常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第二章 新しい石下地方の発展

第三節 土地改良事業の進展

飯沼が増水に難渋する一方、川西の台地の町村は、干ばつに苦しんだ。これは飯沼干拓をはじめとし、現在の吉田用水の東側台地に散在する山川沼、北沼、菅谷沼、八町沼、若沼、大田沼、それに町域の国生沼、古間木沼などの開墾による用水の不足がもたらしたのものである。江戸時代中期は開墾政策が強力に進められたが、これらの湖沼周辺の農民が開墾を申請した。幕府当局の検分によれば、用水源が確保されれば開墾可能であるとされ、関係二三か村の農民が参加して吉田用水の開削に当った。
 吉田用水路の開削は、幹線延長三万五〇〇〇メートル、支線八二〇メートル、この間に橋梁一〇三か所、閘門二六か所、掛樋一四か所を設置する大事業であった。これに要した費用は七一一五両に達した。事業は享保九年(一七二四)十二月に着手され、僅か七か月余で完成するというはやさである。はるか戦後になって、耕地整理の衝に当った者も「現在吾人の行いつつあるかんがい排水」事業と比較し、「驚異の極みである」と評価しているほどである。
 延長五〇キロメートルにおよぶ用水路は、はるか栃木県内の鬼怒川を水源とし、旧江川村、山川村(現結城市)の村境を経て旧大花羽村(現水海道市)の鬼怒川に放流される。その支配面積一五〇〇歩町は二県にまたがり、茨城県では明治期に二町一七か村が関係するとされた。昭和三十年代において、町域で関係するのは川西の岡田村で六四町、飯沼村で三三町である。
 用水ははじめ明治二十三年に公布された「水利組合条例」に基づいて、明治二十六年に吉田用水普通水利組合によって管理され、組合は明治四十一年に「水利組合法」に基づく組合となって、長い間用水の管理団体として存在した。戦後は「土地改良法」の制定(昭和二十四年)により、昭和二十六年十二月十一日に設立された吉田用水土地改良区として、灌漑排水施設の管理に携わっている。