常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第二章 新しい石下地方の発展

第三節 土地改良事業の進展

近代における治水、土地改良事業が、体系的に整備されてくるのは、明治後期からである。耕地整理法が制定されるのは明治三十二年(一八九九)三月である。この法の実施は翌年とされたが五年後の明治三十八年には改正され、さらに明治四十二年に大改正が加えられている。三十二年に制定されたものは「旧法」と呼ばれた。ここでは耕地の利用を増進する目的で、土地所有者が共同して交換分合や区画の変更などを行なうことを定めている。旧法が文字どおり耕地の整理について定めているのに対して、明治三十八年の改正では灌漑・排水施設の改良が明文化されている。これは日清・日露戦争を経験している日本にとって食糧の増産が強く要請されたところであり、それを達成しようという意図から出たものである。しかも、この法律の制定により、耕地整理事業にかかわる技術員の養成がはじめられた。茨城県においても明治三十九年八月十日、茨城県訓令乙第一六九号により、「耕地整理事業ニ属スル吏員、職員ノ設置及職務規程」が発せられている。ここでは耕地整理技師、同技手、同書記などの吏員、職員を置くことにしている。そして吏員、職員は、耕地整理事業ばかりでなく、土地改良事業一般について、調査、設計、工事監督することとされた。
 「新法」といわれる明治四十二年の改正は開墾、地目変換および整理施行のため、あるいはそのために必要な施設設置、またはその維持管理まで包含する広範囲にわたるものであった。以後同法は大正三年と八年に二度の改正が行なわれている。これらの改正は埋立て、干拓にかかわるものである。
 大正三年に県当局が、耕地整理の成績を自賛した報告では、整理を必要とした県内の状況を、つぎのように記している(茨城県内務部『茨城県耕地整理成績概要』)。
 
  本県ニ於ケル耕地面積約二十万余町歩ノ内、水田面積約九万町歩ノ耕地ハ一見沃野ノ如キモ、其ノ形状不
  整ニシテ、比較的乾田少ク、従テ合理的作業ニ出ツルモノ少シ。殊ニ河川、湖沼ノ沿岸ノ地ハ、年々概ネ
  湛水ノ害ヲ被ムラサルナク、故ヲ以テ耕地整理ノ必要ヲ認メ……
 
 東を小貝川、西を鬼怒川が流れ、さらにその西に飯沼川があり、小貝、鬼怒の間を八間堀川が流れる町域の水田は、まさに「湛水ノ害ヲ被ムラサルナク」という状況であった。したがって、町域における水利事業は、一部については江戸時代から連綿と続けられてきた。ここでは、その代表的なものとして石下町外六箇村耕地整理、飯沼川沿岸農業水利事業および吉田用水農業水利事業についてみておこう。