常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第三章 大正期の石下地方

第三節 好況と不況

茨城県農会が大正末に調査した「成功農家の事例集」(以下茨城県農会『成功農家の事例集』による)がある。農会のいう成功農家とは、「その創め困苦窮乏殆んど無産に等しい状態から発奮して、今や地方に於ける中産以上の立派な農家に成功したものを指す」といわれ、県内一八農家の事例が挙げられている。調査にさいしての人選、基礎調査は各郡市農会に委嘱され、県農会が精細な実地調査を行なったとされている。
 この調査事例の中に、結城郡豊田村本豊田塚本貞吉がある。出生の明治四年(一八七二)から大正十五年(一九二六)までの彼の一代記が、八ページにわたって、記されている。九歳で父を失うが、当時は田畑二町を経営する村内の上層農家であった。二年後に祖父と曾祖父を失い、相次いで働き手を失った母は、五人の子を養うことができずに、田畑の売り食いをはじめた。貞吉が一三歳のとき母も他界するが、この時残された財産は、家屋敷のほかに田畑数反歩にすぎなかったといわれるから、僅々数年間で、田畑二町の村内上層農家は、貧農にまで転落したことになる。
 

Ⅲ-5図 塚本貞吉(本豊田塚本敏夫氏提供)

 貞吉家では、隣村に嫁いだ母の妹夫婦を後見人にして、家運の再興を図る。貞吉は二〇歳で結婚するが、当初は家計を後見人に管理されていたため、小遣銭に窮し、駄賃付けをして小遣にしたこともあった。二三歳で叔母夫婦の手を離れて独立するが、この時、後見人へ謝礼として田畑三反七畝を分与している。
 以後の貞吉は「夫婦仲睦しく好く農事に精励し」、その働きぶりは、「丹精一点張」りであり、「田畑に其の姿を現はすに、村人の誰よりも恐らく遅れたことはなかった」と書かれている。
 貞吉の農業経営の優れた点として、調査はつぎのように記している。
 
  農業のうちでも野菜作りは仲々難かしいから、此の辺では野菜作りの上手な人は必ず精農家であると言ふ
  て居るが氏はこの野菜作りの名人である。田畑の仕事に努力する一面、氏は又家事経済にも注意を怠らな
  かった。年々収入支出を一々記帳しては翌年の生活の改善を計った。
 
 このような丹精の結果、明治二十八年(一八九五)、独立した翌年には生産物収納用の納屋(四〇〇円)を建設し、三十二年に倉庫の修繕をし、生産基盤の充実を図っている。さらに三十四年には住居の大増築に着手し、生活基盤の拡充にも意を注いだ。土地所有についてみるならば、土地の購入によって経営規模を拡大している。明治三十七年には畑一反二畝。四十年に水田七畝余、翌年に畑八畝を購入し、調査時点には水田九反三畝余、畑一町一反余を耕作する村内中堅農家にまで、規模を拡大している。
 一方妻の内助の功が家運再興に与って力のあったことも言を俟たないといわれている。「何不自由のない今日ですら、賃機を織って年に百二三十円の収入」を得ていると書かれている。明治後期から隆盛を誇った石下つむぎ織の賃仕事により、いくばくかの収入を得ていたのであろう。
 大正末における塚本貞吉家の土地所有は、水田九反三畝、畑一町一反、宅地一反三畝である。皆無の家産をここまで建て直したのは、徹底した勤労主義によるものである。しかも投機性の強い副業に一切手を染めなかったところに塚本の成功の秘訣があった。