常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第二章 新しい石下地方の発展

第二節 地主と農民

川西にある向石下村増田家の当主は、何年も前から自分の動静を誌した日記をつけている。「日記 第四号 明治三十七年一月一日」(以下本項の記述はこの史料による)と表紙が読める一冊が現在まで遺されている。この冊は表題のとおり、明治三十七年(一九〇四)元旦から書きはじめ、同年十月八日で終っている。日記の記述から、当主の明治三十七年をみることにする。
 当主は、年が明けてからも(当時正月祝いは旧暦で行なったので、元日は二月十六日である)小作料の徴収に忙しい。
 
  (一月)十七日 晴 西風
  朝、□□小作不足分持来ル
  十九日 晴后曇リ
  朝杉山ニ小作催促ニ至ル、其ヨリ障子貼
  廿七日 ……三時頃小作不足督促ニ五、六軒廻レリ
  卅日 ……□□□母来ル。其迄ノ小作差引及□□□奉行(公)ノ議相定ム
  (二月)一日…… 昼□□来ル。小作金不足ニテ馬売買ノ約束ス。金七円ヲ相渡ス。
 
 旧正月前に小作料の不足分は解決しておきたかったのであろう。納入不能で、馬を売ったり、奉公に出る者もある。正月用の餅は、二月十三日夜に搗いた。周作、五市、要助、彦内ら四人を雇い、一二時までかかる。
 当主の日常は、多忙である。小作の上りで生活しているのではない。最も力を注いでいるのは醬油の醸造販売である。製造を開始して日が浅いのか、細部にまで目を注いでいる。たとえば、「水海道町明文堂へ広告五十枚注文ス」(一月三十一日)、あるいは「広告三千五百届く、無事直し出来上り、才兵衛持来ル」(二月五日)、そして二月七日には「友次ヲ雇ヒ広告引き」というように、創業間もないためか、宣伝にも気を配っているようである。また、二月には樽印書きに三日も費しているし、五月になってもこれは止めない。
 一、二月は醬油製造も比較的暇な時期であったらしく、樽の手配も忙しい。
 
  水海道町樽屋ヘ半樽新キ四十本注文、代金不残払込ム(一月二十八日)
  由造ヨリ買入レシ明(空きか)樽及三尺桶着ス(一月三十一日)
  半樽水海道ヨリ届ク。周作ヲ雇ヘ引取リ(二月四日)
  九時坂手ノ由造来リ、古大桶四本(金六十円)買受ケ約ス。手附金トシテ十円相渡ス(三月六日)
 
 塩の仕入れに東京まで出向くこともある。
 
  (五月)十四日 小降雨
  朝三坂ヘ立寄リ水海道ニ至リ、同所十二時発汽船ニ乗シ午后十時両国橋ヘ着。其ヨリ万三ノ叔父宅ニ至リ
  泊リ。
  十五日 曇
  日本橋ニ至リ箱崎町及浜町ノ二ケ所ニテ塩買入ル。途中寅吉船ニ会ス。右運送方ヲ依頼ス。
  十六日 終日叔父宅ニ在リ。午后六時出発、同七時発ノ汽船ニ乗ス。
  十七日 曇
  午前十時水海道ヘ着。其ヨリ三坂ヘ立寄リ、午後二時帰宅ス。
 
 往路一〇時間、復路は一五時間も船にゆられる旅である。塩は五月三十日に着いたと誌されている。病弱な当主が(この年はじめに、風邪で一四日も仕事を休んでいるし、小野村の医師は、よく往診する)、塩の仕入れごときに長旅をするのは、どのような理由によるのか。七月、八月には船戸の出店を拠点として、大豆、小麦を買い漁る。篠山、蔵持、五箇など近在の村々から仕入れるのである。
 醬油の販路は、近郷の村々までは行きわたらないようで、同じ川西の馬場が多い。在村で需要があるときは、自分の家で売ることもある。さきの餅搗きの日にも、「終日醬油許り」売ったというし、迎え盆の八月二十三日にも、「終日醬油量売ス」とある。盆と暮れにだけ庭先き販売を行なったのかもしれない。
 養蚕にかかわる記述も散見される。三月十二日、「蔵持ヨリ桑苗千本持来ル」、三月十六日、「桑苗植ヘ三時終ル」、これで千本もの苗の植えつけが完了したとは思えない。桑植えはさらに五月二十一日、二十七日は「桑植直し」、二十八日は「昼ヨリ桑植」、六月五日、十五日とつづく。
 当家の養蚕は、手順が後手に回る傾向にあるのではないか。四月三十日、「蚕掃立ス」、五月一日は雨、「蚕棚造リ、障子ノ切貼リ等」、五月二日はなんと「大工二人来ル、蚕所ヲ直ス」とある。五齢期を迎える頃には、自家の桑園は桑葉が払底したのか、六月八日、「清三郎ヨリ買入桑五駄刈取ル」、翌日も「長助ヨリ買入桑二駄刈取ル」、そして十日に「蚕上蔟初ム。彦次ヲ雇。昼ヨリ西館ヨリ二人手伝ニ来ル」とやっとゴールが見えるようになる。繭の販売は六月十六日である。「雨小降ニ乗ジ石下ヘ繭ヲ持行、売渡ス」とある。
 醬油醸造経営とか養蚕については、記述は密であるのに、手作り地の経営については、五月九日と十一日に「陸稲蒔手伝」があるのみである。奉公人の作業に委ねていたためであろうか。それにしても当主が養豚に手を染めていたことは、日記を読む者を驚かすことであろう。三月十二日に「役場ニ因リ、豚肉ヲ食ス」とあり、四月十日に「忠吉豚肉持来ル」ともあり、豚は病弱な当主の栄養源であったかもしれない。二月二十四日と二十六日に交尾させた豚は六月十七日と十八日に都合牡一一頭、牝八頭を産するが、七月十六日に「豚児不残相渡ス」と売捌いている。
 以上のように多忙な経営主としての毎日の中に、村の資産家として、応分の有形無形の支出を余儀なくされている。
 
  茂三郎死亡、明日不幸ノ由沙汰ニ来ル(一月二十二日)
  茂三郎死亡、本日葬式ニ付亀蔵方ニ至リ帳場ニ終日(一月二十三日)
 
 あるいは
 
  平三郎母死亡明日葬送ノ由沙汰アル(二月二十一日)
  終日不幸ノ帳場ニ立入書ク(二月二十二日)
 
などは共同体成員としては、当然の責務であったろう。しかし
 
  才花及又右衛門件、相談纏ケル由ニ付、九時頃又右衛門方ニ至リ、嫁ノ不法ヲ詑入ル。聞入ズ。廿五日午
  前四時帰ル(二月二十四日)
 
とあるように、家庭内のいさかいの仲裁にまで、労力を惜しまなかったようである。
 また、この年当地は、水害の危機に陥る。
 
  (七月)十日 嵐 当絹川増水ス
  十一日 嵐 村サナブリニテ一同休ミ
  十二日 晴 諸川及堀増水ス
  十三日 晴 午前二時頃茂助及浦吉来リ。水留一同ヘ飯一斗炊出サレ度由、速時飯出ス。
 
 食糧の端境期に飯一斗の出費は、なんら痛痒に価しなかったのか、感想は全く誌されていない。
 明治三十七年二月十日、日本はロシアに対し宣戦を布告している。日を経るにつれ、戦争の影響は、日記の作者の身辺にもおよんでくる。「暮方、村長軍事公債第二回ノ話ニ来ル」(六月十四日)の一行が見える。当家の車輛が徴発される話はその八日後である。
 
  (六月二十二日)……役場ヨリ車輛徴発の達来ル
  廿三日 曇 袋ムキ、其他車輛徴発ニ付、価格見調査ノタメ役場ヘ曳行ク。夜明廿五日結城町ヘ曳行クベ
   ク通知来ル
  廿四日 小雨 九時頃弥七等と同道ニテ結城町ヘ出発ス。四時頃同所ヘ着。小学校構内ヘ車輛止メ置キ宿
   ニ向。同宿者岡田村人七、八十人ニテ非常ニ困難ス。
  廿五日 曇 午前三時朝食ヲ終シ、車輛検査場ヘ赴ク。都合ニ依リ午後検査ノ赴キニテ同所ニ休ム。午後
   検査合格ス。停車場ニテ該車ヲ相渡シ帰ル。夜帰宅ス。此日検査車三千、合格百八十ト聞ケリ。
 
 梅雨時の小雨そぼ降る中を、連れと二人で七時間もかけて結城まで車を持参した当主の心中はどうであったか。疲れて寝ようとしても岡田村からの同宿者が七、八〇人もいては、寝るどころではあるまい。東京へ頻繁に往復し、船中で眠るのにも馴れているはずなのに、「非常ニ困難ス」とめずらしく修飾語を用いている。翌朝午前三時には朝食を済ましているので、起床は何時であったか。午前三時に出かけて行っても、検査が午後では、待ち時間が長過ぎる。徴発車輛の合格率は六%にとどまった。当時の農民がどれほど老朽化した荷車を使っていたかがわかる。「六月卅日晴役場ニ至リ徴発車代及旅費ヲ受取ル」とある。代金については記述がない。
 徴発は車ばかりではない。戦争の進展につれて、大麦や縄も徴発される。
 
  夜、村長及松崎ニテ大麦徴発ノ話ニ来ル(八月十三日)
  徴発麦三石ヲ川岸ニ出ス。同所ニテ相渡ス(八月二十一日)
  役場ヘ徴発縄二房持行ク(八月二十五日)
  大麦徴発二増加ス(八月二十八日)
 
 しかし徴発は物品ばかりではない。日露戦の開戦と同時に人間が徴発されていった。日記の記述者の親しい人々も召集される。
 
  昼頃鴻ノ山源光氏、召集ニ依リ明日下妻ヨリ出発スル由ニテ立寄ラレタリ(二月七日)
  夕方オキン方ヘ栄作召集ニ依り入営スルニ付同人方ヘ行キ、其ヨリ大字一同ニテ川淵迄送ル(二月八日)
  朝長須宅ニ至ル。同人召集ニヨリ十日入営スルニ付、訪問セルナリ(三月七日)
  長須氏召集ニ依リ出発セシニ付、字一同ミナ河原迄送ル(三月九日)
  雇人常三郎出兵ノ義理ニ来リ(七月十一日)
  常三郎出兵ニ付、蔵、其他真作、庄吉等来リ。当門筋ヘ縁間ヲ設ク(七月二十二日)
  午前当一同見送ニ来ル。酒一盃ヲ出ス。八時出発。香取社ニ立寄ル。一同ハ河原迄、自分外十四、五名、
  三坂迄見送ル(七月二十三日)
  東京ヨリ叔父戦地ヘ出発スルニ付決別ニ来ル(八月二十二日)
 
 右の人々は生きて故郷の土を踏むことはできるのであろうか。政助は八月十日の黄海の海戦で戦死した。
 
  田下ノ内田十日ノ海戦ニテ戦死セシニ付、オ里ヲ見舞ニ船戸ヘ遣ス(八月十三日)
 

Ⅱ-4図 黄海の海賊を伝える新聞(明治37年8月13日『いはらき』)

 新聞は黄海の勝利を大きく報じている。当方には損害はなかったという。政助の葬儀は九月二十七日に執行された。
 
  田下ノ内田方寄。名政助戦死送葬ニ至ル。暮帰宅。未曾有ノ盛大ナリ。
 
 およそ感想が綴られることのないこの日記で、僅かに垣間見ることのできる作者の感想である。作者もまた時代の子であった。戦死者を悼むより、葬儀の盛大さに目を奪われたのであろう。この頃旅順の攻撃は失敗をくり返し、屍が山をなしていた。東洋をめざすバルチック艦隊は地中海へさしかかろうとしていた。日露の戦争はまだ緒戦にすぎない。