常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第四章 恐慌から戦争へ

第一節 軍国主義体制下の石下町域

深刻化する不況の中での政党政治の弱体化に反して、次第に軍部の台頭がいちじるしくなり、それとともに国内の政治・社会体制は軍国主義的傾向を強めていった。それは地方自治体をはじめ職場や各種団体、学校教育などのほか社会生活全般へと拡大されていった。当地方のこの時期の動向を示す十分な史料がないので、当時の「いはらき」新聞によりこのような状況の一端を紹介しよう。
 まず青少年の動きに関して昭和六年二月に結城郡下の女子青年団が結成され、郡下一五〇〇名の女子が組織化され男子青年団活動に伍して活動することとなった。運動の目的は「婦徳の涵養とその他情操教育」とされたが(二月二十日付)、やがてこの団体も次第に時局に適応する運営がはかられていった。たとえば昭和十年三月三日付の記事では、「石下女青総会」と題して、
 
  石下町外六ケ村女子青年団連合総会は二日午前十時より石下小学校で開催、新井部会長の開会の辞につい
  で木村郡団長の式辞、国歌合唱等があり、続いて非常時局に対する宣言決議、各団員の意見発表、袖山水
  海道高女校長の講話等があり、午後三時盛況裡に散会した
 
とあり、女子青年団も「非常時局の宣言」を決議するまでの状況となった。
 婦人の動きに関してはこの頃各地で国防婦人会の結成が相次いだ。日中戦争が勃発して戦況が長びくにつれ、「銃後の守り」のスローガンのもと、出征した男子のあとをうけついでいくために、婦人会活動は重要視された。石下町でも昭和十年七月頃に国防婦人会設立の気運が高まった。七月十三日付の記事では
 
  石下町では橋本町長、山中在郷軍人会長等の主唱で、国防思想の普及を図るため、全町婦人を打って一丸
  とした国防婦人会を創設することとなり、廿三日連隊区司令部より木村中佐をまねき、設立協議会を開く
 
とあり、町長・在郷軍人会長等を中心として、軍部協力のもとに国防婦人会設立がはかられた。そして同月二十日付には
 
  石下町国防婦人会発起人会は十九日小学校で開催、全町にわたり一千余名の会員を募集し、来月初旬発会
  式を挙ぐることに決定した
 
と報ぜられ、発会式に向けて発起人会が動き出した様子がわかる。このような動きの結果石下町国防婦人会は、一〇〇四名の会員を組織することに成功し、七月三十日に発会式を挙げることとなったのである。発会式の様子・役員などについては、次のように報ぜられている(同年八月一日付)。
 
  石下町の中堅婦人一千余名を網羅し組織された石下国防婦人会では、三十日午後一時より木綿服に白襷姿
  甲斐々々しい全会員出席の上小学校で発会式を挙行、会則を決議したのち、本部金子陸軍少将、水戸連隊
  区司令部木村中佐等の激励の辞があり、四時散会した。役員は左の如く決定
   会長新井やす子 副会長新井あさ子 野村きく子 橋本伊知子
 
 軍国主義的傾向は各方面に及んだが、時局に適する各団体の動きも活発化していった。その一つに皇風会と称するものがあったが、飯沼村孫兵衛新田地区では昭和七年末会員八〇余名でこの会が発足した。顧問秋葉孫兵衛、支部長中村忠三郎、副支部長伊藤清蔵、幹事木村亀太郎、渡辺高次郎、評議員中村喜三郎、同慶三郎、秋葉菊次郎、小川武之丞、中村定七、菊池武、遠藤作一、木村好太郎らが役員に就任し、会の実行条目として(一)建国の精神を体し国体の精華を発揚すること、(二)勤倹力行資力の増進に努むること、(三)冗費を節約し応分の貯蓄を実行すること、(四)社会生活上の弊風矯正に努めること、の四点が定められた。
 飯沼村のこのような動きはやがて村を模範村として指定される結果をもたらした。昭和十五年十一月十九日付の新聞は、次のように報じている。
 
    模範村の折紙付いた飯沼村民の喜び
  ……時代の推進力として全国的に国民教化運動を展開している「中央教化団体連合会」では、全国で百ケ
  村の模範村を選び、「聖旨奉体教化村」を指定したが、本県では石下在飯沼村が唯一ケ村誉の聖旨奉体教
  化村に選ばれ……大水害によるかつての貧弱村から名実共に県下一の模範村に躍進、この光栄に浴した村
  民は聖恩の有難さに感泣し、一層の努力を誓っている……
 
 指定をうけた村では早速村役場前に「聖旨奉体教化村飯沼村」の立看板を出して、「吉田村長以下全村民協力一致して、更に一層の飯沼村の躍進を期し」(昭和十五年十二月一日付)たが、村へは近郷近村より多くの見学者が訪れた。同十六年三月二十二日に県振興課の課長が北相馬・真壁・猿島・筑波四郡の常会指導者四三名を引率して視察したのはその一例である。
 軍国主義化の傾向は学校教育の場にも強まっていった。すでに中学校以上の学校では教練という名で軍事訓練が始まっていたが、そのような風潮は国民学校と改称された小学校にも次第に広まっていた。昭和十六年四月二十八日付で報じられている石下町国民学校の身心鍛錬ぶりもその一例である。
 
  石下町国民学校では、時局下小国民の心身鍛錬に武道を奨励、昨年から上郷農蚕学校剣道教師西山四段錬
  士の指導で、高学年児童が剣道稽古を行って来たが、その熱心な稽古振りに感激した山中町長は、町から
  一千円を支出して道具廿五人分一式を購入することになり、学校当局を喜ばせている……
 
 政界も戦時色が濃くなるにつれ昭和十五年(一九四〇)には全政党が解党し、同年十月には大政翼賛会が発足し、国民的政治力を結集し強力な政治体制の確立を目ざした。内閣総理大臣が総裁となり、都道府県知事が支部長に就任する官制組織で、「臣道実践」を目的として町内会・隣組(常会)を指導下におさめていった。
 石下町でこの翼賛会への動きが顕著になるのは、昭和十五年九月ごろのことであった。九月二十八日付の新聞記事には次のように報ぜられている。
 
  石下翼賛連盟革新青壮年層を糾合、結成石下町革新青壮年会は石下織物工業組合長小林俊一氏等を中心に
  「石下翼賛連盟」を結成、会長に農倉専務理事関井仁氏を推し中央の大政翼賛運動に呼応、各自職分奉公
  を期すことになった……何れも町重要の職場に在る中堅人物を中心とする運動だけに、早くも町民から多
  大の期待を持たれている
 
 そして石下町と岡田・飯沼両村を含めた地域の「石下翼賛連盟」が成立するのは、同年十月十日のことであった。やがて同十八年には結城郡翼賛壮年団なども結成され、広範囲な活動がすすめられていった。同年九月には四〇名の団員を県北の炭礦地区へ送り出すが、その壮途に際して「弾は来ないが第一線だ、骨が折れよが肉こげようが、うんと掘り出せ黒ダイヤ」というような歌を作って激励したのである。
 

Ⅳ-1図 青年学校生徒の実習風景(昭和17年頃,中山勇太郎氏提供)