常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第三章 大正期の石下地方

第二節 常総鉄道の開通と水運の没落

常総鉄道起業の計画は幾度かあった。明治二十年新治郡土浦町の色川三郎兵衛ほか一三名の発起人により、水戸市下市から石岡・土浦・下妻を経由して古河に至る路線が請願されていた。しかしこれは水戸鉄道との競願となり請願は却下された。また明治三十年に下館町の間々田惣助ほか六五名により請願された常総鉄道株式会社は、日本鉄道取手駅から水海道、下館を経由して宇都宮に至る路線に免許を受けたが、翌年にはやくも不況などにより免許を失効してしまった(『水海道市史』下巻)。このようにいずれも実現に至らなかった。
 明治四十四年七月、常総軽便鉄道株式会社により、下館取手間の軽便鉄道敷設が申請され、同十一月免許を受けた。設立発起人には代表を東京の竹内綱として、東京と沿線の町村から四七名がなり、このうち石下町からは後に取締役となる新井善三郎をはじめ、鈴木直一郎、山中直次郎、黒川平五郎、山中徳三郎、橋本栄作、新井球三郎の八名が発起人となった(『常総鉄道株式会社三十年史』)。会社設立趣意書は茨城県南西部地域が東北線、常磐線、水戸線などがすでに開通していたとはいえ、地域的にも広く、これらの線を利用することができる町村が少なく、人や物資の輸送は、車馬や舟運にたよるばかりであったこと、特に鬼怒川一帯は、人口も多く、人車の往来や農工産物の集散地であるにも拘わらず、交通の便が悪いため、産業の発達の妨げとなって不利が大きく、そのため鉄道の敷設が必要であるとしている。その趣意書は次のとおりであった
 
  茨城県ノ南部五郡ノ地ハ西ノ奥羽幹線及東武線アリ東ニ海岸線アリ水戸線ノ之ヲ連絡スルアリテ幹線鉄道
  ノ設備ハ稍備ハルト雖モ其地域広袤百余方里ニ亘リ中間ノ町村ニ於テハ之カ便利ヲ共用スル能ハス車馬小
  舟ニ依リ僅カニ旅客貨物ノ輸送往来ヲ便スルノミ而モ特ニ鬼怒川沿岸一帯ノ地ハ東京附近無頻ノ富源ニシ
  テ人家稠密ヲ極メ沿道数多ノ神社仏閣アリテ人車ノ来往及農工産物ノ出入頻繁ニシテ真ニ天賦無盡ノ宝蔵
  ナルニ拘ハラス頗ル交通ノ便ヲ欠キ之カ為メ殖産興業ノ発展ヲ妨ケ不利大ナルヨリ夙ニ鉄道ノ必要ヲ感シ
  其敷設ヲ待ツヤ久シ已往ニ於テ幾多線路ノ経営ヲ企ツルモノアリト雖モ不幸ニシテ孰レモ其成功ヲ見ルニ
  至ラス甚以テ遺憾トス玆ニ於テ吾曹同志相画リ常総軽便鉄道ノ設立ヲ発起シ奥羽海岸線取手駅ヲ起点トシ
  水海道、下妻等ノ諸町村ヲ経由シテ水戸線下館駅ニ接続スル約十二哩六分間ニ軽便鉄道ヲ敷設シ運輸交通
  ノ普及ヲ謀リ沿道町村ノ発達ニ資シ国富ノ増進ヲ計ラントス(『常総軽便鉄道株式会社発起趣意書』)
 
 明治四十五年、東京において常総鉄道として正式に設立された。本社は東京有楽町に、支店が水海道町におかれた。大正二年二月十一日着工後は工事も順調に進んで、同年十月には取手下館間五一・六キロメートル全線が一気に完工し、十一月一日に営業を開始、二十三日に水海道町において開通式が行なわれた。石下にも石下駅が開業し、後に南石下と玉村に停車所が開設された。
 沿線に河川やトンネルがなかったとはいっても、着工後、一年たらずで完了というのは驚くべきはやさである。もっとも、建設当時は鉄道がどういったものかを知らない人も多く「或る者は危険なるものとなし、或は無謀なる計画であると誹謗し、又は鉄道事業が将来見込なし等、喧々轟々たる雰囲気にあった」(『常総鉄道株式会社三十年史』)ということである。
 開業当初は一日六往復の運転で、客車は二輛連結、蒸気機関車の牽引で客貨車混合運転がされた。開業当初の料金は石下取手間で並等三〇銭、特等四五銭であった。
 昭和三年八月には、それまでの蒸気機関車による客車牽引に加えて、ガソリン動車が二輛導入された。これによりスピードアップと旅客輸送の能率の向上が図られた。このガソリン動車も第二次世界大戦中になるとガソリンの消費規制を受けて、一部が代用燃料で運転されるだけとなった。
 

Ⅲ-4図 常総鉄道の大型ガソリン動車(常総鉄道(株)30年史)

 開業当初の収入は、旅客については、大正二年後半期に三万四〇〇〇余円とほぼ順調な成績で滑り出し、貨物の取扱いは同期に一万二九〇〇余円と旅客収入に較べると少なかったが、米穀、薪炭類の取扱いが徐々に増加し、その後、肥料類の荷動きも増加してきた。こうした事業の発展に伴って、会社設立当初東京におかれた本社も大正三年七月、水海道町へ移動することになった。