常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第二章 新しい石下地方の発展

第二節 地主と農民

Ⅱ-5表は、明治二十四年に調査された町域各集落の現況である。調査の主体はわからないが、日清戦争にさいし、軍需用の徴発を意図してなされた調査であることは確実である。
 表には製造所、水車場、病院の欄があるが、数字が書きこまれていないので省いた。さきにみたように、明治十年代に、土地を失った農民が集積されていたことは、表からはうかがえない。表の注記にあるように、「職工」の数が岡田郡で二一二。豊田郡で二九五と、きわめて少ない。そこには、旧幕時代そのままの姿がある。
 
Ⅱ-5表 明治24年の村勢
幅  員家  屋人  口人夫官庁倉庫寺院学校日本形
船舶
東西南北戸数棟数棟数繫留
馬数
軒数軒数50石
以上
艀漁
小廻
 






 
杉 山
町間
12.30
町間
13.45
 
47
 
564
 
158
 
162
 
42
 
1
 
2
 
17
 
17
向石下9.1011.1560720185190461620201134
篠 山8.4513.4564768208216493212121
蔵 持4.2526.4030360107120363131311
蔵持新田5012.306722727522
中沼新田1.4512.0619228786520577
岡田新田6.4023.302631298972521010
国 生20.5014.25637962472514810161621
31538201 1081 1282712311061062186






鴻ノ山10.0012.0055165018918776182424114
鴻ノ山新田8.005.002152594933746611
古間木新田20.005.0036108013614854599331
馬 場80.0015.005711401791827242424
馬場新田8.006.00112203943172449
栗山新田10.006.0026650100113405101017
左平太新田10.0010.00298709910739512121230
孫兵衛新田15.0010.0051102014516458410101127
崎 房20.0015.0011122203243121296282817
古間木18.0018.00941980307301120626262
古間木新田5.005.0013225485819233
大沢新田8.005.0012275474318233
516118551 7071 751679153159159517136




豊 田18.0015.001752675562612150127808021
曲 田13.0012.00629301571796493131
館 方12.009.002537510788188151535
本豊田16.0013.008412603443288713454523
34652401 1701 20731915717117141312



若宮戸10.0018.006910352402397112262615
原 宿6.0012.00659752262266219222212
原 村8.0016.00861290339365831833333
小保川12.006.00731095285259781728281
羽 子2.005.00101504335811
30345451 1331 1243021561101102110




新石下501.302153225550525235298505011210
大 房401.102537563592611111114
東野原406.502131558512112151511
平 内305.08131953531185881
山 口507.50304508169351311111
収納谷8.0540213155553291513131
本石下501.50230345060058325015060601411
55583251 4421 37161423041681684129
「明治廿四年徴発物件一覧表」上による.( )は宿合用坪数である.また同書には「医師及職工」として下記の諸職の郡毎の合計を計出している.
 
医 師獣 医蹄鉄工大 工船大工石 工鍛 工桶 工杣 職木挽職鞍 工縫 工
岡田郡6225061141887302218
豊田郡1821121595340302068313


 
 しかし、日清、日露の戦争を通して、日本の産業資本が勃興し、農業から工業が独立し、農民経済が商品経済化する。明治四十二年(一九〇九)、茨城県における職業別現住戸数の構成をみると、農業六六・七%、工業六・五%、商業一四・七%、漁業二・〇%、公務三・二%となる。明治十一年に農業人口の比率は九〇%を超えていたから、産業資本による農業の侵蝕は激しいものがあったとみてよい。ちなみに、農業人口の比率は、農家戸数の比率を約一〇%上回っているが、これは、農業が、家族労作経営であり、家族人員も多く、老幼婦女子の労働力を総動員した結果とされる。この事情は、岡田村についてもみることができる。
 Ⅱ-6表には岡田村の職業別現住戸数が示されている。明治四十一年における急激な戸数の激少が意味するところは不明であるが、農家戸数が、県平均の数字に近いことがみてとれる。工業の構成比が高いのは、県西地方に簇生した製糸工場のせいであろうか。Ⅱ-5表でみた明治二十四年よりは確実に現物経済が破壊されていることは明らかである。このことは人口動態の推移をみることで明らかになる。
 
Ⅱ-6表 岡田村職業別現住戸数
農 業工 業商 業漁 業官公吏その他
明治38年394
(70.6)
73
(13.1)
67
(12.0)
1
(0.1)
9
(1.6)
15
(2.6)
559
(100.0)
  39年397
(69.3)
75
(13.1)
68
(11.9)
2
(0.2)
11
(1.9)
20
(3.5)
573
(100.0)
  40年396
(69.5)
75
(13.2)
68
(11.9)
11
(1.9)
20
(3.5)
570
(100.0)
  41年343
(73.3)
57
(12.2)
55
(11.8)
1
(0.2)
10
(2.1)
2
(0.4)
468
(100.0)
  42年346
(72.4)
62
(13.0)
61
(12.8)
9
(1.8)
478
(100.0)
  43年346
(72.4)
62
(13.0)
61
(12.8)
9
(1.8)
478
(100.0)
『岡田村事蹟簿』による.( )は構成比


 
 Ⅱ-7表は同時期の人口動態をみたものである。Ⅱ-6表で農家戸数の地位の相対的低下をみるわけであるが、絶対数では増加している。町域では明治二十四年の戸数の全てを農家とすれば明治二十四年から三十八年まで岡田村の増加率は最も高く二五%に達しているが、飯沼村では三十九年までに二・五%、豊田村でマイナス五・五%、玉村でマイナス二・六%、石下村で〇・五%となる。
 
Ⅱ-7表 岡田村の人口動態
流   出
明治38年1 3781 3472 725192140
  39年1 3681 3632 7318950139
  40年342458
  41年1 3281 3652 693553085
  42年1 3471 4232 770603595
  43年1 3471 4232 770603595
  44年1 3891 3832 771553085
大正 1年1 4121 4452 857603595
   2年1 4251 4552 880462066
青木昭氏の作表による,前掲論文15ページ


 
 岡田村の人口であるが、明治三十八年には二七七一人、二十四年からの増加率は二四%、大正二年には増加率は二八%にもなる。このように人口が滞留できたのは、第一に、農業生産力の上昇を考慮に入れるべきである。青木氏の計算では、明治三十八年に粳米の反収は一・二石、大正五年(一九一六)には二・一石にもはね上っている。第二には養蚕により家計補完が図られたことである。岡田村は、養蚕導入については後発的であったが、明治四十二年以降、養蚕戸数も、收繭量も大きく増加している。
 にもかかわらず、Ⅱ-7表では、流出人口が多く見られることに着目しなければならない。資本主義が興隆を遂げつつあった当時といえども、工場が農村の過剰人口を吸引する力はたかがしれており、彼らの脱農民化は容易ではなかった。むしろ農民家庭から口べらしとして放出された身売といっていいほどの子女たちの安価な労働力こそが、日本資本主義の急速な発展の土台であった。表にみられる流出人口は、多い年は全人口の五%を超えるのであるが、多くは郡内、県内に留まらず、女子であれば、東京赤羽の紡績工場に、足利、桐生、八王子の暗い機織場へ流れていったはずである。そして男子であれば、土木作業場の人夫部屋に荷を解いたであろうことは、さきにみたように、『土』がよく描いたところである。
 農村に滞留したものも、実は不断に没落の不安にさらされていた。Ⅱ-8表は結城郡と茨城県とを対比させたものである。まず小作地率では、明治末に畑の小作地は県段階では全国水準を超えるのであるが、結城郡では三十九年以降県水準を一〇以上も上回り、増加していく。田の小作地率も増加している。明治三十九年を画期として、結城郡の耕地の半数は小作地になるのである。自小作別農家の構成比をみても、県の数字より一〇%以上も、小作農家が集積されている。さらに耕作規模別農家の構成も県とは反対に、一~三町の農家は少なく一町以下の零細農家が多く、分解がすすんでいたとみられる。
 
Ⅱ-8表 明治末結城郡の農業構造
小作地率自小作別農家割合耕 作 規 模 別 農 家 割 合
結城郡茨城県結 城 郡茨 城 県結   城   郡茨   城   県
自作小作自小作自作小作自小作~5反5反~1町~2町~3町~5町~~5反5反~1町~2町~3町~5町~
明治
 38年

49.5

44.4

43.5

39.9
 39年51.554.345.041.6
 41年52.253.646.244.222.837.639.633.326.140.530.731.120.011.65.01.724.926.426.115.06.31.3
 42年52.355.246.345.422.636.840.632.326.940.831.231.321.210.34.51.626.127.226.014.05.71.1
単位は%,各年『茨城県農業統計』による.