常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第二章 新しい石下地方の発展

第二節 地主と農民

労働力の販売によって現金収入を図らねばならなくなった下層の農民に対し、中、上層の農民といえども安泰な地位にとどまることは許されなかった。米以外に確実な収入をもたらす作目の模索が、畑作地帯の農民にとっては必須であった。旧来の多彩な作目群に代って、養蚕業に熱い視線が注がれたのである。
 Ⅱ-2表は養蚕業発展の指標として、桑園面積の変化をみたものである。表の数字については、必ずしも信憑性が高いとはいい難いが、一応の傾向としてみておこう。
 
Ⅱ-2表 桑園面積の推移
結 城 郡岡 田 郡豊 田 郡県   計
 
明治16年
町    
74.9(100.0)
町     
9.9( 100.0)
町     
1.8( 100.0)
町     
696.5( 100.0)
  17年74.9(100.0)9.0( 90.9)49.8( 2766.6)891.8(1280.4)
  18年78.5(104.8)12.4( 125.3)45.4( 2544.4)1 202.5( 172.7)
  19年71.5( 95.5)7.6( 76.8)62.3( 3461.1)1 372.5( 197.1)
  20年81.9(109.3)11.0( 111.1)63.8( 3544.4)1 782.6( 255.9)
  22年65.3( 87.2)65.3( 659.6)7.5( 416.7)1 763.0( 253.1)
  23年65.1( 90.9)68.2( 688.9)8.1( 450.0)1 960.8( 281.5)
  24年213.6(285.2)213.6(2157.6)12.3( 683.3)7 807.3(1121.7)
  25年219.7(293.3)15.2( 153.5)131.1( 7283.3)6 411.2( 920.5)
  26年160.2(213.9)35.6( 359.6)207.6(11533.3)8 860.2(1272.1)
  27年255.7(341.4)127.3(1285.8)235.6(13088.9)7 163.7(1028.5)
  28年272.3(363.6)120.2(1214.1)246.1(13672.2)8 491.8(1219.2)
各年分「茨城県勧業年報」による.ただし明治28年は茨城県統計書,( )内の数字は明治16年を起点とした指数である.


 
 全県の数字をたどってみれば、不断に桑園面積が上昇している。この傾向は明治末年まで維持される。しかし明治末には、桑園面積の増加にもかかわらず収葉量が減少する傾向が指摘され、その原因として、「秋蚕勃興ニ伴ヒ桑葉濫伐ノ結果樹勢衰頽セシト一ハ肥培宜シキヲ得サルニ基因スベシ」(『産業調査書(全)』明治四十三年)と、本県農業の伝統ともいうべき粗放性がここでも指摘されている。
 しかし、明治十年代後半から二十年ころまでの桑園増加の理由としては、「当業者ハ熱心増殖ニ従事」したばかりか、「養蚕家ノ熟達ト共ニ漸次多数ヲ飼養スル」ようになったため、「其利益他農業ニ優ルヲ以テ新タニ栽培セルモノ亦多シ」といわれている。しかも従来桑園は山林原野を開墾して造成されていたが、利益が大きいので「従来ノ畑地ニ栽植セルモノ就中多シトス」とも報告されている(『茨城県農事調査書(現況之部)』明治二十一年)。
 桑葉は養蚕農家が自家消費用に栽培されるというよりは、むしろ販売用に栽培されるのが一般的であった。さきの報告書は、桑葉売買の慣習をつぎのように述べている。
 
  桑葉ハ概シテ刈取リ売買ナレトモ、養蚕ノ初ヨリ用ユルモノハ立木ニテ売買ス刈取売買ハ一束三尺縄結ト
  ナシ六束ヲ以テ一駄(三十六貫)トセリ。立木売買は大凡何駄ト見積リテ売買ス
 
 町域でも、このような桑葉売買の事例は稀ではなかったようである。
 
     桑葉売渡証
  一桑葉七駄也 壱駄参十六〆目ノ定メ
  一桑葉所在地 [軽部長吉所有郡村宅地生存不足ノ分ハ他畑ヨリ増補ス]
  一同刈入取リ期日 本年内春蚕四眠后
   此売渡代金拾五円也
  右桑葉七駄頭書之条項ニ依リ売渡シ代金正ニ請取候処実正也。依テ為後日桑葉売渡証如件
     明治四十年三月二十五日
                                    岡田村大字向石下
                                           軽部圭三郎印
    同所 増田治助殿                              (増田務家文書)
 
 右の史料はかなり時期を降った頃のものであるが、それにしても、早期の桑園は河沿いの土地を選んで仕立てられたというから、かなりの高収益が得られたといえよう。引用の史料においては、ほぼ一反前後の土地で一五円の代金を得たことになるであろう。ただし、ここには地主小作関係が介在する余地はなかった。さきの調べでは「桑園ヲ仕立ツルモノ、大概地主ニ限レルモノノ如シ」とあり、小作人は借用した畑に桑苗を作付けることは、厳しく制限されていた。したがって、たとえ小作畑の畦間に植樹されることがあっても、「桑葉ハ地主ノ進退スル所トナル」とあり、小作人が処分することはなかった。
 明治二十一年(一九九五)に行なわれた桑園と水田、畑の収益を比較した調査が残されている(Ⅱ-3表)。町域は含まれないが、旧結城郡の数字である。表からは、桑園の収益が水田や畑を大きく上回っていることが読みとれる。これは、桑葉の代価が高いことが、大きくモノをいっているためであるが、栽培費についてみても、労賃部分が低く押えられているのがめだつ。
 
Ⅱ-3表 桑園収益比較
桑      園水      田
 


 
公租公課
円 
0.864
円 
0.602
円 
0.214
円 
2.455
円 
1.836
円 
0.604
円 
0.864
円 
0.602
円 
0.214
種苗代0.1800.1800.1800.2800.2800.280
肥料代2.0002.0002.0002.0002.0002.0002.0002.0002.000
耕耘,人夫賃2.0002.0002.0004.3504.3504.3503.0003.0003.000
4.8644.6024.2148.9858.3667.1366.1445.8825.494


種 類大豆 麦大豆 麦大豆 麦
数 量16駄12駄8駄240斤224斤120斤350斤280斤170斤
代 価16.00012.0008.00010.85910.1445.4078.5786.8634.631
損   益11.1367.3983.7861.8741.778(-)1.7292.4340.881(-)0.863
数字は反当である.「明治廿一年分茨城県勧業年報第八回」による.


 
 このような高収益をもたらす桑園の経営ではあったが、さきにもふれたように明治末期にいたれば、収葉量の減少が茨城県養蚕業の重要な問題となる。これは蚕業経営を根底から破壊しかねない問題であった。
 
  栽培其宜シキヲ得ハ一反歩ノ収葉量二百五十貫以上三百貫ノ収葉ヲ得ヘキモ、一般状態ヲ通観スルニ漸ク
  百六十貫ノ少額ヲ得ルニ過キス。之レ近年夏秋蚕飼育ノ勃興ニ伴ヒ同一桑園ヨリ再三摘葉スルノ結果樹勢
  衰ヘ恢復スルノ余地ナク却テ減収ヲ来シタルモノニシテ……(『産業調査書(全)』)
 
 右のような桑園面積の増加は、当然養蚕戸数の増加を伴う。元来町域における養蚕戸数は、県内でも上位に入っている。農家戸数に占める産繭戸数の割合は、明治二十年に豊田郡において一〇%を越え(四二二戸)、岡田郡でも八%近い(二二六戸)。これが明治二十八年には春蚕飼養戸数だけで岡田郡において一〇%を僅かに越えたにすぎないが(二九三戸)、豊田郡では四二%(一八一五戸)にも達している(茨城県平均で二二%、結城郡で三〇%になる)。
 産繭高についてみれば、明治二十年の一戸当りは岡田郡で六斗一升、豊田郡で五斗七升(結城郡では一石四斗四升、県平均でも一石一斗二升にもなる)であるから、零細な飼養農家が多かったとみてよい。それが、明治二十八年には、豊田郡では二石四升と三・五倍にもはね上り、岡田郡でも一・六八石に上昇する(結城郡では上昇は緩慢で一・七六石、県平均で一・六石)。このような増収の理由について、『茨城県統計書』は、「前年度ニ比スルニ飼養戸数ニ於テ……増加シタルハ、近年生糸相場騰貴ノ影響ニ外ナラス。繭石数ニ於テ……増加シタルハ養蚕家ノ増加ニ依ル」と、外的な要因で説明している。
 養蚕業の収支計算はⅡ-4表にみられるとおりである。明治二十一年の蚕種一枚当りの数字であるが、桑葉代一二円六〇銭は、二五〇貫の代金で、ほぼ桑園一反分の収量に相当する。雑費には一円の炭代が含まれるが、この頃より火力を用いて蚕児を飼育する方法が採られるようになったためである。収支差引三円四七銭余は、必ずしも有利な副業とはいえないであろうが、明治後期以降、商品経済に侵蝕されはじめた日本の農家にとって、数少ない現金収入をもたらすものとして、挙げて農家が養蚕業に手をのばしたものである。
 
Ⅱ-4表 養蚕収支比較表(蚕種1枚当り)
収      入支     出
 
 
上 繭

8.5
円 
24.285
〃切繭0.81.000蚕種代1.600
下 繭0.50.250桑葉代12.600
賃 金6.000
蚕沙代100.400器具損代0.932
雑 費1.800
桑条代58.50.468
26.40322.932
「茨城県農事調査書(現況之部)」155~157ページによる.


 
 さらに明治後期になれば、県産繭の評価は低く、一石の平均相場は三十五円、これより低いのは、福井、石川、沖縄、北海道の一道三県にすぎない劣等ぶりであり、全国平均四一円を一五%も下回っていたのである。この前段で、調査は次のように誌している。
 
  県下産繭額ハ歳ト共ニ増加セルモ其改良ハ遅々トシテ進マス、徒ニ旧慣ヲ墨守シ、多クハ自然ノ気候ニ放
  任セルノ状アリ。幸ニ気候適順ナル年ニアリテハ相当ノ収繭ヲ得ルモ一朝不順ノ天候ニ遭遇セハ忽チ失敗
  ノ不幸ヲ見ルコト此レ皆然リ。……其飼養期間頗ル長ク、甚シキハ四十五日以上ニ亙ルモノアリテ……梅
  雨期ニ入リ幸ニ結繭シタル者モ、繭ノ光沢悪シク、解舒不良ニシテ糸量少ナク、上糸ヲ製スルニ適セス、
  随テ価格廉ナリ。元ヨリ飼育法ノ幼稚ナルヲ以テ繭価ノ低キ唯一ノ原因ナリトスヘカラサルモ……
                                       (『産業調査書(全)』)
 
 要するに茨城県の養蚕は気候任せで改良を加えないため、一度不順な天候に逢えば、必ず失敗する。繭の品質も悪く、とても上糸にはならないので繭価は安くなる。これを蚕の飼育法にだけ責を帰すのはどうかと思われるが、四七道府県中ビリから五番目ではひどすぎるというのである。