常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第四章 恐慌から戦争へ

第三節 あいつぐ水害

明治四十三年に県域に大きな水害をもたらした低気圧は、琉球地方に発生したもので八月九日午前六時に那覇を通過し、同日午後二時に大島、同十時に九州沖、十日午前六時四国沖、午後十時に静岡、十一日午前六時に銚子にまで進んだ。猛烈な速度である。東日本は八月七日より雨が降り続き、七日から十一日までの雨量は、銚子一七一ミリ、前橋三一二ミリ、足尾三九四ミリ、日光三八七ミリ、宇都宮二二四ミリ、水戸一一四ミリであった。県内を流れる河川の水源地に大量の雨が降ったわけである。河川の増水は、低気圧の接近する以前の一〇日からすでにはじまっていた。しかも「昨夜来又暴風雨となりし為増水は非常急激の度を加へ附近町村の人民は極力防禦に従事したるも水勢の猛烈当るべからざるものあり」(常総新聞、明治四十三年八月十二日)という状況で、県下各地では、堤防の決潰、家屋の流失、浸水、人畜の被害が相次いだ。
 新聞は、「洪水被害の状態は時々刻々に変動し行きつゝあるを以て各河川、各町村の被害状況を一々系統的に報道することは到底不可能」であるとし、各地の通信、報告を雑然と掲げるほかないといっている。町域を流れる鬼怒川、小貝川も当然大きな被害を地域にもたらしている。
 鬼怒川は、早くも十一日午前三時には、水海道付近では一丈九尺(五メートル七〇センチ)の増水をみるが、小貝川では一丈六尺二寸(四メートル九〇センチ)にとどまっている。鬼怒川の増水は堰所で被害をもたらした。十一日午後四時、西豊田村片角堤防一〇〇間ほど総越しであったが、ついに四間くらい決潰し、防禦作業は材料が乏しく困難を極めた。また西豊田村大字粟野では堤防一〇〇間が総越しになったものの、決潰にはおよんでいない。
 かなり上流の上妻村(現下妻市)の大字駒地先から桐ケ瀬地先まで堤防二五〇間余は、鬼怒川氾濫により総越しとなり、尻手、渋井、桐ケ瀬、前河原などの大字では、耕地に浸水した。
 下流の坂手村や内守谷村では、十一日午後四時には二丈三尺(六メートル九〇センチ)も増水し、堤防は総越しとなり、防禦への手段もなくなり、放置された。浸水家屋は坂手で三〇、内守谷で一五、耕地の浸水は二〇〇町にもなった。宗道村新宗道の堤防は、この日午後一〇時に長さ三〇間にわたって崩壊しはじめた。
 十二日になると、鬼怒川減水のニュースが伝えられる(同前、八月十四日)。十二日午後三時には、その日二丈三尺もあった水位が一丈三尺になる。しかし、この減水は利根川に水がはけたためでなく、七か所も水防のために堤を切ったためといわれる。
 小貝川は鬼怒川に比べて、ニュースの量は少ない。出水が鬼怒川に比して一日遅れるといわれるが、雨量が多かったためか、増水の速度は鬼怒川と変らない。はるか上流の騰波ノ江村中新田では、十一日正午に水位一五尺(四メートル五〇センチ)に達し、耕地整理用の大排出口を破壊したため、耕地五〇町歩が冠水したという。町域の豊田村の状況を『常総新聞』が伝えている。
 
  小貝川沿岸豊田村大字本豊田地先は十二日午後八時頃長さ約三百間余の場所総水越になりたるよりも、同
  村消防夫及び石下町より応援の消防夫総勢五百余名にて堤塘の上高さ二尺以上土俵を積立て、防禦しつつ
  あり。若し同堤防にして決潰することあらんか下流水海道に至る数里の村落を悉く浸水すべき大切の場所
  なれば一同死力を尽し徹夜警戒中(同前)
 
 右の増水は翌日午前十時には一尺の減水をみている。むしろこの年の出水は下流においてひどかったらしく、川原代村地先に水戸の工兵隊一個中隊が、堤防修理に出動している。
 この年の水害は、鬼怒川、小貝川によるものだけでなく、中小の河川も氾濫している。「結城郡大生村八間堀川堤防は、一昨夜(十一日)午前三時頃平山新田に於て約十五間決潰したるが為め全村六分通りは浸水したるも人畜の死傷等はなし」(同前)という報告もみられる。