常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第五章 戦後の石下地方

第一節 戦争の混乱

昭和二十年(一九四五)八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾し、長い戦争が終った。本土決戦、最後の勝利を信じていた国民は、聞きとりにくいラジオから流れる天皇の詔勅を聞いて、敗戦ということに大いに驚いた。いや驚くというより虚脱状態で、しばらくの間は気力を失ってしまった。やがて人びとは今まで戦争の行方を気にした以上に、終戦後の日本の社会や自分たちの今後の生活に、新しい心配を抱くのであった。
 敗戦による精神的混乱は各階層の人々に広まり、軍人の中には自ら生命を絶つ者もあったが、石下地方でも最も悲惨な出来事があった。飯沼村駐在の巡査久保田京が、八月十七日家族七人を道ずれに一家心中・自決するという事件が起った。幼い子供達を含めて一家の者が自殺するという事件は、周囲の人びとに大きなショックを与えた。七人のうち末の女児一人が助かったとはいうものの、余りに大きな敗戦の犠牲であったといえよう。
 人びとが初めて経験する敗戦のため途方に暮れているうちに、占領軍が続々と日本へ進駐してきた。主力は米軍で昭和二十年八月三十日マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。総司令部による日本管理が開始され、日本の各地に進駐軍が駐屯することとなった。
 茨城県には同年九月米軍第一騎兵師団が水戸、日立、土浦、古河に進駐し、旧日本軍の武装解除や残存戦力の破壊、治安の維持などの任に当った。進駐軍は翌年には水戸を除いて引きあげたが、以後六年間茨城軍政部が大きな権限をもって占領政策が遂行された。
 進駐軍の力は恐れられた。すでに敗戦が決まるや各役場等では、軍事関係の書類を焼却した。学校などでも教練等に使用した武具類をあわてて廃棄した。進駐軍の力は絶対であり、かつ些細なことにまで指令を出した。当時の新聞記事などに軍政部の告示がみられるが、中には道路歩行は必ず左側を通り(当時は左側通行)、道路の横断は左右を確認すること、道路を歩行する者は顔をあげて前方をよく注意することなどと、あたかも幼児に注意するようなことを告示した場合もある(昭和二十一年七月十三日「茨城新聞」)。また衛生環境保持には特に強い指示が出され、屋外での大小便・唾等の一切の禁止、伝染病発生を未然に防止するようなどの指令とともに、街路で通行人に殺虫剤をふりかけることなどを実施した。
 戦争が終ってからの国民生活にとって、窮乏したものの中でも深刻だったのが食糧である。政府は農民に食糧増産を呼びかけたが、戦争中働き手を徴発された農村では労働力が不足したばかりか、農具や肥料も欠乏状態でそう簡単には呼びかけに応じられなかった。政府は食糧増産体制を急ぐ一方、米穀の供出に関して強力な対策を講じた。県知事は各地ごとに供出委員を選任して、米穀の供出に関して割り当てを実施した。供出委員は大体町村長が任命されたが、結城郡では「農業会結城支部長橋本善一郎(石下)、結城町長小篠雄二郎、絹川村長関根直一郎、豊岡村長飯田儀之助、飯沼村長吉田嘉右衛門、宗道村長松村陸、西豊田村篤農家小祝勇」の七名が供出委員となった(昭和二十年十一月二十日付「茨城新聞」)。
 しかし供出問題は簡単には処理できなかったことは、次の新聞記事より察せられよう(昭和二十一年三月九日付「茨城新聞」)。
 
   六ケ村が最も不振 結城郡の現況
  結城郡の供米は一日現在で七五・二パーセントに達した。完了町村は結城、絹川、山川、上山川、宗道、
  石下、菅原、水海道の八ケ町村、未完了のうち極めて不振なのは安静の三〇パーセントを筆頭に、下結城
  三三パーセント、総上三六パーセント、名崎四〇パーセント、豊田四七パーセント、飯沼五八パーセント
  の六ケ村で、就中総上村の如きは一月末から二月下旬までに一俵も出荷なく、郡の指導班を慨嘆させてい
  る。右成績劣等の六ケ村に対し、地方事務所では指導陣を総動員して、集落別各戸別に膝詰懇談し指導に
  つとめたが、農民達の間にはドラム缶に詰たり、防空壕に隠匿した米を発見され乍らも、言を左右にして
  供出に応ずる色なく、誠意は全く認められないので、来る二十日までに自発的供出をせず、依然反応なき
  場合は断乎強権を発動することとなる、悪農の調査に着手した。
 
 結局この年四月末までかかって前年分の供米が、やっと九八パーセントにこぎつけた(五月七日付「茨城新聞」)のである。
 

Ⅴ-1図 親子地蔵(水生寺境内)

 食糧増産・供米完了策と相まって、原野の開墾入植の方策もすすめられた。それは敗戦によって職を失った人々や、外地からの引き揚げ者に対する、職業補導上からも有効な策であった。この集団帰農者は県内各地にみられたが、結城郡でも各町村に呼びかけて積極的に入植斡旋を行ない、昭和二十一年十一月には名崎村(現三和町)へ二五戸が入植したのを皮切りに同年十二月末には「酷寒向の開墾の汗 結城郡入植者百四十戸」と報ぜられた(「茨城新聞」)。石下地区にはこの年九戸の入植者があったが、結城郡下では石下以外に名崎三九戸、下結城二二戸、上山川一八戸、中結城一八戸、菅原一八戸、三妻四戸、結城三戸、山川三戸、岡田二戸という数で、集団帰農組合も設立された。入植者は名崎村の例では一戸当り最高六反歩、最低三反歩の土地を耕作し、とりあえず麦の作付けを行なった。しかし住宅と農具の不足は甚しく、県や町村からの援助を得て困難な作業に当った。
 戦後の混乱期に町民たちはあらゆる物資不足に対する耐乏生活を強いられ、苦しい毎日ではあったが、必ずしも暗いことばかりでなく、明るいニュースもあった。混乱した社会の中で子供達の教育に当る教師達に対し、金や野菜などを拠出して援助する、というようなことも行なわれた。昭和二十一年一月二十八日付「茨城新聞」では、この状況を次のように報じている。
 
   温かい援護の手
    結城郡町村現金や野菜の贈物
  結城郡下の各町村に「学校教員を援護せよ」という声が澎湃として起り、温い援護の手がさしのべられて
  いるが、蚕飼村では学務委員が蹶起して全村民に呼びかけ野菜三百円を贈り、石下町では町有志十一名が
  発起人となって後援会の募集を行って居り、既に金額は一万三千円に達した。水海道町では学校後援会か
  ら、教員一人当り五十七円を慰労金として贈呈、絹川校には校長宛匿名で二千円送られて来た。なおこの
  外真心こもる援護の金品が、各方面から続々寄せられているが、右につき地方事務所では語る。
   困っているのは独り学校教員ばかりではないのだ。同情に甘えることなく町村民の温い心に報いるため
   にも、より一層発奮して職責を全うしなければならない。
 
 また戦時下統制経済で後退した石下織が、戦後早くも復興して新しい分野を開拓し始めたことも、明るい出来事といえよう。それは「結城郡特産石下織は、指定製品の夜具地から、進駐軍将兵向け土産品の製織へと全面的に転換することとなった」として、今後銘仙で石下独特の味を生かした反物やハンカチ類を生産することになった旨報ぜられているが(昭和二十年十一月二十五日付「茨城新聞」)、終戦後わずか三か月にして、早くも再出発をはかった織物業界の動きは注目されよう。「博多、京人形の上をゆく土産品石下織は、全国機業界の魁けをなしたものである」と報じられた(同上)のは当然であった。