常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第三章 大正期の石下地方

第三節 好況と不況

大正期になってますます昻揚された農家の副業熱は、農事指導の諸機関においても無視できなかったばかりか、疲弊した農村の唯一の救済策として奨励されもした。茨城県農会が行なった農家副業の実態調査の報告書『茨城県の農家副業』は、今日利用できる優れた報告書である。報告書は、県下六三の市町村で行なわれていた副業についての詳細な現地調査に基づくもので、調査地の位置、風土、副業の歴史的展開にはじまり、収支計算、問題点および将来性まで調査はおよんでいる。石下町域に関係ある町村の事例として、玉村の白菜、岡田村の竹林、石下地方の織物がみられる。
 玉村の結球白菜の栽培の歴史は浅く、明治三十三年(一九〇〇)村内の種苗商中山某が東京から種子を得て試作したのがはじまりといわれる。明治四十三年に郡農会から種子の無償交付を受けてから栽培農家は増加した。当村の肥沃な砂質壌土と温和な気候が栽培に適していたようで、大正元年(一九一二)、東京農会主催一府五県連合園芸共進会および酒井伯爵邸の蔬菜品評会で、それぞれ一等賞を得てから栽培する者は急増した。大正四年に農家戸数三〇〇戸中二五〇戸余が作付けている。
 栽培戸数の増加といっても、栽培の目的は、自家消費にあったため、全生産額一万二〇〇〇貫の二割ほどが、下妻、石下あたりに販売されるに過ぎず、栽培規模も最大五畝、最少で一畝内外であった。価格についても一定せず、貫当り五銭から八銭位である。
 白菜栽培については、高度な技術は必要とされない。病害虫防除に意を注ぎ(病害では腐敗病が最も恐るべきものであった)、労力を多投すれば、応分の収穫は得られた。ただし白菜は連作を忌むため、両三年は休栽する必要があった。
 反当り収支計算をみよう。小作料、種子代、農具損料に六円二五銭、肥料代に一三円九九銭、労賃(五六人手間)一九円六〇銭で支出は三九円八四銭になる。収入は一一〇〇貫、一貫平均五銭として五五円が見込まれる。差引の利益は一五円二六銭、これに労賃分一九円六〇銭を加え、一日の労賃は、六二銭と計算されている。
 白菜の栽培期間は、七月下旬から十一月上旬まで、十二月下旬に収穫は終るのであるが、この間に五六人手間を必要としては、労力の支出は決して少ないとはいえない。調査報告は、玉村の栽培規模が小さいから、他の作目の作業に影響することはないし、当村では過剰労働力が存在しているはずであるといい、栽培のための資金も僅かなので、利益は得られるともいう。白菜栽培の将来について、調査報告は次のように結んでいる。
 
  品質彼れか如く優良にして自家用の供給既に足り、販売用の生産漸く起るの時に当り常総鉄道開通せられ、
  水陸交通の利を占めたるを以て東京方面及遠方輸出の便を得たれば需要の増加期して待つべきなり。此時
  に当り優良品を撰別して共同販売等の途を開かば充分発達の見込あり。
 
 岡田村における竹栽培の来歴は極めて古く、数百年も遡るという。もちろん販売を目的としたものではなく、防風用に屋敷回りに植栽されたものである。ただいつの頃からか、東京市場で声価を上げ、「絹川竹」としてもてはやされた。
 「当地方にて長十三間太さ之に叶う良竹を出し」たと調査時の大正四年にも故老の口碑として伝えられていた。しかし維新後の濫伐がたたって、大正期に当村の竹林は荒廃しきっていたと記されている(県農会の調査員も、次のように報告している。「本村の竹林は長塚氏経営に係る竹林の外多く荒廃に帰し見るへきものなし本項は概ね長塚氏経営竹林に付き調査の概要を記す」)。
 ここで竹の商品価値に着目し、竹林経営に乗り出したのが長塚節であった。明治三十八年旅行の途次に竹林経営で成功した岐阜の坪井伊助翁に会ってから経営の意を固め、明治四十二年春から実行に移したようである。後日、経営当初の頃をふり返り、「私は以前桑を四町歩から持つてゐましたが、今は一本もなく抜き捨ててしまひました。勿論母が大反対をしましたけれど、だがそこには竹が毎に林相を形つて来て居ます」(大正三年五月二十六日門間春雄宛書簡、『長塚節全集』第六巻)と書いている。
 節の竹林経営は順調に推移したもののようで、二年後の明治四十四年にはかなり自信にあふれた書状を認めている。
 
  小生は両三年来竹の栽培者として本県下の先覚者を気取申候。戯談には無之候。御笑い被下間敷、唯今筍
  の成長中嬉しく頼もしく候。五、六年経てば小生も此の竹にて飯くふだけの方法相立ち可申と楽み居候
                          (明治四十四年七月五日平福百穗宛書簡、同前)。
 
 しかも節の竹林経営に対する意気込みは、並々ならぬものがあったとみてよく、上記の引用から間もない頃には、「竹は小生死活の分岐点に立つて栽培しつつある処」(明治四十四年七月十一日岡三郎宛書簡、『長塚節全集』第五巻)とも書いている。そして、大正二年には竹林の売渡代金が入るようになったのか、「私の竹林もやうやく緒につき来り申候。今年にて六年目、しかも三町五反を算するに、今年まで家の負担僅に二百五十円を越え不申候」(大正二年六月一日渡辺源五郎宛書簡、同前)と楽観的な文もみられる。
 しかしこの翌年、死を間近にひかえた時期の書簡には、「近来苦竹へ花がさいて枯死するものもぼつぼつ出てくるのを知りました。私の竹林栽培も天恵が乏しいのぢやないかと思ひます。然しそんなことはまだわかりはしません」(大正三年六月四日門間春雄宛書簡、『長塚節全集』第六巻)と認められている。ただ翌年節の没後行なわれた茨城県農会の調査には、竹の枯死については、まったく言及されていないことからすれば、天恵に乏しいというのは、節の杞憂にすぎなかったのかもしれない。
 竹林経営の収支は、右の報告で、「長塚氏経営に係るものを基本として」計算されている。一〇年間の反当支出一八九円八〇銭、収入二〇〇円、一年の純益は一円二銭にすぎない。ただ「十年以後の収入は年々約五十円を得可く其利潤極めて莫大となる」といわれる。節のように七町歩の経営であれば、年収三五〇〇円にもなり、確実に「飯食ふだけの方法」にはなったはずである。
 石下地方の織物について、農会の調査は、同地方の織物業一般を対象にしている。
 調査報告の述べるところでは、茨城県の木綿織物は、県内到る所で生産され、自給分を上回ったものは県外に移出されたこともあり、昔は有名であった。しかし維新以後棉作の衰退と染料に用いる藍作の減少により、その産額は減少し、さらに、自給用の木綿織が廃れたため、「其の生産各所殆と地を払ふに至れり」という状態であった。報告は続けて「然り而して、現今なほ其の残塁を守りて奮闘し、衰運輓回の策に就き幾多の工夫と努力とを重ね来りし地は結城郡石下町を中心とせる地方数里間の農村に在り」と、斜陽産業である木綿織物の伝統の灯を守っているのは、石下町周辺だけになってしまったと述べている。
 純然たる農家副業によって生産されるのは、総生産額の三割とされる。この場合には「仕込み」を受けて賃織りの形をとるのが一般的であった。「仕込み」というのは、売買業者あるいは専業の機業家から原料の供給をうけることをいう。報告は経営の規模を三等に区分している。大規模経営は年間二〇〇〇反を生産する。高機一〇台を置き、労働力は家族五人、雇人=工女一〇人を擁し、終年作業を行なう。中位の経営は六〇〇反を生産し、家族三人、雇人三人で行なうが、仕事は田植期と養蚕の繁忙期を除く。小規模経営となると、家人一人で十一月から翌年三月までの農閑期に約六〇反を産出するという。農家副業としては、このような形態が一般的であったと考えられる。
 綿織物業を農家副業として行なった場合の収支計算を、報告は、次のように述べている。
 
  家人たる工女が綿織物を賃織する場合は、一人一日二反を仕上ぐるものとすれば、其の賃金二十四銭乃至
  三十六銭を得、時として六十銭迄騰貴することあり。平均三十銭の賃料に当る。而して此の場合機具の見
  積損料は一日当五銭とす。即ち固定資本として拾七円五拾銭(内訳 機台拾五円、附属具弐円五拾銭)を要
  するが故に、一ケ年の維持費約参円と見做し、六十日間使用するものとして、一日当金五円とす。されば
  差引金参拾五銭は一人一日の手間料に相当す。
 
 固定資本の減価償却を労賃に加えるところが妙であるが、一日の手間賃三五銭は、玉村の白菜栽培の六二銭と比較すれば、いかにも低いといわねばならない。しかしこれは工女の手間であり、付属品を含めた織機一台分一七円五〇銭の支出を別とすれば、農閑期の余剰労働力を吸収できた点で、注目されるべき副業ではあったといえよう。