常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第三章 大正期の石下地方

第一節 大正期の町政

前述のように明治末から大正期にかけて、石下町域から県会議員として県政界で活躍したのは、長塚源次郎一人であった。明治期には鴻野山の秋葉杢之助、本石下の新井球三郎、古間木沼新田の犬塚瀧次郎と長塚源次郎の四人が県会議員となったのに比べて、淋しい状況ともいえるものである。次に長塚の簡単な略歴と、県会での活躍ぶりの一端を紹介しよう。
 源次郎は旧姓を青木といい、筑波郡菅間村の旧家の出である。安政五年(一八五八)に生まれ、国生の長塚家の養子となった。村会議員、郡会議員その他の名誉職等を歴任し、明治二十一年に県会議員に当選し、中断の期間を含めて大正八年まで議員を勤める。その間常置委員、参事会員などから、さらに第二〇代の県会議長に就任した。小説「土」で名高い長塚節は彼の長男である。
 

Ⅲ-2図 長塚源次郎(茨城県議会史)

 長塚が県会議員となったのは明治二十一年から同二十九年までと、同四十年から大正八年までの前期と後期に分かれるが、その後期の明治四十四年の県会では鬼怒川改修に関する意見書が、内務大臣原敬宛に提出されることになった。この意見書の一部を抄録すると次のようなものであった。
 
  鬼怒川ハ源ヲ下野ニ発シテ常総ニ国ヲ貫流スルコト数十里ニ亘リ、民物ヲ利スル少ナシトセズト雖ドモ其
  河身ハ広狭一ナラズ、加フルニ年々土砂ノ流出多クシテ、一旦洪水アルトキハ忽チニシテ堤防ニ漲リ、人
  家田畑ヲ損傷スルコト甚大ナリ、即チ其害ノ惨ヲ極メ屢々到ルニ及ンデ、今ヤ沿岸民ハ雨ニハ輒チ天ヲ睨
  ミ、流域ニ於ケル些々タル工作事業スラ、尚且ツ憂ヒテ止マザラントス、斯ノ如クニシテ遂ニ数年ヲ経ン
  カ、独リ地方産業ノ衰微スルノミナラズ、人道問題トシテ坐視スルニ忍ビザルモノアルニ至ルベシ(後略)
 
 したがって鬼怒川改修は利根川・小貝川の改修等と相まって行なわれるべきもので、「治水事業ヲ完了スルノ途ニ出テ、以テ鬼怒川多年ノ水害ヲ根絶センコト」を願うという趣旨のものである。当地方のように鬼怒川の水害に悩まされた地域では、このような意見書は最も期待されるものであった。
 さて長塚は県会の中で要職にもついて活躍し、その言動は注目されるものがあった。例えば大正五年十一月の通常会で、警察費の審議に関連して警察官の素質、犯罪捜査上の不徳な行為、人民蔑視の行為など、警察問題について鋭い質問を行なった。その要点をみると次のとおりである(『茨城県議会史』第三巻)。
 
  抑モ本員ガ巡査ノ増俸ヲ望ミマシタ所以ノモノハ、如何ニモ巡査ノ給料ガ薄イ、アレデハ警察ノ周到ヲ計
  ルニ足ルマイト云フ処カラ、此事ヲ唱ヘマシタノデゴザイマス……或ル犯罪事項ガゴザイマシテ素行調ベ
  ヲヤルト、稍モスレバ過大ニ失シ偽証ケ間敷イコトヲヤリマス……夫カラ近年此議場デハ釜シクナリマシ
  タ此人権問題、漸ク小学校ヲ卒業シタ位ノ人間ヲ捕ヘテ、警察署ニ持チ込ンデ十時間モ十二時間モ拘留シ
  テ置キマスガ、此人権ノ擁護ナルモノハ如何ニスベキモノデアルカ、教習所若クハ警察署ニ於テ彼ノ如ク
  シナケレバナラヌ、ト云フヤウナコトヲ御教ヘナサルノデスカ
 
 この質問に対し当局は「此人権擁護ノコトデアリマスガ、是ハ勿論教習所ニ於キマシテモ、非常ニ注意ヲシテ教養ヲシテ居ルノデアリマス、人民ニ対シテハ親切鄭寧ニスベキモノデアル、尚ホ不法ノ行為ヲシテハナラヌ、人権ノ尊重スベキコトハ勿論デアリマスノデ、此点ニ付テハ苦心ヲシテ教養ヲシテ居ルヤウナ次第デアリマス」と答え、警察として十分気をつけて事に当っている旨を強調した。
 しかし長塚は大正六年十一月の通常会でも、警察行政のあり方について追求し、「甚ダ茨城県ノ警察ト云フモノニ対シテハ、安心ノ出来ナイ事実ヲ発見シテゴザイマス」とのべて、茨城県の警察全体は人権軽視の傾向にあるので、県民として絶対安心できるものではないと詰問した。これに関連して他の議員からも同様の質問が出されたから、その日の審議は時間延長となり、遂には知事が答弁に立つという事態にまでなって落着いた。
 彼はまたこの県会で、中学校の創設が政党の利害によってなされているので、これを是正しろと次のように発言している。
 
  之ハ重大問題デアリマスガ、独リ之ハ我茨城県デハゴザイマセヌガ、政党政派ノ関係上勢力ヲ増サント云
  フ希望カラ、自党ノ手柄ノ為メニ拵ヘタノガ中学校デアリマス、本県ノ如キ六中校ハ誰ガ見テモ少ナイト
  ハ申シマスマイ、多過ギル、デ之ヲ廃合スルト云フヤウナコトハ必要ノコトト思フ、之ハ成ルベク実業学
  校ニ変更セラレタイト云フコトヲ希望シテ居リマス(後略)
 
 つまり六つの中学校では多過ぎるので、農学校や商業学校といった実業学校に変更せよというのである。しかしこの意見はとりあげられなかった。むしろ中学校増設に関する希望は多く、数年後には各中学校は学級増をしなくてはならなかったのであり、やがて昭和初年には県立中学校の数が急速に増加していったのである。その点で長塚の発言はやや時勢にはずれていたといえよう。ただ人権問題等について、この時期に発言質問をくり返していることは、大いに注目されるものである。