常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第四章 恐慌から戦争へ

第二節 窮乏の農村

豊田村の更生計画は、昭和十一年に樹立された。この時までに全国六六〇〇町村が計画樹立の指定町村になっている。したがってこの村の計画書は、旧石下町と比較すれば、格段に詳細になっている。とくに石下町の計画が実行方法に終始しているのに対し、ここでは、はじめに五項目の目標が掲げられている。
 ここで注目しておきたいことは、計画が、経済更生の計画ではなくて、「本村ノ更生計画ハ精神、経済ノ綜合的見地ヨリ更生豊田村ヲ建設セントスルモノ」と、ただの更生計画になっている。したがって、国民精神の涵養と郷土精神の発揚が先ず謳われ、政府における農業政策の無策を、農民の精神運動によって転嫁する意図が明確に反映されているのである。
 目標の第一にいう「収支の均衡」では、昭和十年度の農家一戸当りの赤字一三五円を、早くも昭和十三年には六六円の黒字にし、昭和十六年度には黒字を五七七円にまで伸ばそうとするものである。その方法は「農家ノ自覚ヲ促シ、収入増加及支出ノ合理化ヲ図」ることである。昭和十一年~十六年の年次計画において、農家一戸当りの収入は九〇〇円から一二一六円に増加し、支出は一〇五五円から八三九円に減少している。
 目標の第二は経営改善である。「本村ノ耕地ハ拡張ノ余地更ニ無ク」と、経営規模の拡大を耕地面積の増加に求めることは放棄されている。農家収入の九〇%は、米、麦、養蚕による収入であり、支出のうち自給分は五〇%に過ぎないことに着目し、剰余労働力の利用による収入の増加を図り、自給率を高めて支出の削減をすすめるとする。
 第三は生活の改善である。「本村ノ生活程度ハ高シト言ヒ得ザルモ」としながら、冗費の防止と予算生活によって支出の削減を図るという。
 第四に購買、販売、金融の改善として、「本村ノ農家経済所謂収入支出ハ共ニ其ノ七割ヲ貨幣経済ニヨル現況ナリ」とし、自給分を多くしても六割は貨幣経済に依存せねばならないので、産業組合を中心とした購買、販売をすべきであるという。
 最後に更生計画の第五の目標を社会教化に置くとする。理想郷建設のために、とりあえず精神の作興を計ることが重要であるとする。これには役場、学校、農会、産業組合を中心機関として、村民、婦人、青年、児童の訓練をし、更生の実を期すという。
 右の目的を達成すべく、経済更生実行案が描かれている。先ず実行機関の整理、拡充が図られる。機関の基礎に集落を置き、その組織化が説かれる。豊田村には一二の農業集落があり、一集落に一農家組合を設置し、これらが隣保共助の実行機関として期待されたのである。
 したがって従来全村的組織であった産業組合は、拡充強化が要請される。計画立案時組合員数一三七にすぎなかったものを、将来全農家の三二〇戸を加入させるという。他方全村で一八組合を数えた養蚕実行組合は、「組合員ノ連絡協調ニ甚ダ遺憾ノ点少ナカラズ」として、農家組合に解消されることが求められている。
 ここで実行機関とは別に、「移民計画」がみられることに注目したい。当時日本農業を担っていた過少農制を修正し、満州への移民分村計画によって中農を創設維持することが、国策の一つであった。豊田村では、移民計画の必要性が、つぎのように述べられている。
 
  本村ニ於ケル人口ハ毎年三十余人ノ自然増加ヲ見ルモ、耕地ノ狭隘ヨリ農耕ニ従事スルモノ殆ド無ク、他
  ニ職業ヲ求メ、向都離村ノ現況ニ鑑ミ、国策トシテ実行セル満洲移民ヲ極力勧奨シ、北満ノ沃野ニ第二ノ
  豊田村建設ヲ企図シ毎年過剰人口ノ消化ハ移民ニ振向ケ、十五年内ニ一百五十戸ヲ移植セントス
 
 このように、更生計画は、国策と密接にかかわるもので、農民の側からの運動の計画とはいい難かった。
 計画の実行案における、農業経営における諸方策は、旧石下町の計画と大きく変るところではない。ここでは、農作物の増産について作目ごとに詳細な数字による計画が掲げられているばかりか、実行の計画、指導の方法まで羅列されているが、現実性の付与されているとは必ずしもいえない。
 実行案の第四としては「教化部」がある。「農民魂」の養成のため、全村教育を目ざす壮大な計画が一五ページにわたり描かれている。豊田村の計画書は四六ページであるから、その三分の一は、精神作興のために費やされていることになる。
 豊田村の更生計画が樹てられた昭和十一年に、農村は、やっと農業恐慌の長いトンネルを抜けたのであるが、それは、優れた更生計画のおかげというよりは、日本経済の軍事化、軍事インフレによるものであることを忘れてはならない。