常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第二章 新しい石下地方の発展

第三節 土地改良事業の進展

川東の低地帯が、耕地整理によって美田に生まれ変ったのに対し、川西の地域の土地改良事業は、多くの困難をともなった。古来飯沼三千町歩と呼ばれた地域は、水海道市、石下町、八千代町、岩井市、猿島町、三和町にまたがる広大な低い耕地を総称したものである。江戸中期までこのあたりは湖沼地帯であり、享保期に干拓されて一五二五町歩余の新田が生じたといわれる。干拓された飯沼三一か新田は、民家八〇〇、人口五〇〇〇を擁したといわれる。
 享保期の干拓事業は、飯沼と利根川の水位差一九・五尺を利用して、旧弓馬田村馬立(現岩井市)の高台約五八〇〇間を幅三間、高さ五〇~一五三尺切り開いて菅生沼を経て利根川に飯沼の水を落とすものであり、この際、沼の中央部に落堀=飯沼川を開通させて排水を図っている。以来一五〇年余を経て明治三十年頃には利根川の川床は自然に上昇し、飯沼川は埋没し、落差は一〇尺程度に縮まってしまった。利根川への排水が不良となったばかりでなく、降水時には利根川の逆水が飯沼に五、六尺も流入するようになった。
 明治三十一年三月十四日、再三の申請の結果、飯沼水除堤に関する水害予防組合区域指定が公告された。これによって「飯沼反町水除堤水害予防組合」が創立され、六月八日に県の認可を得た。当時組合を構成したのは、飯沼村の一部のほか、結城郡では菅原村、安静村(以上現八千代町)の一部、猿島郡では神大実村、岩井村、飯島村、弓馬田村、七郷村(以上現岩井市)、沓掛村、生子菅村、逆井山村(以上現猿島町)の各一部である。
 

Ⅱ-6図 飯沼川沿岸農業水利事業地区

 組合の目的は神大実村神田山の反町にある堤防を修築し、さらに自動式の閘門を設置しようとするものである。工事は明治三十三年に完成し、利根川洪水の逆流は防止できた。しかし、飯沼川の埋没による排水不良と周囲の山林の濫伐による降雨時の増水があいまって、内水による洪水が跡を絶たなかった。したがって、飯沼全体に及ぶ耕地整理が要請されたが、大正期には地域の総意を得ることができなかった。飯沼(古間木新田、鴻野山新田を除く)、沓掛両村による事業が着手されている。排水設備の設置と原野池沼の開墾による耕地の拡張が図られたこの事業は、大正八年に着手され、十一年に完了するはずの事業が物価の騰貴と工事の難しさのため、六回も設計の変更をし、最終的には二二年の歳月をかけて完了した。
 右の飯沼組合における事業の頌徳記念碑が、孫兵衛新田の上高橋のたもとにある。元衆議員議員風見章の撰文は、他の頌徳碑とは異なる趣があるので、次に引用しよう。
 
  むかし、この地方は内水による水害はなはだしく 一粒の米もとれぬ年すら続くことがあり 田はあれは
  てたために村をすてて去るものさへ次々出て そのみじめさはまったく目もあてられなかった この有様
  に心をいため耕作者をその苦しみから救い出そうと まっさきに手をさしのべたのは秋葉三太夫 秋葉類
  助 倉持三右衛門の三氏である 三氏は飯沼沓掛両村を一まとめにした耕地整理組合をつくって 耕地を
  整理し飯沼川を境として両岸に延長八キロメートルの防水堤をきずき大排水機をとりつけて排水を完全に
  する外に水害をのぞく方法はなしとして まず その工事計画をたてた それからは寝食をわすれ しか
  のみならず私財をなげうって これが実現につとめその苦心むなしからず ついに大正七年工事ははじめ
  られ昭和八年その完成を見たのである
  かえりみれば吾等両岸の関係耕作者がはじめて安心して この土地に住めるようになったのは実にそれか
  らである
  おもひをここにいたすときありがたい恩人として吾等はこの三氏に深く感謝せずにはいられない そこで
  三氏がのこしてくれた尊くも大きいこの功徳を後の世まで記念するため同志相はかりここにその頌徳碑を
  たてる
     昭和二十四年二月十一日
                                       風見  章撰文
                                (石下町史編纂室『記念碑銘文集』)
 
 飯沼全体の水利改良事業は、昭和八年に県営事業により、飯沼川沿岸農業水利改良事業としてはじまる(さきの頌徳碑が昭和八年に完成をみたとするのは、事業が県営に移管されたためであろう)。この事業は徹底的な灌漑排水事業を行なうことに主眼があった。そのために西仁連川の改修工事、飯沼川下流堤防の強化、幸田排水機場の設置がもくろまれた。事業は昭和十九年に一応の完成をみるが、以後も食糧の大増産を目的とし、連続して土地改良事業が施行された。しかし東仁連川台地からの流水が多く、完全に水害を除去することはできなかった。昭和二十四年に施行された東仁連川改修工事により、はじめて飯沼は内水を排水することができるようになる。そして、昭和三十七年に着手された区画整理事業によって、「飯沼三千町歩」の美田が展開する。