常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第三章 大正期の石下地方

第三節 好況と不況

日露戦後の農家経済は、自給経済から商品経済への移行により、破産の危機に瀕していた。一般の食料品に加えて、石油、塩、醬油、酒などの日用品も、あらかた購入されるようになったばかりか、これらの価格の高騰は、米価の騰貴をはるかに上回った。経営規模の小さい農民にとって、自己防衛の途は、賃金労働も営む兼業農家になるか、現金収入を求めて農家副業に手を染めるかのいずれかを選択することに尽きた。しかし賃労働による労賃稼ぎをしようにも、働くべき場所がなかった。したがって農村の疲弊が叫ばれると、挙げて農家副業が奨励されることになる。
 ここでいわれた農家副業は、必ずしも市場価値の高いものばかりでなく、米麦作以外で農家に現金収入をもたらすものであれば、どれでもよかった。Ⅲ-1表は、大正五年に調査した主要な副業の産額を町域の旧五町村についてみたものである。調査時は戦時インフレの下にあり、農産物も副業品も高騰し、そこそこの利益は得られていた時期であった。
 
Ⅲ-1表 主要副産物生産額
石 下 町豊 田 村玉   村岡 田 村飯 沼 村結 城 郡 計
数 量価 格数 量価 格数 量価 格数 量価 格数 量価 格数  量価  格
梨 (貫)250150
( 0.2)
1 400140
( 0.2)
103 43229 259
( 2.5)
柿 (貫)900300
( 0.4)
2 418266
( 0.7)
4 000200
( 0.7)
42 5114 662
( 0.4)
梅 (貫)20110
( 0.2)
2501 375
( 1.5)
130780
( 1.0)
22132
( 0.3)
6048
( 0.1)
1 6899 257
( 0.8)
桃 (貫)250450
( 0.6)
1 0501 050
( 3.6)
5 2882 012
( 0.2)
白菜類(貫)3 1501 260
( 1.7)
28 0001 680
( 1.9)
12 0006 000
( 7.4)
3 000420
( 1.0)
42
( 0.1)
366 04528 743
( 2.4)
大 根(貫)48 000800
( 1.1)
53 0002 650
( 3.0)
40 0001 200
( 1.5)
27 300819
( 2.0)
777 11025 830
( 2.2)
甘 藷(貫)92 7005 562
( 7.6)
9.000630
( 0.7)
70 0002 800
( 3.5)
80 0004 000
(10.0)
12 000720
( 2.5)
1 141 59564 898
( 5.5)
里 芋(貫)10 500630
( 0.9)
17 5001 050
( 1.2)
21 0001 260
( 1.6)
25 0001 750
( 4.4)
160128
( 0.4)
696 12842 098
( 3.6)
葱 (貫)13 500810
( 1.1)
9 000720
( 0.8)
10 000800
( 1.0)
5 200400
( 1.0)
2 040240
( 0.8)
321 27228 613
( 2.4)
養 蚕(貫)13 18039 699
(54.2)
15 26079 510
(88.9)
13 13059 004
(73.2)
1 03026 353
(65.6)
2 92613 130
(44.7)
94 015740 503
(62.5)
蓮 根(貫)9001 200
( 4.1)
44 0504 001
( 0.3)
藁細工製品(個)1 500
( 2.0)
175 000245
( 0.3)
12 000120
( 0.1)
4901 078
( 3.7)
209 1204 227
( 0.4)
製 茶(貫)1 5654 042
(10.1)
50080
( 0.3)
21 53355 045
( 4.6)
木 炭(貫)24131
( 0.1)
9 630
(32.8)
96 8766 770
( 0.6)
薪 (貫)4 072232
( 0.6)
160 52623 436
( 2.0)
桐 材(貫)200270
( 0.3)
15 55074 20
( 0.6)
木綿織物(反)22 25020 500
(28.0)
4 7005 050
( 6.3)
44 61349 716
( 4.2)
鶏 (羽)6 3601 882
( 2.6)
3 1151 232
( 1.4)
2 4201 138
( 1.4)
620236
( 0.6)
23 000460
( 1.6)
86 77026 535
( 2.2)
豚 (頭)869
( 0.1)
781 870
( 2.3)
3441 435
( 3.6)
1371 370
( 4.7)
2 87320 629
( 1.7)
73 242
(100)
89 462
(100)
80 612
(100)
40 116
(100)
22 872
(100)
1 185 202
(100)
果実類生産総額667
( 0.9)
1 475
( 1.6)
1 370
( 1.7)
490
( 1.2)
42 701
( 3.6)
蔬菜類生産総額6 810
( 9.4)
6 720
( 7.5)
12 060
(15.0)
10 055
(25.1)
642
( 3.4)
185 756
(15.7)
茨城県農会『茨城県郡市町村重要副産物生産額一覧表』(大正5年12月)31~33ページによる.
( )は構成比を示す.ただし飯沼村については計が合わないので,修正して計出した.

 
 結城郡の合計によってみれば、構成比の高い養蚕を除けば、一八品目に分散しており、この地域が養蚕地帯であることを反映している。そして強いていえば蔬菜類が、これに次ぐものといえる。このような作物や産物の分散性は、農家副業の性格に由来するものである。すなわち、米麦作以外であればどんなものでも、農家に現金収入をもたらすものとして奨励されたのである。したがって、町村単位でいえば、産額が三一円とか四二円といった零細な作目まで計上されている。零細な農家の副業生産物は、商人資本によって容易に買いたたかれたので、手間賃を回収することさえ困難なものもあったろうし、養蚕のように、繭の市場価格に振りまわされるものもあり、農家副業も、農村疲弊のカンフル剤としては、期待されるほどの効果を収めることはできなかった。
 Ⅲ-1表により町域の町村の副業をみれば、川東と川西に画然とした差異を認めることができる。これは養蚕の構成比に顕著に認められる。木綿織物収入が二八%にもなる旧石下町を除く豊田村、玉村において、養蚕はきわめて高い構成比を示し、価格については三町村とも川西の二村を上回っている。とりわけ豊田村のように、構成比で九〇%に近いのは、他に例をみない。他方川西の養蚕の構成比は相対的に低く、岡田村で六五%余、飯沼村ではさらに低く四四・七%であるが、ここでは木炭が三三%になっている。岡田村の製茶一〇%も注目されるところであるが、甘藷とほぼ同額である。岡田村の蔬菜類生産総額は二五%と五町村の中で群を抜いているにもかかわらず、甘藷、里芋がその半分を占めているにすぎない。これらが実際の現金収入をもたらしたとは考えにくい。逆に玉村では、蔬菜の生産総額では一五%にすぎないが、白菜が七・四%と際立って高い構成比を示している。これについては後述される。
 川東と川西における農家副業の差異は、それぞれの農業構造に基づくものと考えられる。岡田、飯沼の両村は田畑比率をみれば、岡田村で水田に対する畑比率は六三・一%と圧倒的に高く(大正三年)、飯沼村では五九・九%と六〇%に近い数字を得ることができる(大正六年)。これに対し石下町では五一・五%(大正十五年)、豊田村で五八・九%(大正三年)になる(数字は各村の「事蹟簿」から算出した)。しかも川西の二村では、畑面積に匹敵するか(飯沼)、それを上回る(岡田)山林を擁していた。このことが、Ⅲ-1表における飯沼、岡田の木炭の産額(飯沼村では副産物総額の三三%にも達する)と密接にかかわっている。
 木炭については、長塚節の「炭焼日記」「炭焼の娘」が想起される。節が炭焼きに手を染めるのは、明治三十七、八年であるが、農業経営に著しい関心を示した彼が、在所にひろがる平地林に着目しても、不思議はない。平地林には、なら、くぬぎなど、炭焼きに適した原木が豊富にあったし、青木昭氏の指摘されるところでは、「この地方には千葉県佐倉炭の流れをくむ伝統的製炭技術が存していた」(青木昭『長塚節文学の経済的背景」『常総文学』第四号)という。飯沼村においても炭焼の技術的基礎があり、岡田村を上回る広大な平地林と相俟って、大正期にいたっても高い製炭収入を得ていたとみられる。
 しかし長塚家における炭焼き経営の結末はみじめであった。彼は明治三十八年に二二回の炭焼きを試みているが、その一四回目は五月八日から十七日まで行なわれる。結果は「極メテ良質(漸ク秘法ヲ悟ル)」とあり、さらに一六回の分は「良炭ニシテ、ハジメテ人ニ語ルヲ得」(六月十七日)とまことに得意げである。しかし青木氏の計算では二二回の炭焼きの収益は五五円となるが、「現実には半分失敗しているから収益はおろか、欠損を生じていることがわかる。せいぜい原木代を自給するのでゼロとみなして一〇回で八〇円程度の収益であったことがしられる。これではとても収益目あての製炭業はなりたたず見事失敗に帰したわけ」とされる。
 同様のことは、飯沼村馬場の高島家についてもいえる(以下高島正男家文書一五二による)。同家の大正十年の金銭出納簿には、「養鶏売却記」が誌されている。これの収益は一四円五〇銭とある。収入は二九円四八銭で、小雛八羽、成鶏二羽、老鶏五羽と軍鶏雛八羽の売却代金である。支出は一四円八八銭で、種卵代三円五〇銭、雑魚六五銭、ロード雛八羽代一〇円五〇銭が計上されている。養鶏といっても採卵や鶏肉のためでなく、孵卵が主である。しかし収支計算のうち、支出には現金支出だけが載せられているから、労賃も親鶏の飼料代も除かれ実際の収益はもっと少なくなっているはずであり、とうてい副業としては成り立ち得ない。ただこの年の高島家の収入は、米の売却代、小作料、貸金の利子など八九〇九円にもなるので、一〇円の収益などは問題にならなかったはずである。
 川東における養蚕業の隆盛についてであるが、Ⅲ-2表にみられるように、耕地の小作地率と密接なかかわりをもっている。玉村の数字が得られないが、川東の二町村の小作地率は川西に比して低い。とくに畑の小作地率において両者が一〇%もの開きをみせていることは注目してよい。後に検討されるところであるが、結城郡においては、畑の小作料も現物で納入されていたので、小作地には、大豆および大麦の耕作が結果として強制されていたため、小作地で桑を栽培する余地が残されていなかったと考えられる。
 前節でみたように、この地方では、桑葉の販売を目的とした桑園経営は稀なことではなかった。時期はかなり遡るが、明治三十八年に長塚節は桑葉の価格騰貴に音をあげて、書簡につぎのように認めている。
 
Ⅲ-2表 自小作別田畑面積
自 作 地小  作  地
 
石下町(大正15年)
町 
55.9
町 
145.0
町 
229.0
町  % 
99.4(66.1)
町  % 
149.3(50.7)
町  % 
248.7(54.3)
町 
150.3
町 
294.3
町 
457.7
豊田村(大正 3年)86.0136.0222.085.0(49.7)127.0(48.3)212.0(48.8)171.0263.0434.0
岡田村(大正 3年)52.889.5142.396.3(64.6)166.2(65.0)262.5(64.8)149.1255.7404.8
飯沼村(大正 6年)142.5170.2312.7173.0(55.5)260.9(60.5)433.9(58.1)311.5431.1746.6
各村『事蹟簿』による.( )内は小作地率を示す.

 
  今年ハ蚕ハ上出来ニテ只今上簇期ニテ桑葉ノ売買盛ニ行ハレ価格ノ暴騰驚ク程ニ候。一駄ハ枝共ニ三拾六
  貫目ニ候ガ三円四円ヲ非常ノ相場ト思ヒシニ、七円八円トイフ声ヲモ聞クニ至リ候。昨年秋蚕ノ当リニテ
  幾分今春ノ発育ヲ妨ゲ候上ニ、今春ハ蚕種ノ掃キ立テ多キニ気候ノ順良ナリシヲ以テ、蚕児ノ発育非常ニ
  佳ナルニ反シ、桑ハ霜害等ノタメニ蚕児ニ伴フ能ハズ、随テ払底ヲ告ゲタルニ出デシナリ。平均相場トイ
  ヘバ大抵二円或ハ二円五拾銭ナラン。五円六円トイヒテハ迚テモ割ニ合ハズ。サリトテ今二日三日ニテ上
  簇スルモノヲ捨テル訳ニモ行カズ。泣ク泣クノ始末ナリ
                (明治三十八年六月十四日、奥田廩之助宛書簡。『長塚節全集』第五巻)。
 
 節は「但シ今年ノ如キハ珍ラシク候」といってはいるが、桑葉を購入して養蚕を行なう道は、零細耕作の農民にとっては、閉ざされていたとみるべきであろう。