常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第五章 戦後の石下地方

第一節 戦争の混乱

戦後の日本に進駐して間接支配を開始した連合国軍総司令部(GHQ)は、日本の進むべき道として民主化の方向を指示した。このため敗戦後の国内ではあらゆる分野に亙って、民主化運動が急速にすすめられた。昭和二十一年(一九四六)一月一日には天皇の神格化を否定する「人間宣言」が行なわれ、その三日後に総司令部は軍国主義者の公職追放、超国家主義団体の解散を指令した。すでに茨城県会も昭和二十年十一月二十一日の通常会で「玆に茨城県会は、二百万県民と共に敗戦の現実を直視し、刻苦励精、以て和平日本建設の大業に邁進し……現下の思想的混乱と大衆生活当面の不安を一掃し、大いに民憲の暢達に努め」る旨を宣言したように、民主化と平和国家の建設が国民の目標であった。
 民主化運動の一つにGHQ指令の公職追放があった。それは軍関係者ばかりでなく、戦前・戦争に政界や官界・教育界・経済界など、あらゆる分野で指導的立場に在った人びとが対象であった。政界では従来の町村長はほぼ公職追放の該当者であった。町村長の中には追放指定を受ける前に、自ら辞表を提出して辞職する者もあった。町村長の追放・辞職について、昭和二十一年十二月三日付「茨城新聞」では、混迷する町村の様子を次のように伝えている。
 
  百五十四人辞任
   追放令該当の町村首脳
  町村長の公職追放者と、戦時中の町村長中辞表を提出したものは、去月三十日現在で百四十名、助役は十
  四名で、残りは追放該当者六十三名、戦時中の町村長三十四名ということになっている。これまでの辞表
  提出者を郡別に見ると、
   東六、西七、那一五、久一九、多五、行一五、稲一六、新廿一、筑三、真三、結一六、猿十、北四で、
   助役は西三、久二、行四、新二、筑一、結一、北一となっている。廿日以降三十日までの辞職者は次の
   通りである。
  △結城郡 金沢忠男(上山川) 大久保登(中結城) 海老沢喜一(名崎) 斎藤善一郎(総上) 塚原賜(蚕飼)
       武笠一哉(玉村) 橋本善一郎(石下) 栗島治助(豊田) 角野映助(五箇) 秋葉秀助(大生)
       吉田嘉右衛門(飯沼) 鈴木吉太郎(水海道) <他郡省略>
 
 こうして戦時中に町村長や助役等の要職にあった者は公職の座を追われた。そして地方自治法施行後、公選による初代町村長が確定したのは昭和二十二年四月五日であった。当地方の町村長並びに町村議会議長は、次のとおりである(「石下町明治百年史年表」)。
 
  ○町村長
  石下町―関井仁  豊田村―塚本嘉一郎  玉村―飯島郁三  飯沼村―上林修平  岡田村―増田貞一郎
  ○町村議会議長
  石下町―山中直次郎  豊田村―吉川源作  玉村―渡辺操  飯沼村―青木多三郎  岡田村―増田庄吉
 
 公職追放は政界以外でも行なわれたことは前述のとおりで、各分野でさまざまな影響を及ぼした。各分野ではそれぞれの指導者が新しくなったことはいうまでもない。公職追放もさることながら人びとに戦後の民主化傾向を強烈に印象づけたのは、何といっても婦人に選挙権が与えられたことであろう。だが婦人参政権は趣旨徹底は容易ではなかった。そこで昭和二十一年には婦人に対する啓蒙運動が各地で行なわれた。同年二月十七日付「茨城新聞」には次のような記事がある。
 
   婦人有権者の啓蒙
    結城郡指導班を編成
  結城郡では婦人有権者の啓発運動を三月上旬より展開する。この運動は地方事務所総務課学事室が中心と
  なって啓発指導班を編成、各町村毎に婦人……常会を開催すると共に、母親学級を利用して投票用紙の書
  き方から、投票場における順序、心得、各党の主義、綱領等について懇切に指導し、極力棄権防止につと
  める。
 
 このような婦人に対する指導、運動が行なわれて、婦人の選挙権行使が実現したのである。
 

Ⅴ-2図 戦後間もない頃の石下駅前通り

 地方自治法の改正とともに、町村行政に大きな変化を及ぼしたものに、警察法(昭和二十二年)と教育委員会法(同二十三年)の制定がある。警察は従来内務省(同二十二年廃止)の管轄下にあったが、昭和二十三年三月施行の警察法では国家警察と自治体警察に二分された。そして市および人口五〇〇〇以上の町村には、自治体警察が置かれるようになったから、石下町には町警察署が新設されて、国家警察署と並んで二つの署、二人の署長が出現した。
 しかし自治体警察には大きな問題があった。役場職員以外にほぼそれと同数の署員をかかえることになったから、町にとっての経済的負担は大きかった。石下町署の予算規模を知る史料が残っていないので、その様子は不明であるが他の市や町の例では、町村財政に占める割合は大きく過重負担であった。この自治体警察に関して、昭和二十三年以降の「いはらき」新聞記事を紹介してみよう。
 まず町警察署がスタートしても、署の建物をどうするかが問題であった。これに関しては昭和二十三年二月二十三日付で、次のような記事がみられる。
 
  石下町では自治体警察署庁舎に、元東晃産業石下工場(三階建三百坪)を買受けることとなり、議員中から
  実行委員八名を挙げ、会社側と折衝を重ねている。庁舎は一階事務室、二階の一部と三階をアパート式に
  改築して署員の住居とし、住宅難をも一気に解決する計画。
 
 この計画は実現し、工場の建物は七五万円で買収となり、四月中旬開庁式を挙げることになった(三月二十日付記事)。町署の活動状況を知る史料は不明であるが、それなりの活動をしていたものと思われる。同二十五年十二月八日の記事に「石下町署の主食取締り」というものがあり、食管法違反で六名を検挙し、雑穀類三〇〇キロを押収した旨の報道がある。
 しかし町民は、国警と自治体警察に二分された警察行政に困惑することが多かった。その上前述のように町にとっての財政負担は容易でなかった。そこで昭和二十五、六年ごろには自治体警察の廃止論が強まってきた。他の地区でもそうであるように、石下町でも自治体警察の存廃に関しては、住民投票にかけられることとなった。同二十六年七月二十九日の新聞には
 
  石下町では二十七日の町会で、自治体警察存廃について審議、満場一致(出席二一名)住民投票と決定した
 
と報ぜられている。住民投票は八月三十日行なわれたが、その結果は圧倒的多数で廃止に決まった。その状況は次のとおりである(九月一日付記事)。
 
  石下町有権者数 三六四三
     投票数  二七四一(投票率七五・二%)
     廃止賛成 二四〇二
     〃 反対  三〇七
     無効     二七
 
 このような住民の意向は他の町村も同様で、戦後の民主化政策の一端であった自治体警察も、昭和二十六年九月末で廃止された。そこで国警県本部では従来の署以外に、新設地区署として、石岡、那珂湊、下妻、真壁、北条、多賀、磯浜、勝田、波崎、大津、岩井と石下の合計一二地区署を増置することに決定し、国にその要求を提出した。石下町では早速この誘致運動に乗り出したが、その情勢は次のとおりであった(同年九月十二日付記事)。
 
  石下地区署受入れ態勢整備
  自警を廃止した石下町は関井町長、斎藤県議、山中県公安委員等を陣頭に、一町七カ村(石下、豊田、蚕
  飼、岡田、玉、飯沼、大形、宗道)管轄の国警地区署誘致運動を起していたが、四日設置内定の通知があっ
  たので、十一日町会を開き庁舎の建築や敷地について協議、受入れ態勢を整えることになった。
  新庁舎は水海道地区署石下部長派出所を取り壊し、総工費三百九十万円で建坪百三十坪、二階建の明るい
  庁舎を新築する
 
 こうして自治体警察が廃止された代りに、石下には警察署が設置されて、従来の水海道署管轄下から独立することになった。
 戦後の民主的気運の高まりは戦前の住民生活とは、大いに異なるものがあった。石下町文化祭が開催されるようになったのも、その一例である。第一回の文化祭は昭和二十三年の秋に行なわれた。戦後の荒廃した社会環境の中で、文化祭は住民にとって娯楽でもあり結構賑ったのである。これは石下町以外の他の町村でも開催されたが、昭和二十六年石下町の文化祭の様子を、当時の「いはらき」新聞記事からみてみよう(十月十六日付)。
 
  石下で文化祭
  石下町主催、商工会、農協組合後援の文化祭は、来月十四日から向う三日間盛大に行なわれるが、各商店
  でも早くも店舗の装飾や、大売出しの準備にとりかかり、前景気を呼んでいる。第一、二会場の中、小学
  校は農器具の展示即売、家畜農産物品評会、各商店の商品展示即売、石下織の製造過程、茶華道、書道俳
  句、洋裁、学童の作品展示等、第三会場の公民館は東都一流の演芸、時局講演会となり、街は会期中チン
  ドン屋大会、仮装行列で賑う。
 
 昭和二十六年といえばまだ物資も不足し、町民の生活も安定したとはいえなかったが、例年秋に行なわれる町をあげての文化祭は、商店街の大売出しや、農器具類の展示即売など、住民に何らかの慰安となったわけである。昭和三十一年の文化祭に関する記事をみても、その内容にはほとんど変化はないが、新しいものとして学校・生徒作品展や写真展が加わったのと、柔剣道、舞踊、将棋大会など分野が拡大された。