常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第四章 恐慌から戦争へ

第三節 あいつぐ水害

明治四十三年以来二四余年ぶりの大洪水が、昭和十年九月に県南、県西地方を襲った(以下昭和十年の水害については、茨城県『昭和十年茨城県水害誌』による)。この年は八月中旬以降悪天候が続き、水戸測候所の調査によると八月十四日から九月十七日までの日照時間は平年の二分の一であったという。そこへ九月二十三日から二十六日にかけて、九州から北東に進んだ台風と小笠原から北上した台風に挟撃された。しかも台風の進行速度が遅かったため、水源地にも多量の雨をもたらした。町域付近の九月二十日から二十五日までの雨量は、結城一六七ミリ、岩井二一三ミリ、下妻二一七ミリ、水海道一七五ミリである。
 この年の水害で最も被害の大きかったのは、県南地方で、利根川、小貝川の氾濫によるものである。
 小貝川は二十五日早期より増水をはじめているが、堤防の決潰は、上流の上野村(現明野町)地先および村田村(同)地先で六〇メートルにわたって決潰したのをはじめ、徐々に下流におよんだ。刻々と水勢を増し二十六日午後三時に川原代村(現竜ケ崎市)の水位は六・六一メートルにもなった。高須村地先では小貝川と利根川本流からの逆流もあり、防禦作業にもかかわらず三時五五分に高須橋下流の堤防五〇メートルが決潰し、以後二二一メートルに拡大した。北相馬郡内の二〇数か村が被害を受けた。一万二〇〇〇町歩の美田が大湖水のようになり、湛水は数十日に及んだ。
 町域で最も被害のひどかったのは飯沼川沿岸地帯である。九月二十六日、利根川に通じる菅生沼にある水防堤が、利根川の逆流によって決潰したため、それが飯沼川を逆流して、同川の随所で決潰させた。流域の水田千数百町歩が十数尺の冠水をみたといわれる。
 飯沼村の水稲の被害段別四〇三町歩(うち三六〇町歩が全滅)、被害金額一九万円に達する。岡田村でも四六町歩、七〇〇〇円余の被害をみた。
 昭和十三年の水害は昭和十年と比較にならないほど甚大であった(以下、茨城県『昭和十三年の茨城県水害誌』による)。この年、茨城県は四次にわたる水害に見舞われている。七月一日を中心とするもの、八月二十六日を中心とするもの、九月一日、十月二十一日の台風によるものなどである。七月の水害は長い霖雨のあと、六月二十八日から三十日まで豪雨がつづいて引き起こされ、県内の河水は軒並み氾濫した。水戸測候所の観測では、四日間で四九一ミリ(昭和十年には七日間で一六六ミリ)、一日最多降水量は六月二十九日の二七六ミリ(昭和十年九〇ミリ)といったすさまじさである。八月二十六日の水害は那珂川上流にのみ被害をもたらした局地的なものであった。九月の水害をもたらした台風は南鳥島に発生し、三浦半島に上陸し、横浜、府中、所沢、熊谷、桐生、新潟を通過し、県内よりもむしろ、各河川の水源地に大雨をもたらした。しかし、八月三十日から九月一日までに、結城の九七三ミリ、下妻一六二ミリ、水海道一三四ミリなど多量の雨量を記録した。
 

Ⅳ-6図 昭和13年7月の水害(孫兵衛新田付近)


Ⅳ-7図 水害対策本部の活動(昭和13年6月30日,鴻野山篠崎秋三郎氏提供)

 いずれの場合も、鬼怒川、小貝川を擁する町域では深刻な被害をもたらしたのであるが、両河川の両次の災害時の最高水位はⅣ-4表のとおりである。出水の場合は量水標の所在地の水位でみるかぎり、九月のほうが多かったとみられる。しかし被害の規模は、六月のほうがはるかに大きかった。
 
Ⅳ-4表 鬼怒川,小貝川最高水位
6月災害時9月災害時既往最大水位警戒
水位
平水
位 
最高
水位
月日最高
水位
月日水位年月日
 
小貝川
 
大園木
m 
5.80
 
7. 1
m 
4.78
 
9. 3
m 
5.39
 
昭 2. 8.16
 
4.50
 
0.70
川原代5.227. 15.939. 26.74 10. 9.263.690.52
鬼怒川鎌 庭3.466.305.259. 14.15 12. 9.123.08
中 妻4.096.306.309. 16.30大 3. 8.304.540.33
茨城県『昭和十三年の茨城県水害誌』375ページによる.


 
 鬼怒川についていえば、上流絹川村の増水は二・一メートルであったが、水海道では六月三十日夜半に四メートルを超え、堤防七〇メートルが決潰した。浸水家屋は三〇〇〇棟に達している。常総鉄道は六月二十九日夜から線路冠水により運転を中止したまま、七月四日朝まで不通の状態が続いた。鬼怒川付近を流れる飯沼川、仁連川、八間堀川など中小の河川も溢水したため交通は完全に杜絶した。
 他方、小貝川は六月二十九日夜から増水をはじめ、下妻では三十日に平常水位を七メートルも超え、堤防は冠水した。水海道では六月三十日夕刻警戒水位(四・七メートル)を超え、翌日夕刻には五・八メートルを記録した。
 町域の被害状況をみておこう、家屋の浸水は飯沼村五六七棟、豊田村三五二棟が多い。水稲の被害面積でみれば、飯沼村の四九八町歩は、昭和十年の被害時を上回り、石下町で三二〇町歩、豊田村では一九四町歩であった。飯沼村の被害のうち四二〇町歩は収穫皆無であり、被害金額も三五万余円に達した。石下町や豊田村では、被害面積のうち収穫皆無は少なく(石下町五〇町歩、豊田村一三町歩)、したがって被害金額も飯沼村の三分の一に満たない。九月の水害は、鬼怒川流域でひどかったが、規模は六月の時を下回っている。浸水家屋は石下町で一七〇戸余、飯沼村でも一五〇戸にとどまった。ただ稲の被害では、岡田村の収穫皆無面積が一一〇町歩に達した。東西を大河に挟まれた町域は、大雨の度にいくばくかの被害を免れることはできなかった。戦後四〇年も経た今日でさえ、堤防の決潰をみているのである。