに与うる書」は、節の作歌生活に大きな影響を与えたもので、その年の三月末には正岡子規の門をたたいた。
 三十三年(一九〇〇)三月には三度目の子規訪問をなし、その時の歌は三十三年四月三日の『日本』に掲載された。
 
        竹の里人をおとなひて席上に詠みける歌
    歌人の竹の里人おとなへばやまひの牀に絵をかきてあり
    生垣の杉の木低みとなり屋の庭の植木の青芽ふく見ゆ
    人の家にさへづる雀ガラス戸のそとに来て鳴け病む人のために
    ガラス戸の中にうち臥す君のために草萌え出づる春を喜ぶ
    枝の上にとまれる小鳥君のために只一声を鳴けよとぞ思ふ (座上の剝製の鳥あり)
 
 外四首のこの歌は、線香一本消える間にうたいあげた歌として世人の注目を得ている歌であるが、伊藤左千夫に「節はまさに師の君(子規)の愛弟子であった」と言わしめた、そもそもの堅い絆は、すでにこの時点で動きのないものとなっていたという点で注目すべき歌であると思われる。師の病をおもう惻々の情が泌みとおっている歌である。
 三十三年五月のうたに、
 
        竹の里人に山椒の芽や楤の芽などをおくる
        鄙にあれば心やすけし人の家の垣の山椒の芽を
        摘みて来つ
    竹やぶにたまたま生ふるたらの木の刺ある木の芽折りて贈りぬ
 
 三十五年(一九〇二)九月十九日正岡先生の訃が届いた。
 
  九月十九日正岡先生の訃いたる。この日栗ひらひなどしてありければ、
    年のはに栗はひりひてささげむと思ひし心すべもすべなさ
    ささぐべき栗のこゝだも搔きあつめ吾はせしかど人ぞいまさぬ
 
 師への慕情ひしひしと迫りくるものがある。かくして二十日には根岸庵にいたり、二十三日には墓参をすませた。
 三十六年の歌に次のような作がある。
 
    藁つつみたらの木の芽はおくらまく心はいまは空しきろかも
    春雨のしき降る藪のたらの木のいたくぞ念ふそのなき人を
 
 子規は、節の才能を愛したことはもちろんだが、この純粋無垢の人間性を愛したのだろう。
 三十七年(一九〇四)の歌におもしろい一首がある。幼い日からの胃を癒さんがため、七月十一日から十日間ばかり断食して、水ばかり飲んでいたことがあった。ところが、知人が鬼怒川名物のやまべの焼串を届けてくれたのである。
 
    鬼怒川のやまべ焼串うまけれどこころなの人やけふ持ちて来し
 
 わざとこんな時に持って来てくれてというなさけなさが「こころなの人や」に遺憾なく出ていておもしろい一首である。
 三十九年(一九〇六)の作に、節にはめずらしい戯れ歌がある。
 
        戯れに禿頭の人におくる
    つやつやに少き頭泣かむより糊つけ植ゑよ唐黍の毛を
    おもしろの髪は唐黍白髪の老い行く時に黒しといふもの
 
 明治四十一年(一九〇八)ごろから節の歌境はますます冴えわたってくる。
 
        初秋の歌
    小夜深にさきて散るとふ稗草のひそやかにして秋さりぬらむ
    馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉じて想ひ見るべし
    芋の葉にこぼるゝ玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつつあらむ
    鬼怒川を夜ふけてわたす水棹の遠く聞えて秋たけにけり
 
 節の歌の中最も悲痛なものは、四十五年(一九一二)喉頭結核宣告を受けた時の歌だろう。
 
        喉頭結核といふ恐しき病ひにかかりしに知
        らでありければ、心にも止めざりしを、打ち
        捨ておかば余命は僅かに一年を保つに過ぎざる
        べしといへばさすがに心はいたくうち騒がれ
        て
    生きも死にも天にまに/\と平らけく思ひたりしは常の時なりき
    我が命惜しと悲しといはまくを恥ぢて思ひしは皆昔なり
 
 節の歌は、このころの作と、大正三年(一九一四)から発表された「鍼の如く」その一からその五に至る歌に代表されよう。
 それらの中でも「母を憶ふ」歌に秀歌が多く、節の高貴な人間性の一面を示す歌として高く評価される。
 
    我さへにこのふる雨のわびしきにいかにかいます母は一人して
    いささかのゆがめる障子引き立ててなに見ておはす母が目に見ゆ
    張り換へむ障子もはらず来にければくらくぞあらむ母は目よわきに
    くたびれを母とかたれば肩に乗る子猫も重き春の宵かも
    垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども
    単衣きてこころほがらかになりにけり夏は必ず我れ死なざらむ
 
 長塚節といえば旅姿を想いおこすほど、節と自然とは深いかかわりを持つ。幸家庭が豊かであったせいもあろうが、歌に、小説に、紀行文にみる自然観は、つねに新しく愛情深い作者の眼で支えられている。心から自然を旅を愛していた長塚節であった。三十年(一八九七)の頃草津に療養に出かけたことを手はじめに、三十五年には常毛地方、三十六年には関西から中部地方にわたってかなり長期の旅を続け、三十八年(一九〇五)には房州へ、ついで甲州(山梨)から信州(長野)へと続けている。三十九年には鹿島と北茨城方面へ、四十一年には榛名へ、つづいて中部山岳地帯へと暇をみては旅をしている。九州大学へ入院してからも、体調のよい折をみて九州各地に足をのばしている。したがって、節ほど各地に歌碑を残している人も珍しい。これみな各地における旅の所産であろう。二〇数基に及ぶ歌碑のうちその数基をあげれば、
 
    赤井嶽とざせる雲の深谷に相呼ぶらしき山とりのこゑ     (福島県いわき市)
    うつそみの人のためにと菩提樹をここに植ゑけむ人の尊とさ  (下妻市)
    うれしくもわけこしものか遥々に松虫草のさきつゞく山    (長野県霧ケ峰)
    しろたへの滝浴衣掛けて干す樹々の桜は紅葉しにけり     (岐阜県養老町)
    しろがねのはり打つごとききり/\す幾夜は経なば涼しかるらむ(福岡九州大学)
    手を当てゝ鐘はたふとき冷たさに爪叩き聴くそのかそけきを  (福岡県太宰府市)
 
 なお町内に於ける歌碑は
 
    鬼怒川越夜不計天和当数水棹能遠久幾己衣亭秋堂个耳気利   (杉山)
    いまにして人はすべなしつゆ草のゆふさく花をもとむるがこと (杉山文化センター)
    すがすがしかしがわか葉に天ひゞき声ひびかせて鳴く蛙かも  (節生家門前)
 

Ⅶ-16図 旅姿の長塚節像
(中央公民館)

 第一首は清冽な秋の季節感の泌みとおる名作。昭和十八年(一九四三)の戦争中、増田寿太郎等によって建てられたもの。第二首は明治四十四年「病中雑詠」中の一首で節傷心の歌の一つ。昭和五十四年(一九七九)節生誕百年祭の記念として五十五年三月建立。第三首は明治四十一年(一九〇八)春五月「暮春の歌」十一首の中の一首。碑は昭和六十年八月渡辺義雄氏が建立し、はじめて節の生地国生の地に建てられたものとして記念すべきだろう。
 明治三十九年(一九〇六)七月には、八頁ものに改稿前後六回、六か月かかった苦心の作「炭焼の娘」を俳誌「ホトトギス」に発表し、翌四十年の十一月には「佐渡が島」を同誌に発表して文名を高め、これらが機縁となって小説『土』を朝日新聞に連載することになる。
 四十一年からは『芋掘り』をはじめ『開業医』『おふさ』『教師』『隣室の客』『太十と其犬』等の短篇小説を書き、四十三年(一九一〇)六月から長篇『土』を書くことになる。
 

Ⅶ-17図『土』の記念碑(執筆時の旧小学校入口,杉山)

 『土』は六月十三日から十一月十七日にわたって一五一回を以て完結した。当時朝日新聞の文芸欄を主宰していたのが夏目漱石であり、編集主幹をしていたのが池辺三山であった。『土』は、その文学的価値を高く評価していた漱石の推挙と、当時ジャーナリズムの世界で名編集長の名が高かった三山の庇護によって生れたといっていい。執筆依頼のため直接交渉に当ったのは、漱石門下の森田草平であったといわれている。
 『土』を単行本として発刊するにあたり、漱石は序文を寄せているが、解説がらみの長文の序として有名である。苦しい生活をしながら、土と共に生き、最低の生活の中にも真実をいのちとして生きる最下層の農民生活が、その精細な自然描写の中に、生々と叙写されている農民文学として、稀にみる力作と評価した漱石の、意中のこもる序文であった。
 『土』は映画化されたり劇化されたりして、大衆の眼にふれる機会も多かったせいか、長塚節といえば、『土』の作者、小説家として一方的にみられがちだが、歌人としても高い評価を得ており、その何れを重くみるかについては、それぞれ立場や見解によって相違があるにしても、ふたつながら、人にも自然にも深い愛情で包みこんで文学に生き、また土に生きた不世出の人として郷土のほこりとしなくてはなるまい。