常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第七章 教育と文化

第二節 戦前の文化―明治から太平洋戦争まで

吉原謙山(一八五八~一九三一)は通称謙蔵と称し、謙山または無我と号した。
 鴻野山の里正秋葉格非の三男として安政五年十月生れたが、明治十二年(一八七九)本石下の吉原八右衛門の嗣となった。
 父格非は、沓掛村木村明堂の門下で、漢詩をよくし、また剣道の達人であった。秋葉杢之助は謙山の長兄である。
 謙山は幼少の時から元気者で、いわゆる餓鬼大将であったといわれている。幼時は父格非の膝下で学を受け、やや長じて、当時流寓中の漢学者室町伯石(石岡在の人)や、馬場の秋葉竹堂(猗堂の養父)らに教えを受けた。
 謙山が吉原家の嗣となって二年後、長男の精一が生れると、修学の志やみ難く、養父鉄太郎の理解ある奨めもあって、ついに東京に遊学し、塩谷青山、ついで小永井小舟の門に入って勉学し、ついに其塾頭となった。京都大学教授であった織田高や、後鉄道大臣になった小川平吉らは、同門の後輩であったという。また、小野湖山や大沼枕山に詩を学び、榊原健吉や山岡鉄舟に剣を学んだのもこのころであった。
 幼時悪童といわれた謙山は、成人してもその無縫精悍さは変ることがなかったといわれ、その詩友であった岩井の間中雲帆は、評して「鬚髯漆墨服被素朴言語慷慨蓋奇男子也」といい、塩谷塾の青山は「謙山蓬髪垢面弊衣破履」と評したというから、服装、身づくろいなどにはいささかも頓着しない実質主義の人物であったらしい。しかし、晩年には経済面にも意を注ぐようになって、危く人手に渡らんとした家屋敷もわが手に収め、賜田(一丁田)を保って祖先の名を辱かしめなかったという。賜田とは、慶長の昔その祖が墾田の功により時の奉行より賜わった田をいう。
 

Ⅶ-15図 吉原謙山(左,吉原文雄氏提供)と書

 しかしまたその号の示す如く、無我無欲で、書の揮毫を依頼する者があっても潤筆料を受けず、酒や豆腐の贈物で満足していた。また大酒豪でもなかったので、酒などは多くの人に飲ませて興じていたという。
 晩年中風症にかかり治し難きを知ると次のような詩を作り辞世の詩にしたという。
 
    久在人間浴此栄  風流文筆博虚名
    我今逝矣何還歎  寂滅無為極楽城
 
 かくして、昭和六年(一九三一)七月五日七四歳で没した。
 謙山は詩文並書をよくし、原宿天満宮境内にある「菅公廟再建碑」は、勝海舟の篆額でかざり、謙山が撰文したものであり、小保川光明院内にある「飯島翁墓表」も謙山が撰文し、沼尻春斉が書いたものである。
 謙山の書は豪壮そのもので、石下橋畔に建つ「架橋記念碑」が如実にそれを物語る。
 鴻野山飯沼幼稚園北側に県道に面して建てられた「人傑地霊」碑は、謙山の先考(父)格非の事蹟碑で、謙山が撰文し書いたものである。後継漢詩文家としては山中衣川(新石下)、川田春渓(収納谷)両氏があった。