常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第七章 教育と文化

第一節 戦前の教育 ―明治から太平洋戦争まで

大正十年(一九二一)十二月二十日、石下小学校で計画されていた自由教育の研究会に対し、時の郡長倉持平十から、研究会取り止めの指令が伝達された。
当時石下小学校では、大正九年二九歳の若さで首席訓導(今の教頭)として迎えられた湯沢卯吉訓導を中心に、小林林助校長の後任として赴任して来た山田福三郎校長のもとで、革新の意気に燃え、従来の画一的教師中心の注入主義の教育態勢に抗し、革新の要ありの考えのもとに、新しい教育思潮の研究と実践を試みようとしていた。その手始めに、大正八年(一九一九)頃から実践段階にはいっていた千葉師範学校附属小学校の自由教育について、その真意をきこうということになり、大正十年十二月二十八日から三日間をこれにあてた。講師は千葉自由教育の提唱者である附属小学校主事の手塚岸衛と、千葉師範の教諭であり石下町出身の中島義一、それに石原孝蔵を加えた三名であった。中島義一は、湯沢訓導の茨城師範時代の同窓であり親友であった。それについては自校の教師ばかりでなく、近隣の学校にも呼びかけて聴講してもらおうとチラシを配布した。当時千葉の自由教育は、ジャーナリズムの世界でも反響をよんでいた教育主張であったので、チラシ発送後一週間の中に八〇名の申し込みがあり、開講までには三〇〇名を越えるであろうといわれた期待の研究会であった。
 これを知った時の知事守谷源次郎は「千葉の自由教育の宣伝まかりならぬ」と、内務部長から郡長の手をとおして、研究会差し止めの指令を出したわけである。学校としては、八方手をつくしてその真意を述べたが結果はだめだった。
 年はもいかない児童に「自由」を与えれば放縦に走るだけで危険この上もない、また個性を重んじ、個人の人格を重んずるなどというのは、欧米思想の直訳的導入で、日本の国家主義的志向からすれば、国体破壊にも連なる危険思想であるという思想が根底にある「自由嫌い」の守谷知事からすれば、あるいは当然の処置であったかも知れない。大正十年力石雄一郎知事からバトンタッチされたばかりの五月、守谷知事は郡市長会議を開き、その席で、すでに「自由教育」は、「本県に適用すべきではない」の見解を表明していたのである。
 しかし、こうした行政権力の教育研究に対する干渉圧迫はさまざまな波紋を起した。原敬内閣のもとでの地方教育費削減問題をきっかけに、十年三月下中弥三郎、為藤五郎、野口援太郎等によって作られた教育擁護同盟では、翌年に調査員を送り、守谷知事の非難声明を出している。
 しかし、そうした圧迫で、石下教育がしぼんでしまったわけではない。湯沢卯吉を中心に、倉持豊三郎、増田弥太郎、鈴木悟郎、粟野弥作、栗原真平といった若手教師は、学究と実践に精力を傾注した。学級または学校の自治会活動の充実に、芸術教育の実践に、極めて高度な進歩的体育指導に、あるいは青年教育に社会教育に、幅広く深く、熱情を傾けて相当の実績を示した。大正年代に高等小学校の児童が、走高跳に、幅跳に、三段跳に、そして槍投げに円盤投げに、砲丸投げに、棒高跳びさえ導入して技を競った学校が、どこの地にあったろうか。
 

Ⅶ-9図 当時の石下小学校

 自由教育研究会差し止め事件で、日本教育史の上に「石下」の名を留めたてんまつの概要は以上のようであるが、大正十二、三年ごろから、文部省中等教員免許状を取得した人々が、ボツボツ中等学校に転出しはじめ、若干の内部事情もあったが、大正十四年(一九二五)九月湯沢卯吉が水海道高等女学校に転出したことにより、表面的には、石下の新教育も幕を閉じたことになるが、底流には、当然当時の社会状勢の変化があり、むしろそれが決定的要因であったかも知れない。大正十三年ごろになると、権力自体が新教育弾圧を開始したのである。すなわち時の文相岡田良平は八月の地方長官会議で次のような訓辞をした。
 
  近年種々の名称の下に教育の新主義を鼓吹する者が輩出し、学校教員にして軽率に之に共鳴して実際に之
  を試みる者少なからず、其の甚しきに至りては往々に法令上の規定を無視するが如き者ありと聞く……軽
  信盲動徒に新を衒い奇を弄して彼の人の子を賊うのみならず、其の法令に背反するが如きに至りては厳に
  之を諫めざるべからず
 
 まさに自由教育禁止令であり、新思潮に基づく教育の排撃であった。治安維持法発動の前年である大正十三年のことであった。