常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第三章 大正期の石下地方

第四節 村の自治組織と家族・親族

ムラにおいてみられるつきあいは、人々が安定した生活を送っていくために、個々の家が何らかのかたちで結びついていく必要性から生み出されたものである。そしてムラにはつきあいを維持存続させるため、個々の家がとるべき行動・態度が超世代的に継承され、一つの秩序として存在している。こうしたムラにおけるつきあいは家々がとるべき行動規範によって、ムラづとめとムラづきあいに二分される。
 まずムラづとめとは、ムラの構成員として生活する以上は必ず務めなければならないものであり、大正当時の石下においては、次のようなものがみられた。
 
道普請
 ムラの各戸から必ず一人は参加しなければならない出役であった。小保川では春の彼岸や冬の農閑期に行なわれ、各坪ごとに受け持ち区域が決まっていた。作業は区長の指揮によって進められ、普請に参加しなかった家では出不足料をムラに納めなければならなかった。
 
用水(堀)さらい
 また小保川では、春、田仕事が始まる前に排水、用水路の清掃と水路脇の除草を行なってきた。各戸一人ずつの参加が原則で、各坪ごとに分担した地域で作業し、農地の方は農家組合で行なった。
 
エダオロシ
 蔵持新田では、三年に一度の割合で道沿いの木々の枝を払った。崎房南坪ではヨサハライといって畑仕事が暇になった時に行なわれた。
 
行屋のソダヅクリ
 蔵持では毎年一月十五日にムラ総出で等岳院の山へ行き、行屋で使う一年分の薪を作った。行屋が公民館に代ってからはプロパンガスが使用されるようになり、ソダヅクリを行なう必要もなくなった。
 
芝焼き
 畦道の草に火をつけて焼くことをいい、小保川では用水ざらいの時に行なわれる。蔵持新田では二月七~十四日の間に行なわれ、作業が済むと農家組合長の家に寄って決算報告が催された。
 
 こうしたムラづとめは、個々の家のムラにおける義務であるのに対し、ムラづきあいとは家々の間での交際・協力など義理としてあらわれる。
 田植えのイイトリ、屋根がえ、井戸さらいなどの生産・生活互助組織の一員としての責任を果すことはもちろん、婚礼、葬儀、年忌、病気等の吉凶に際して訪問挨拶し、決められた贈答をすることも重要なムラづきあいの一つとなっている。次にこれらの様子をみていく。
 
イイトリ
 ヨイドリ、イエトリともいわれる。これは田植えや稲刈りなどの繁忙期に、シンセキ(親戚)・シンルイ(親類)、イチマキ(男系出自集団)などの家々と、労働協力関係を結ぶといった生産面での、互助組織のことである。
 鬼怒川の東側、水田地帯の小保川における田植えは六月二十日過ぎから始まり、七月一日ないし二日のムラサナブリまでには終えた。この期間は各家とも近隣やムラシンセキと協力し、互いの田植えの遅速をはかり手伝い合った。そして手伝いを受けた家では、テマガエシ(手間返し)として、男の手を借りれば男を、女の手であれば女を、一日頼めば一日、二日頼めば二日といった具合に等量の労働力を交換した。そして田植え時期にテマガエシが済まなければ、秋の収穫時に籾すりなどを手伝いに行くこともあった。
 

Ⅲ-11図 昭和10年頃の草刈り娘(中山勇太郎氏提供)

 またイイトリだけで田仕事が間に合わない場合には、鬼怒川の西側から手伝い人を雇うこともあった。畑作中心地帯の川西の地区では、田植えの時期が一か月以上も早いため、水田地帯の川東で田植えが盛んになる頃には、手間取りに行く者も多く、中には住込みで一週間も働く者があった。
 田植えが済むと、各家ではイエサナブリが行なわれた。主人が神棚に数把の苗を皿にのせて供え、田植えが無事済んだことを報告した後、手伝ってくれた人を呼んで酒・肴の御膳とうどん、あんころ餅などを振る舞った。また雇人には賃金と土産物などを渡した。
 
屋根がえ
 屋根がえは農作業の暇な時期を見計らって行なわれ、組内やムラシンセキなどを頼んで屋根職人の指示のもと作業を進めていった。館方においてはジハシリとして組内の各戸から男一名が手伝いに出た。屋根を葺きかえるための藁や茅は自分の家で用意しておき、手伝いに来る者は藁縄を持って来た。普通屋根がえは部分的に行なわれ、だいたい一週間はかかった。作業の期間は食事を出すことはもちろん、遠くから手伝いに来ている人があれば仕事の後に風呂を沸かして入れた。そして作業が済んだ日には酒が振る舞われ、屋根職人や手伝い人をもてなした。
 また屋根がえはお互い様だからとして、スケ(手伝い)に来た者に対する手間賃のやりとりは一切行なわれなかった。
 
井戸さらい
 崎房南坪では井戸の水が濁ってくると井戸の中に人が入り、底をさらって掃除した。この時には近隣の人々が手伝いに寄って作業が進められた。蔵持では二、三月頃、蔵持新田では真夏の暑い盛りに行なわれた。
 
木さらい
 崎房南坪では晩秋から初冬にかけて、山を持っている人々が集まってカマドに使う薪を取りに行った。これをイチバンサライといって質の良い薪を自分達の必要な量だけ取って来た。山を持っていない人々は、その後ニバンサライ、サンバンサライといって薪を取らせてもらった。
 
婚礼におけるつきあい
 嫁入りに関する手伝いとして、まずトモとしてガモツといわれる簞笥や長持、布団などの嫁入り道具を運ぶ役があり、近隣や組内の人々によって祝言の前に行なわれた。そしてこの品々は祝言の席で一同に披露された。
 婚礼当日の手伝いとしては、朝早くから組内や親戚の女衆が来て、料理の煮炊きや酒の支度など膳の準備から後片付けまで一切を行なった。そして祝言の翌日にはヨメミセ(嫁見せ)といって、蔵持では嫁はホンタクの主婦に連れられ、ウチ(ジ)ガミと鎮守香取神社に参り米を供えた。そして帰りにはムラの各戸を挨拶に回って歩き「進上」の二字と嫁の名を記した熨斗に水引を掛けた半紙一帖をおいてきた。この際、嫁は島田に結った髪を崩さず正装して、手には杖(取っ手の部分に半紙を巻き、その上に赤い水引を付けた四尺位の篠竹)を持ち、下駄履きといった恰好で顔見せに歩いた。ヨメミセの翌日にはムラの人々が挨拶返しに来るので、有り合わせのものを肴に酒を出し簡単なもてなしをした。家によってはヨメミセをせずに、ウチヒロメとして祝言の時に手伝いに来てくれた近所の人々(女衆が中心)を呼んで御馳走をする家もあったが、この場合には皆が座に付いたところで、姑が嫁を紹介し、今後懇意につきあってくれるよう一同に頼んだ。
 以上婚礼とは、家と家の新たなる生活連関を作り出すものであり、その関係は嫁婿両家のつきあいだけにとどまらず、親戚・近隣をも包み込んでいる。そこで婚礼における家々の互助関係を整理してみると、祝言への参加、婚礼の過程における儀礼面での様々な役割(ゲンザンの際の付き添い、祝言の席での挨拶、ショウバン、ヨメミセの時のホンタクの役割など)は、ムラシンセキ・イチマキといった姻族ないしは本分家関係のように、系譜的なつながりを持つ家々が重要な役割を担った。それに対して組内・隣家といった近隣の家々は、嫁入り道具の運搬や祝言当日の料理の準備など、裏方一切を引き受ける生活互助組織となっていた。
 
葬儀にみられるつきあい
 葬儀におけるつきあいは、家において儀礼が執行される限り必要不可欠な存在である。
 ここでは葬送儀礼の歴史的な変遷をも加味しながら、儀礼の過程においてみられるつきあいの機能を明らかにしていく。
 今でこそ何の連絡でも、電話が普及してからはいとも簡単に済むようになったが、それ以前の死亡通知は組合の人を立てて行なう、大変な仕事であった。
 死者が出ると、まず村内の親戚・本分家に知らせる。村外の親戚・縁者に対する連絡はソウシキノサタ(葬式の沙汰)、ソウシキノツカイ(葬式の使い)、ジャンボツカイといわれ、組合の者が二人一組となって方々に知らせに行った。自転車が普及するまでは、使いの者は知らせを書いた紙を持って草鞋履きで出掛けた。そして使いを受けた側では、有り合わせのものを肴として酒を出し、駄賃としてお金や煙草など荷物にならないものを渡した。また死の通知の前に病人が危篤状態になった時には、臨終に立ち会えるようにキュウビョウノサタ(急病の沙汰)、キュウビョウノツカイ(急病の使い)を出すこともあった。
 葬儀の当日の諸事一切は、近隣集団としての組内の互助によって行なわれる。小保川中坪では、組内の各戸から男女二名が手伝いに来る。崎房南坪でも同じく組内で行なわれるが、家によって手伝いに来る人数が異なり、二人頼まれた家では米五合、一人の場合は三合を持って行った。また蔵持では冠婚葬祭の互助組織であるクミアイの家々から二人ずつ手伝いに来る。また蔵持新田のような戸数の少ないムラでは、全戸から男女二名が手伝いに出た。
 葬儀の諸役をみると、蔵持地区では本分家が喪家に集まり、行屋に保管されるムラの帳簿をもとに葬儀におけるロクドウ(六通―棺担ぎと埋葬を行なう役)四名、テラドモ(寺供―僧侶を寺に迎える役)一名、帳場二名など諸役を決める。役は組内から振り分けていかれるが、若い夫婦ないしは妊婦がいるような家には役を付けなかった。また小保川東坪においては、例えば一班で葬式が出た場合には二組の者がロクドウを行なうといったように、一・二組、三・四組が単位となって諸役が決められた。
 来客に対する料理の準備も組内の者によって進められていく。葬式の時にはガンモドキの煮付け、コンニャクや切り身、魚の煮物が付きもので女衆のみならず男衆も料理を手伝った。とにかく普段と違って作る量が多いので、家のダイドコだけでは間に合わず、庭に仮設のカマドを作った。またどこの地区にも、こうした人呼びの時に使うようにと塗りの膳椀が区の共有物として、小屋ないしは村内の寺に保管されていた。
 また葬式の当日は朝から、出棺や野辺送りの時に使われる竹の門、花籠、天蓋などが手伝いの人々によって作られた。
 野辺送りに至っては、焼香に来てくれた者には順次膳が出され、ナカヤド(中宿―隣の家があてられる)で休憩してもらう。午後二時頃には出棺となり、棺は身内の者によって縁側から四つ割りの竹の門をくぐらせて庭へ運び出される。その後死者の霊が家に戻って来ないようにと、親戚の女性が目の荒い草刈り籠をザシキに転がして庭に掃き出す。小保川中坪などでは籠も竹の門をくぐらせる。庭では草鞋履きのロクドウ達が棺を担ぎ、逆さに置かれた臼の周りを三回左にまわった。この時に花籠に入れられた小銭が撒かれる。棺は臼の上に置かれ、僧侶の読経の後に墓場に運ばれ埋葬された。
 野辺送りの際には身内の者が飾りを持って葬列を作った。
 
キチョウバライ
 葬儀の片付けが済むと、手伝いをしてくれた人々をもてなす。中でもロクドウの役をした人は上座におかれる。組合の人々は初七日にも呼ばれた。
 以上のように葬儀における組を単位とした互助組織は、婚礼と同様にその役割は最初から最後まで裏方に撒している。それに対して親戚・本分家はここでも儀礼面においてその役割があらわれる。しかし葬儀の執行に関しては組が中心となり進められていく。このほか、葬儀における香典のやりとりも重要な儀礼の一つである。
 親子や親戚など縁の濃い家ほど香典の額は大きく、香典以外にも物の贈答が行なわれる。たとえば親が亡くなった場合、子は米一駄(二俵)と五色の幟もしくは白黒の布を一反、ムラシンセキもホカイ(行器)に米五升もしくはそれ相当の金を入れて持って来る(蔵持地区)。また親子、親戚以外の家からの贈答は日頃のつきあいに応じて様々である。
 また香典とは別に、通夜の時には見舞いとして赤い祝儀袋にお金を入れて持って行く。蔵持新田では、見舞いとして砂糖を、香典としては米一升と熨斗紙に一〇〇〇円を包んで持って行く。
 この他、日常の挨拶、年始、盆礼、観音講の宿を引き受けることなども、個々の家がムラにおいて生活していく上での、大事なムラづきあいである。